2010年12月19日日曜日

調査とヤルセ

ある日、親しくさせていただいているとある先生から、遅々として進まない博論について、ずいぶんお叱りを受けた。未だ、その時から状況は大きく変わっていないので、今度お会いした時にはさらにお叱りを受けるのだろう。しかし、この先生がおっしゃっていた、書いた後に研究したいことを数えてみた。先生が修論執筆者の進学の時にアドバイスされるという、4つ、5つには満たなかったが、いくつか調べたいことはある。

本来の研究を進めながら、少しずつヤルセの調査を始めて1年半になる。論文にも少しずつ「ヤルセ」の文字をちらつかせてみたりしている。

幸い、というか、今回いただいた仕事では、初の村調査をさせていただいているだけでもありがたいのだが、この村がヤルセの村だというので、益々ありがたい。しかも、2か村共に。

以前、Sagbotengaのモスクの話を書いた。このモスクに比べるとずいぶん歴史は浅そうだが、やはり、マリなどによく見られる形のモスクがある。Y村である。こうしたモスクの多くは一つの村の力だけで建てられたものではなく、この地域だと、OuahigouyaとかDjiboの富裕ムスリムの助力がある。このネットワークも注目しておかねばならないこと、今回はこんなことに目が行った。
ヤルセの村を訪れたのは、3か村目。どうも、経済、宗教的な影響だけでなく、実は、モシを称するヤルセがかなり多い。T村での聞き取りの際、近年になって、モシとの通婚が始まったというが、それまでは、ヤルセの中での婚姻以外は認められなかった、という。人口統計には一文字も出てこない(モレを話すので)が、意外にモシ社会を構成するヤルセは、考えもしないような影響力を持っているのかもしれない。
とまあ、今日出国なのだが、環境の調査をしながらも、自分の研究にもずいぶん有益な調査ができた。後はワガドゥグにいる間の調査がもう少しできるといいのだが…
今度は1月10日前後からの渡航予定。仕事も研究も課題だらけだけど、ボチボチとやっていきたいもんです。

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2010年12月17日金曜日

とうとう始まった!(コートジボアール大統領選挙)

最悪のシナリオをたどりつつあるコートジボアール。

夕方のニュースでは、もう死者が出始めているという報道。5人までは追えたが、もう100人も亡くなったとかいう風説まで流れている。

夕食を友人の前妻が営む飯屋で摂った。友人も長くコートジボアールで過ごし、彼の前妻は親類の多くがまだアビジャンに残っている。携帯(改めてすごいツールだ!)で現場の様子を聞く彼女。外出禁止令以前に、相当緊迫した市内。誰一人として外には出ていないという。そして、食料が不足し、何とか買えても米が1kg=2000Fcfa(ブルキナでは、50kg=10,000Fcfa程度から)とか。各派の軍も盛んに動き回っているともいう。もう内乱状態だ。解決の手段は限られた。本当に早く収まると良いのだが…

そして、ワガドゥグには、ノエルの装飾が増えてきた。去年もこの時期にワガドゥグにいたが、街が格段に明るくなっている。中心部の道には、ミレナリオが…少しずつ祭りのムードが高まるワガドゥグ。

国境という、境界を挟んでこの違い…ブルキナベは平和のありがたさをかみしめているのか…

2010年12月16日木曜日

そして始まる行進(コートジボアール大統領選挙)

今朝のラジオ放送で、市民の行進が始まったとの報道。

リポーター女史が興奮のあまり、何を言っているか分からなかったが、どうも、かなり大規模なものらしい。先ほどの岡村氏のブログによれば、軍の警護つき、とはいえ、バグボ派の国軍は主力部隊。一触即発、緊張は最高潮に高まった。

コートジボアールの歴史が動き出す行進。なるべく人が傷つかないように…

いよいよ…(コートジボアール大統領選)

最近、ネットが通じると岡村大使のブログを見ることにしている。どんな小さなカフェに入っても、大概の情報は入るが。

今日の記事、http://blog.goo.ne.jp/zoge1/e/fc392aef9a794e99378e94d0e1e0e0e4では、ゴルフホテルに立てこもっていた、ワタラ側の首相がいよいよ行動を起こした、というもので、いよいよ最終局面(であることを祈っているが…)を迎えた感がある。ワタラ大統領、ソロ首相の新勢力軍と国軍の間でのにらみ合い、国連平和維持軍の仲裁。もっと離れた、監視の目の行き届かないところで始まってしまえば、なし崩しで危うい状態に突入することだろう。

ブルキナは、相変わらずどこ吹く風…

盟友逝く…

確か出会ったのは5年ほど前の「コメ兵」。あからさまに「探検隊」的なフィールド靴。


今日、村を歩いていたら、何か靴底に異変が…




靴底が減って、そろそろ寿命だと思っていたけど、つま先から真ん中にかけて完全に割れてしまった…
良く頑張った!

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村の魅力

都市研究を始めたのは、ソバージュ(野性的)な生活をする自信がなかったというか、一応、それまでの人生のほとんどを、超都会的に過ごしてきたので、どちらかと言うと、排気ガスにまみれていた方が落ち着くから。

今回の調査もそろそろ終盤に差し掛かかる。TとYも、村の人の顔をずいぶん覚えてきた。今までずいぶんサボってきたモレも少し真面目に覚えるようにした。村の純粋さ、というとてつもなくエキゾチックな幻想はさておき、乾燥しているのに埃がすくなかったり、静かだったり、という物理的な環境はとても気に入っている。

初めての村調査で、確実に自分が「ハレ」の状態にいて、調査の最初がいつでもそうなように、聞くことが珍しく、そして、少しいつもの「初めて」と違うのが、街の調査との連関性で、どんどん繋がっていくヤルセの関係にさらにテンションが上がる。

もちろん、この調査本来の目的である、「砂漠化対処技術の普及過程」という、いくつかのファクターについて新たに知ることも多いし、少しずつ「見る目」ができてくるので、これも楽しい。

別に「村の魅力」ということでもないのだが、とにかく、結構なハイテンションでここまで来ました、ということで。それであっという間に残り4日。明日はワガドゥグでアポがあるが、明後日から、最後の粘りでもう2日間T、Y村を訪れてくる予定。もっと村の魅力に浸ってこようと思う。

2010年12月10日金曜日

Enregistrement!

締め切り2日前。

今の学校に入ったときは、如何に飲んでも仕事をするか、をモットーにしていたが、いつの間にやらギリギリ星人。2日前に登録(Enregistrement)したわけでなくて、登録することを「決めた」日なのだ。ははは…まだ実際の発表まで半年ある。が、多少の不安。

題名、要旨、フォーマット上での記入…今までのネタの焼き直しとは言え、ちゃんとした査読つきの発表。仕事の合間を縫って何とか完成。他の研究会のことでやり取りをしていた同期を捕まえ、(この同期は僕よりももっとギリギリ星人だったことが判明)チェックしてもらう。

締め切り7時間前に何とか登録完了。

久しぶりの人類学会での発表、なんとかなりますように…その前に、査読で振り落とされませんように…

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2010年12月9日木曜日

まちぼうけ…

今晩、仕事場のNさんがこちらに到着することになっている。

ただいま22時。Air Franceの到着予定時刻は20:45。

どうも、パリが大雪らしい。さっき、どんなもんか、パリの友人に電話をかけてみた。0℃くらいだろうと…そして、大雪。Nさんによれば、「窓から機体の鼻は見えてますが、尾翼が見えません」とのこと。視界100mないな。

空港でも情報が錯綜。20:45と言い張るやつがいれば、24:00という奴もいる。たぶん後者が正しいのだが、その前に欠航だとたまらないので、そろそろ空港に行ってきます。

今日は一仕事終わったから早めに寝たいのに…

2010年12月7日火曜日

コートジボアール大統領選

ブルキナファソの大統領選の翌週に行われた隣国コートジボアール(CI)の大統領選挙、ブルキナファソの大統領選挙が牧歌的に見えてしまうほど、危険な状況にある。

日々、友人と会うとCIの大統領選の情報交換になる。国境が閉鎖されたとか開いたとか、首都で暴力がおこり始めた、とか、真偽が定かでないような話が飛び交う。私たちも混乱しているのだ。そして、一方で、「牧歌的に」選ばれたブルキナファソのコンパオレ大統領のしたたかさが浮き彫りになる。

そもそも、CIの属国的な立場に見られたモシ台地を中心とするこの国。どうも、コンパオレ大統領以降、ずいぶんリスクヘッジを進めてきた。もちろん、その背景には、CIの発展の立役者、故ウフエ・ボワニ元CI大統領の死去によるCI自体の混乱、そして内戦、凋落があり、CIがもはや西アフリカ、フランコフォン諸国の盟主ではありえなくなったり、ナイジェリアやガーナの順調な発展、さらに、ベナンやトーゴの安定した(多少迷走しながらも)政治状況など、さまざまな状況があったのだと思う。もはや、独立以来続いたCIの後背地としてのブルキナファソの位置づけはない。

その証拠に、昨日会った、企業家C氏は実に余裕があり、隣国の大混乱が他人事だ。CIがダメになってもブルキナファソには大した影響はない、と言い放つ。そして、別の友人は、また以前のように、難民が出たりなんてことはないだろうか、という問いかけに、CIにいるやつはいるし、帰ってくる奴は帰ってくるだろう、まあ、ブルキナには仕事もないからね~、と笑い飛ばす。

こうした、ブルキナファソ庶民の無関心ともとれるような反応は、CIを混乱に貶めている張本人に自分がやっていることのアホらしさ、無益さとして評価されているということが届くだろうか。飛び交う報道に反して、もはや、あなたのやっていることはそんなに注目されていないのだ、という…

その中で、在CI日本大使の岡村氏のブログ上での発言は注目に値する。

http://blog.goo.ne.jp/zoge1

おそらく、岡村氏が綴る外交の最前線を、外務省は苦々しく見ているのだろうが、混乱した現場での決断のむずかしさを伝えている。

とにもかくにも、これ以上最悪のシナリオをたどらないように、祈りつつ…

今日は引きこもり。

一気に駆け抜けた今回のブルキナ滞在2週間。

気がつけば一日も休みを取っていなかった。涼しい気候のせいもあるだろうけど、移動中はいつもウトウト。ただでさえ重い体がいつにもまして重く感じる。

そんなわけで、今日はちょっと一日引きこもり。

だいぶ未整理資料・事務がたまっているし、明日からMさんがこちらにくるので、一日調整日ということで。

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2010年12月6日月曜日

夢。

大学生だったころ、95年入学だから、もう15年も経ってしまったけど、ずいぶん熱くNGOのことを考え始めたころだった。

M先生との出会い、いくつかのNGOとの関わり、そして周りにいた何人かの先輩や友人、いろんな影響を受けて、将来は、アフリカの小さな村で村の人と夜がな話をして、村の人たちに感謝されるNGOワーカーになるんだ、と思った。ヒロイック、エキゾチック、自意識過剰…いろんな評価ができるけど、20代前半の若者にとって、ある意味健全だった、というのは自己弁護しすぎだろうか。そして、そこからちゃんと足を洗えているだろうか。

何度かブログにも書いたが、10月からとある財団で研究員の仕事を仰せつかっている。調査がメインだが、おまけのように、土壌回復のプロジェクトが含みこまれている。形としては、あまり好みの形ではないが、おカネが先、その次に調査がある。今はその調査の過程で、昨日までの4日間、簡単な社会調査をした。

TとYという2ケ村がその対象だが、それぞれがヤルセの村で、モシとは社会構造が大きく異なる。「村」、という単位よりも小さな集落という単位での結束が強かったり、モシの首長制を踏襲していたり、フラニが非差別的な地位にいたり、その下にさらに奴隷がいたり…とにかく、調査者心理をくすぐることが次々と分かってくる。後1,2ヶ月あれば…と言うほど、確かめたいこと、聞いてみたいことがあるが、どうもこういう仕事はその時間の余裕を許さない。

昨日は、カウンターパートのローカルNGOに頼んで、T村に泊まらせてもらうことにした。昼間対面インタビューでは見られなかった表情、食事や茶を囲んでの楽しいひと時。少しプライベートの話を聞いたり、話したり。

夜、寝るときに思い出した、10数年前の夢。あぁ、こうやって実現するんだな…と。しばし感慨に浸る。それは、今こうしたい、とか、そういうことではなく、実は、その時持っていた将来の夢を追い続けていたのかも…とか、はたして、そのあと学んだことを元に、幾ばくかの修正ができているのか、とかを考えた。

ちょっとほろ苦くて、セピア色だったT村の夜…

2010年11月30日火曜日

「調査」

「調査」、僕ら人類学徒が日常的に使い、毎日、何回も頭をよぎる言葉ではある。

一応、今、僕もこの「調査」のために、この埃っぽいブルキナファソにいる。毎回の「調査」前に「調査」計画なるものをこのブログにものっけているのだが(恥知らずにも!)、今回はいつもと少し違う、「調査」屋としての「調査」に来ている。

これまで、「都市」という大きなテーマで「調査」を行ってきた私が、何やら環境という枠組みの中で「調査」を行うことになった。ある組織の中で行っているのだが、パートナーは開発系バリバリのスタッフ。仕事はとても丁寧で、気も優しく、僕とはまるで正反対。ただ、飛んでくるメールの量は半端ではない。「仕事」という中で行われている「調査」だということがヒシヒシと伝わってくる(僕の「調査」は限りなく趣味に近い気がする)。

「調査」で何か、人の本音のようなものに接している、と感じる人類学者、こういう仕事的「調査」には、微妙に拒否反応を示すことがある。パッと来てパッと「調査」をして、パッと帰る。たぶん、そのあとに本音や秘密がある、と感じてしまう。そこが大切なのではないか…でも、そんな悠長なことを言っている場合ではないらしい、という、日本の理屈もよくわかる。

日々葛藤…

優しいパートナー氏には申し訳ないけど、この「調査」を身体化するにはもうしばらく時間がかかりそうです。

2010年11月25日木曜日

カメラマンという人たち

ここ数年、「カメラマン(パーソン?よくわからないので、「マン=人間」のまま行く)」という人たちとよく知り合う。

某MというNGOのカレンダーの写真を取りに来た、Komさん(そして奥さま)、齢70を数え益々元気な女流カメラマンKobさん、そして、自身がブルキナベのIさん、他にも通りがかりでお名前を失念した方も何人か…

カメラマンと行動を共にすると、体力の消耗が激しい。ものすごいスピードで、しかも濃密な観察眼、そして、考えられないような直感を働かせている。凡々たる僕の感性では、これだけのパッションの強さには反応しない。なんで、いつも、「体調大丈夫ですか?」などと無粋なことを言ってしまう。きっと大丈夫なんだし、そこで倒れてもなんとも思わないんだろうな…と思いつつ。

しかし、一緒に食卓を囲んだりして歓談するのは本当に楽しい人たちなのだ。高速回転する脳みそとファインダーを通さずとも、ある視点からするどく突っ込むその発言、すごく学ぶことが多いし、刺激も多い。

今回のIさんも例にもれず。奥さまのMさんもとても面白い人だし、愛息Rくんもやんちゃ盛りで元気いっぱい。後1週間、もっと勉強させてもらいます。

大統領選挙(2010.11.21)

もう4日前になるが、21日に大統領選挙が開かれた。

ワガドゥグ到着翌日。微妙に時差ぼけであまり寝られず、明け方ころからウトウトしていると、数日前にワガドゥグ入りしているカメラマンのIさんから電話。「いいから来い!」と言うので、指定された場所に行った(つもりが、違う場所だったのだが…)。なんだかよくわからないうちに、タクシーに連れ込まれ、移動、市中心部の投票所へ。

やたらカメラマンがいるので、なんじゃらほい?だったが、Iさんの話を聞くうちに、そこにコンパオーレ大統領、ゾンゴ首相が投票に来るとか…

っていうか、僕はいていいの?ここに…

その辺のジャーナリストと話しているうちに、大統領到着。いわゆる「囲み」を受けるコンパオーレ大統領…

そして、ゾンゴ首相。

一応一国のナンバー1とナンバー2を相次いで見た後、Iさんに連れられ、同行していた某邦誌の記者のMさんと共に、L'obserbateur誌の記者たちと市内各所の投票所を回る。3,4か所ほど見て、いい加減疲れる。闖入者のMさんと僕は、インタビューを受けることになっていたのだが、O誌の取材はいい加減終わらない。Iさんのギブアップ宣言が出て、帰ろう、という話になってようやくインタビューが始まる。

Q「今回、ブルキナファソの選挙を見てどう思ったか?」

A「意外に静かでびっくりした(その辺の外国人でも超VIPに簡単に近づけるほど)。」

O誌記者に言ってないことを書かれたので、ここで反撃してやる(笑)。

今日、テレビを見ていたら、お隣のコートジボアールでも選挙だそうな。先週のブルキナの選挙に比べるとずいぶんと派手派手しい報道で、こっち側でよかった、とか胸をなでおろすのだけど、なかなかすんなりとは行かないアフリカの選挙で、決して「民主的」とは言い難いけど、人が死なないだけでもなんかいい国だな、と思わされたのんびりとした選挙だった。

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2010年11月24日水曜日

ANA

今回から、パリワンストップで往復することになった。

勤務先からの「移動で疲れないように」という配慮だが、とっても不思議。確かに、移動はしんどいけど、出発前にイメージトレーニング(「どこの乗り換えの時は走らねば…」とか…)しなくてもよくなった。

これまで勤務先が採用していたから、ということで、成田‐パリはANA起用。2,3年前に国内便に乗って以来、おそらく、海外便は会社時代以来、7,8年ぶり。なんかフライト・アテンダントがずいぶん頑張っていたイメージがあるのだが、あんまり覚えていない。

パリ便は12時間の長時間飛行。最初から、うる覚えの記憶通りの、なかなかの接客技術、対応もすごくスムーズ。一食目もなかなかおいしかったし、量も良かった。飛行中にこんなに映画を見ることもなかったけど、邦画を見まくった。まず劇場で見なさそうな『涙そうそう』とか、『オカンの嫁入り』。4本くらい見たような気がするけど、これ以上は記憶にない。小説も読めたし、まずまず、いいフライトだった。

ただ、残念だったのは、11:50出発のこの便。1食目が出てくるときのアナウンス「ご夕食をお持ちいたします」。えっ?夕食??ってことは…2食目はあまりに軽すぎる「朝食」、ホットドック+ビール(これは僕の選択)。到着するパリは16:30。おいおい、これから晩飯だよ…

まま。総合的に70点くらい。

出発。

しばらくブログほったらかしにしてた…

毎度のことで、19日に出国、20日にワガドゥグに着きました。毎度のことですが、えらく体力を消耗します。

今回は、10月から始まったら新しい仕事の調査が主目的。空いた時間にちまちまと自分の調査をやってきます。期間は1ヵ月。ただ、12月にいったん帰国した後、1月の頭にはすぐに再出国なのですが…ただ、年末年始は日本で過ごせる予定。何年ぶりかです。

この時期のブルキナは朝晩の気温がグッと下がり、寝苦しい、ということがなく、もしかしたら雨期よりも楽かもしれません。ずいぶんたくさん宿題を抱えてきているので、こちらでがっつりこなしてこようと思います。

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2010年11月8日月曜日

終戦

「あと何回こういうの(優勝)を味わえるのかな」

和田選手がリーグ優勝を決めた時に谷繁選手とかわした言葉だそう(今日の『中スポ』より)。和田選手が38歳、谷繁選手が39歳。野球選手としては、もう晩年に当たる年だ。

日本シリーズ。史上まれにみる激戦だった。2日連続の延長戦。

僕も戦った。毎日のように鍋を用意し、野球観戦に備えた(え?!)。テレビを見ながら一喜一憂。名古屋にいるからか、街中が野球を見ながら、同じ場面で声を出しているような錯覚をもったりもした。野球も鍋も楽しかったし、一年間、怒ったり、喜んだり。負けはしたけど、いい一年だった。ここまで楽しませてくれたドラゴンズ、またプロ野球に感謝。あ、後、最後の2試合、CMなしで全部放映してくれたフジ系列に最大限の敬意を(できたらもっと放送枠をふやしてくれー)。

まま、ともあれ。ベテラン選手も若手の選手も、来年の闘い準備の前にしばらくゆっくり休んで英気を養ってほしい。

2010年10月26日火曜日

発表@九人研(九州人類学研究会)

はっきり言って怖い…おかげさまをもちまして発表させていただくことになりました。

都市計画で離散した人びとがどのように「不安」を乗り越えているのか、ということを話そうと思っています。あまりにノー天気でオプティミスティックな話です。「不安」は乗り越えないといけません。

発表前の私も「不安」です。しかも、「土地(「場所」か…)」も違う、アウェイ。あぁ「法」にかけられない…
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
九州・沖縄地区研究懇談会(第9回九州人類学研究会オータム・セミナー)
日時: 2010年10月30日(土) 13:30~31日(日) 12:00
会場: サンビレッジ茜 (福岡県飯塚市山口845-38)http://www.akane-ski-fukuoka.com/

プログラム: 九州人類学研究会のウェブサイトもご覧ください。https://sites.google.com/site/kyujinken/

セッションA: 「土地・法・不安:「開発」に揺れる人びと」
木村周平(富士常葉大学社会環境学部) 「土地と大地をめぐる不安について―トルコ、イスタンブルの耐震都市計画の事例から」
高野さやか(東京大学大学院総合文化研究科) 「土地をめぐる期待と不安―インドネシア・東スマトラの土地紛争における争点の移動」
清水貴夫(名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程) 「茶会がつなぐキズナ―都市計画による離散を乗り越える人々の営み」
松岡陽子(名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程) 「希望のない土地―ケニア農村地帯に成立したスラム」

コメンテータ: 石垣直(沖縄国際大学総合文化学部)

セッションB: 「エイジングの人類学―高齢期と『幸せ』」
高橋絵里香(日本学術振興会特別研究員) 「エイジングと地域福祉における道徳論再考―社会的なものの領域をめぐる語り口から」
加賀谷真梨(日本学術振興会特別研究員) 「『親密圏』再考―沖縄の高齢者福祉の現場に見られる人びとの<間>に着目して」
福井栄二郎(島根大学) 「命名とケア―ヴァヌアツ・アネイチュム島の高齢者の実践から」 後藤晴子(九州大学大学院人間環境学府博士課程) 「老いの安寧と死の関わり」
コメンテータ:片多順(福岡大学人文学部)

備考: 参加申し込みの締め切りは10月15日(金)までです。
すべてのご連絡はメールにてお願いいたします。電話連絡は緊急の場合のみご利用ください。
問い合わせ先: 九州・沖縄地区研究懇談会担当理事 太田好信 九州人類学研究会会長 古谷嘉章 九州人類学研究会事務局 關一敏
九州大学大学院 人間環境学府 比較宗教学研究室 〒812-8581 福岡市東区箱崎6-19-1 Tel: 092-642-2424
E-mail: religion@lit.kyushu-u.ac.jp
URL: https://sites.google.com/site/kyujinken/

2010年10月18日月曜日

「人類学も人文科学における嗜好品みたいなもの」

「茶」について調べている。

今度の研究会のネタだ。都市計画でバラバラになった人たちが、「茶会」によって、日々引き寄せられ、話す場を作りだし、関係性を保っている、という話。

「茶」をどういう風にとらえるか、と言えば、「嗜好品」として人間関係を媒介するものとして解釈しておくしかない。「嗜好品」というのは、「 「通常の食物」ではない。だから、栄養・エネルギー源としては期待しない」なのだそうだ。確かに、タバコもコーヒーも、生きて行く上では大して必要はない。「茶」もやはりそうだろう。エージェントになるからこそ、「茶」の機能を果たす。

ただ、生きて行くためにあんまり必要ないから「嗜好品」と言うのは研究が少ない。少なくとも人類学では。タイトルの一節は、今は亡き江口一久先生によるもの。「学校教育で、マイナスとされるものも、嗜好では、高く評価される…そこに、文化的弾力性みたいなものが出てくる。規制づくしでははかれないファジーな部分もあって、人生というのは進んでいくといえよう」として、人類学でももっと研究しないといけない、とする。

いい先生だな…と思う。

引用はすべて 高田公理+栗田靖之+CDI編2004『嗜好品の文化人類学』講談社選書メチエ

2010年10月14日木曜日

一難去ってまた一難…

マラリアは完治した。

しかし、薬とマラリア自体が体に及ぼす傷痕は浅くなく、γGTPが200越え。以前の肝炎もどき以来の数値となる。別に肝炎でもないので、おとなしく禁酒生活を楽しめばよいだけ。

もう「一難」は、すっかり忘れそうになっていた、「T」。風でも痛い、あいつである。大概痛みには強いから、ちょっとやそっとではまいらないが、「T」の脳髄をかきむしるような痛みはなかなかつらい。それにしても、発作らしい発作は3年ぶり。マラリアの検査をしたときに、少し脱水症状を起こしていたので、これが誘発要因になったものだろう。というのは、食べ物類では、それなりに気をつけていたので、起こりようもないし。

しかし、休んでいる暇はないので、今日も出勤。皆さまも健康には気をつけて…

2010年10月8日金曜日

終わり!

病院に行ってきました。

検査結果は検査Ⅰ(薬品)(-)ネガティブ、検査Ⅱ(顕微鏡)0。

全滅。

メファキンは割と副作用が少ないらしいけど、めまいとか頭痛とかいろいろしんどかった。ドクターによれば、マラリアが原因かも…ということだが、めまいが薬品くさい。

毎度のことだけど、この戦いは体力を消耗する。闘い直後の数値を見たのは今回が初めてで、そのボロボロさが目立つ。1ヶ月後に経過を見ることになった。

いずれにしても、数日間は静かに。

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2010年10月5日火曜日

パリュ

マックスバリューではない。フランス語でパリュディズム(スペルは面倒くさいので省略)=マラリアである。流行地では、「パリュ」で通じてしまう。

一昨日の夕方、背筋に冷たいものが走る。久しぶりの感覚…「あぁ、きたな…」と。その後、あの独特の寒気がする。暑がりの僕が毛布をかぶってまだ震えるほど。

大体、症状はこんな感じ。

①寒気
②熱が上がる
③一気に汗が出て熱が下がる

決まって夕方と夜中にこれが繰り返される。とにかく、水分を取らないといけないので、枕元には水のペットボトル。

彼の地では、薬も豊富だし、初期治療さえすればさほど怖くないが、日本は、ある意味後進地。その意味で非常に焦った(今も焦っている…)。今回は殊にモスクでの生活でずいぶん蚊に刺されたので、薬を買って帰ろう…と思っていたのに、最後の最後で忘れてしまった。ただ、名古屋東市民病院に8種類もの抗マラリア薬が準備されているのには驚いた。ドクターは専門外、と言いながら、メファキン(確かJICAもそれを遣っていたはず…)を処方してくれた。

三日目の第2クールを終えて…早く治りますように…

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2010年9月30日木曜日

あの人が…

「名選手は必ずしも名監督ではない」、最近のスポーツ界を見ていると、名選手の多くは名監督でもあるようだ。我らがドラゴンズの落合監督然り、巨人の長嶋元監督やらソフトバンクの王元監督なんかもそうだ。

時差ぼけで変な時間に起きたので、ネットサーフィン。

カーワンHC「日本の強さ証明する」=開幕まで1年切ったW杯ラグビー(時事通信9月30配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100930-00000018-jij-spo

カーワンと言う人は元NZ、オールブラックスのエースプレーヤー。当時としては、ずいぶん大きなウイングで、NZ引退後に日本の実業団でプレーをしていた。さも、メジャーのバリー・ボンズが日本の球界に入ったようなものだ。その年、僕は何試合か見に行ったんだけど、本来、ウィングのプレーヤーがひとつ内ッ側のセンターに入る。当然、プレッシャーが強くなるのだが、この人が日本でやれば、ペンペン草も生えない。最後は5人でカーワンを止めていた。こんな人が日本の監督(ヘッド・コーチ)をやっているとは…

いずれにしても、「日本の強さ」、しっかり証明してほしいもんです。すっかり斜陽のスポーツになってしまって、僕もすっかり見なくなったし、やらなくなってしまった。ちょっと注目してみようかと思う。

2010年9月29日水曜日

時差ぼけ

無事に帰国しました。

帰りは、初めてではないでしょうか。ずっと人と話しながら帰ってきました。

ブルキナ→パリはKさん、パリではIまやさんとKさんと朝ごはん(Iまやさん、ごちそうさまでした。)、そして夜にはMさん、Iさん、Rくん家族と食事、パリ→東京は空港で知り合ったHさん…

おかげさまで、退屈せずに帰ってこられましたが、話しこみすぎて寝不足…Hさんはコックさんで、フランスに仕事を探しに行っていたらしいのですが、彼の知的好奇心ときたら、尽きるところを知らず。ある意味、あれだけの強い興味を持って人と話ができたら、とうらやましい限りでもあるのですが。

ともあれ、本当は少し荷物の整理でも…と思っていたのですが、結局爆睡。そして、まだ眠い…微妙に時差ぼけの兆候が…

2010年9月26日日曜日

カネと人間関係

NGOは本当にサバイバル。調査はおカネの面ではほんの少し余裕がある。

少しずつ持ってくるおカネが増え、今回は一番楽をしたように思うけど…実は、結構な人数におカネを貸した。

ある人は奥さんの急な病気のため、ある人は子どもの学費のため、ある人は税金の支払いのため…日本円にすれば合計でも大した金額ではない。それぞれに事情があり、僕との関係性がある程度成熟した人たちばかり。そっとあげても良かったのだけど、たぶん彼らなりのけじめをつけるべく、口をそろえて「返す」と言った。

僕はそれを信じてみた。大方無理だろう、と思いながら。

やっぱり無理だった。

少し腹立たしく、でも、できたら、話をして返せるだけ返してもらおう、と思って、彼らの元に足を運んだ。その中の二人の民芸品売りは、気まずくて僕と顔を合わせようとしなかった。でも、一人をとっ捕まえて、「どうするんだ?」と問い詰める。この儀礼は必要だし、これに対しては、「返す」と言った彼らの責任を表明して、お互いの承認を得ないといけない。もう一度、以前のような関係性を回復するために、負ったものはお互いに清算しなければならない。最終的に、モノで回収しようと思っていたので、今回は一切土産物を買わなかった。思った通り。買値は少し高め。清算してさらに少し利益がでるようにした。でも、もう彼とは付き合わない、と思った。逃げたもう一人は、回りの友人に話をした。彼らは驚いていた。たぶん、彼は相当信用を失ったことだろう。他にも同じようにカネを貸した奴がいたから、もしかしたら、しばらく、苦しい思いをするだろう。

税金を払うと言っていた、ホテルの前のカフェを経営するラスタマン。2週間返済を待ち、帰国日にして「明日なら…」と言う言葉が出てくる。これは怒らないといけないと思い、叱りつけた。自分がツケ払いで首が閉まっているのに、人にもツケをするのか?

奥さんの病気のため、おカネをかしたタクシードライバー。現金で返すのがつらいだろう、と思って、車が必要な時は極力彼を使った。道は覚えられない、時間は少々ルーズ、それでも知人を紹介したり、仕事を増やしてやる努力もした。幸い、奥さんは健康を取り戻したが、ある日、彼は消息を絶った。携帯の調子が悪かったりすれば、僕の居場所を探してくれる奴だったけど、今回は全くその気配もない。体を壊してやしないといいけど、と思いながらも、いずれにしても、僕には会えない、と思っているのだろう。

何やら、アルカイダ騒動で、観光客が激減、と言っていたが、なにか?アルカイダのせいで【友達】から借りた金が返せないって?なんで必要ない民芸品を買って、ちょっとその辺まで行くときに車を使って、飲みたくないまずいネスカフェを飲まねばならんのだ?

街で暮らすのは大変だ。すべてカネ。人の命もカネ次第。カネが人を救いもするし、足りなくなれば路頭に迷いかねない。同情するし、少しでも助けてやりたいと思う。ほんの少し、彼らよりも余裕があるので、ちょっと愚直かもしれないけど、「兄弟」と呼んでくれる人たちを助けてやりたいと思う。でも、自分が発した言葉に責任を持つ、異文化ではなく、ここの人たちだって、それがどれくらい大事なことか、よく分かっている。だから、苦しいときに頼った人を裏切ったとき、その関係性が崩れてしまうこともよく分かっている。でも、それが実際にできなくなってしまったら、どうするか。そして、僕はどうするか。何も言わずに許してやる優しさは一個人としての彼らのためにはならない、そう思った。たぶん、この関係性をプツンと切ってやること、一人、自分に寄り添ってくれる人がいなくなることの方が幸せなのかもしれない、と思ってしまった。

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2010年9月24日金曜日

クロックス焼け。

雨期とは言え、日差しの強いブルキナファソ。あんまり知っている人はいないかもしれませんが、割と色白な僕。日本にいれば、夏でも赤くなっておしまい。2,3日ですぐに元の色に戻ってしまう。

汚い写真を失礼しました。

ここ数回、クロックスを愛用しています。水陸両用。9.1の洪水のときも地にしっかり足をつけてこけることもなかったですし、少々蒸れますが、衝撃にも強く、デコボコ道の多いブルキナでは怪我することも少なくなりました。

で、この写真。病気ではない(はず…)のですが、気持ち悪い斑点。そう。クロックスの穴の跡通りに日焼けしているんです。ほぼ毎日クロックスで外出しているわけですから。最初は泥汚れかと思っていたんですけど、こすってもこすっても落ちないので、ある日、「あ、クロックス焼けだ…」と。

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2010年9月20日月曜日

長い道のり

ここのところ、ずっとオヤジ氏経営の「和が家」に行っていなかったので、久しぶりに顔を見せる。

そこに、パスポートセンターでお会いした日本人ご夫婦が座っていた。お話を聞くと、日本からずっと車とバイクで旅行されているとのこと。ロシアからヨーロッパへ、そしてアフリカへ。5か月ほどかけて旅行されているお二人。旦那さんは関西の大学にお勤めの経験のある歯医者さん。年はオヤジ氏の一つ下だという。旅程も長いが、人生の上でも長い道のりを歩まれてきている。

お二人から砂漠の話を聞いていると、青い布をまとってラクダに乗ったトゥワレグが道なき砂の上を地平線の彼方に消えて行く、という一節があった。想像するだけでわくわくする。イスラームがここに渡ってきたのも、こんな人たちによるはずだ。

ジボで聞いた話。

コーラン学校で学んだ生徒は、その後ワヒグヤOuahigouyaを通り、いくつかのイスラーム都市を通ってジェンネDjenneへと修行の旅を続ける。何度か聞いたこの話。そのたびに、マリのジェンネ近くでイスラームを研究されている坂井信三先生の著作やお話を思い出す。坂井先生はフィールドで、ブルキナベによく出会う、という。

繋がる。

なぜ、ブルキナファソにはモシのイマームがいないのか?なぜ、彼らは移動するのか?そして、都市はどのように彼らに捉えられているのか?

牧畜や商売、宗教、人間を突き動かしてきた様々な営みは今でも営々と生き残っている。間違いなく、都市の問題や近代的な技術を含みこみながら、だが。現代の都市の問題を考えようとするとき、都市が人々の目的地である、と勝手に解釈していたが、未だに、都市は通り道の1点でしかないのかもしれない。都市が呼吸するように、人を吸い込み、吐き出しているのか、と思ったが、これもそうでもないかもしれない。

前回の調査あたりから、なるべく旅行もするようにしている。ボボ・ディウラッソやバンフォラは遊び、程度だったが、それでも、普段見ない景色の中に新たな発見があった。人間が移動した痕は、建物に刻まれたり、人の生活に居残ったりする。

その断片を拾い集めてみると、ご夫妻が見たような、トゥワレグがラクダに乗ってどこに行くのか、が分かるのかもしれない。

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2010年9月19日日曜日

ジボDjibo

今回の調査の最終章はジボDjiboのコーラン学校の訪問。

ジボは2回目の訪問で、1月のアミノゥの結婚式以来。そして、今回も相棒はアミノゥ。ワガドゥグから約200km。ブルキナファソの北に位置するこの街は、まさにサーヘル。彼ら自身が、ここをそう呼ぶ。しかし、雨期の現在は実に水の豊かな街だった。

アミノゥの小さな50ccバイクにまたがり、砂を越え、川を越え…村まで約5km。途中にこんな川があります。この小舟に少々興奮気味でしたが、なかなか風情のあるもんで、渡航時間約2分。カワイイ川です。

そして、その後は砂っぽい道をひたすら走る。村に着くと、マラブー以下たいそうなお出向かえを受ける。そこは、フラニの村で、人口はせいぜい300人。一つの家族が3代くらいの間に大きくなったものだという。


畑を見せてもらったり、いろいろと話を聞かせてくれたり、コーラン学校のシステムは非常にクリアになる。文化相対主義的な立場からは、NGOの施策に対して素直に大いなる疑問を(コーラン学校はダメ?)、そして、論文にも本にもよく書かれていなかった、学校のシステム、経営の面では、近代と伝統の相克がしっかり浮かび上がってきました。

そして、なぜブルキナファソのイスラーム社会において、最大民族モシの影響力が弱いのかとか、フラニやヤルセのイスラーム巡礼について、そして、ジボのイスラーム社会とワガドゥグのイスラーム社会の関係、西アフリカのイスラーム社会におけるジボの位置づけ…

初日の午後のジボ市内のコーラン学校の訪問は、アミノゥの名人芸が光りました。アミノゥはこの1年間の調査のほとんどに同行してもらいました。人類学どうこうという話はしたことはありませんでしたが、サンプル数を稼ぎたかった今回は、彼の人脈を最大限利用させてもらい、2日間で6校訪問できました。本当に、調査協力者によって調査の質も量も大きく変わってくるのだ、ということを実感させられた3日間でした。

※ちなみに、ジボのある地域を中心に、現在外務省から旅行自粛が呼びかけられています。くれぐれも、この記事は当地域の安全情報ではありません。調査者は調査協力者とその家族による保護が確定しているうえで調査を行っています。

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2010年9月12日日曜日

ラマダン終わる。

一昨日ラマダンが終わった。

一応2日間ほどお付き合いさせていただいたが、僕には拷問以外の何物でもない。なので、なるべく他のムスリムたちの前では飲み食いしないようにしていたけど、いろいろ言い訳しながらちゃんと飲み食いしていた。


しかし、ラマダン後のお祭りは礼拝(これが大事だったのに…)以外は参加してみた。と言っても、アミノゥの家のパーティに参加しただけなのだが。
アミノゥ宅は、割かし大家族。3家族が同居していて、総勢12,3人。家族と言っても、それぞれが独立家計で、何やらバラバラといろんなものを作っている。見ていて、面白かったのは、家庭内で食べ物の交換がなされていること。アミノゥ作の甘くないビサップジュースを隣の弟の家に持っていくと、おんなじビサップが返ってくる。ただ、味が少々異なり、弟家のビサップには、パイナップルシロップが入っていたりする。
飯食ってお茶飲んで、という、どのお祭りでも似たような行動をするのだが、オヤジさんの昔話とか、アミノゥのザングエテン時代の話によれば、つい7年ほど前までは、ラマダン明けのお祭り、タバスキ(ラマダン明け後40日)、バプテムは1週間お祭りが続いたそうだ。そして、食事の交換もそれくらい続く。ずいぶん牧歌的な話しだが、やはり時代だろうか。今では到底そんなことは考えられない。
そうこうしているうちに日が傾きかけたので退散したのだが、まあ、とりあえず、大手を振ってメシが食える、気を遣わずに生活ができるので、それだけでも楽ちんになった。

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2010年9月10日金曜日

半分ブルキナベ

2002年8月。会社で仲良くしていた後輩に会社を辞めることを告げた。

彼に語った夢。

「アフリカで飯を食っていきたい」

何で飯が食えるのか、想像力の乏しい僕は、さして具体的なイメージなどなかった。それでも、何とかかんとかブルキナファソに食らいつき、鶏肉の肉をほじるようにしゃぶりつくしている。

今日、ビザの更新のため、警察署に行った。もう何度も更新しているので、大概知った顔。飲み屋で会っても、適当に声をかけてくるほどの人たち。

今年からこちらで更新するビザの値段が跳ね上がり、今回は一番短い期間でお願いするつもりだった…

すると、職員の人から、

「もうお前はSejourのビザをやるよ。パスポート、いつまで?2015年までか、ラッキーだな。これで5年間、ここに来ることはないよ。」

と。そして、アミノゥから

「おめでとう。ムスリムになったし、これでほぼ完全にブルキナベだな。」

そしてさらに…毎回「今回が最後の長期滞在…」と思いながら出発するのに、また次回がありそうな話が出てきた。

何とかアフリカに喰わしてもらってます。

2010年8月30日月曜日

Bobo Diulasso, Banfora4

今回で最終回。

もうお見せできそうな写真がないので、文字だけにて。

バンフォラでは、その後、森重さんが活動するシアバターの工場を見学。彼女のバイタリティと粘り、製品に込められた熱い思いを聞く。1個7,350円の石鹸を売り出すという、なかなかエキセントリックなことをしていますが、非常にまじめです。よろしければ…

アダンセHP: http://www.a-danse.jp/about/

バンフォラを出て、ボボディウラッソに着いた時にはすでに日が西に傾きかけた3時ころ。なんとか暗くなる前にワガドゥグに着きたかったので、先を急いだ。しかし、そこは元気なKさん。虎視眈眈と夕陽ポイントを探していた。

途中、オウンデあたりの沼に照らされる夕陽。「止めて!」の一言で、車から飛び出すKさんに、アブドゥルとタバコをくゆらせながら交通整理をする(そんなわけで写真を撮るどころではなかった…)。でも、その景色はとても幻想的で、その景色と相対するKさんも神々しくもあった。

なんとかかんとか、9時ころにワガドゥグ到着。そうとう疲れていたのか、百戦錬磨のアブドゥルがワガドゥグで道に迷う、というおまけがついたが、無事にこの旅も終わった。

ボボ・ディウラッソは3回目(1回、マリに行った帰りに通ったな…)、バンフォラは初めての滞在となった。Kさんがいらしたこともあり、ゆっくりと見られたし、泊まるところもサバイバルな感じでなかったし、食事もきちんとしたところで摂った。初めてのゆっくりしたブルキナ旅行だったような気がする。

バックパッカーを気取って、20代前半からアフリカをある意味旅し続けてきたけど、やはりちゃんとしたホテルが気持ち良かったり、シャワーもお湯が出た方が落ち着く。いい年になったもんだと、自分で感じてしまう。ひたすら車に乗り続け、でも、とても楽しかった旅行のお釣りはそのあとの数日間の腰痛だった。

2010年8月28日土曜日

Bobo Diulasso, Banfora3

いよいよバンフォラへ。ブルキナファソの西側はボボまでしか行ったことがなかったので、ここからは初めての行程。
ボボディウラッソは台地になっている。何とか地溝帯というらしいが詳しくは忘れてしまった。台地を下りだすと、グリーンの絨毯のようなサトウキビ畑が広がる。「ブルキナじゃない!」が感想。
実は上の写真は後で紹介するドームから撮ったものなのだが、イメージ的にこんな感じ。ボボに向かうに従って緑が増えた、と言ったけど、その比ではない。


車から撮った写真。奥に見えるのがボボの台地。本当に目に優しい。

バンフォラでは、こちらの知人に「是非に」と言って進められた、Canne a Sucreというホテルを取った。ちょっと奮発したけど、フランス人経営らしく、部屋が非常にきれいで、びっくりした。ここに投宿して、少し街を回ることに。そのうち、6時を過ぎ、Kさんのリクエストで、夕陽を撮りに行くことになった。
電線が邪魔、ということで、電線がなくなるところまで車を走らせる。水田の中にヤシの木、その先に見える稜線…肉眼で見ているときれいで、目に焼き付けよう、そして、写真に残そう。隣にはプロのカメラマン、ということで、少しご指導を願いながら写真を撮ってみる。
ああ、真っ暗…
少しは雰囲気が伝わるかな…

翌日。お決まりだけど、観光コースを行く。最初にカスカッド(滝)を見に行くはずだったが、道を間違えて先にドームに行くことになった。我々も、その偉容に興奮したが、一番盛り上がっていたのはアブドゥル。スルスルとドームに登ってポーズ。
ブルキナ+観光=ちゃっちい。
という方程式で考えていたら、なんのなんの。このドームなぞ、奥行きがあって、なかなか立派な観光コース。トレッキングができるくらいに整備してくれるといいのだけど、そこらへんに危なそうな虫の死骸が転がっていて、草の生え具合を見ていると、蛇もいそうだし…とあんまり奥に入ろうという気にさせない。それはそれでいいわけか…

そして、カスカッド。またここに来るまでに道に迷いながら来るわけだけど、それもそのはず。もう身の丈2,3mもあるサトウキビ畑の間を抜けてくるので、どこもかしこもおんなじ景色。先も見えないし、どうしようもない。アブドゥル曰く、ガイドを雇ってもドライバーが道を覚えられないようにガイドするのだとか。
最終日は大急ぎで回ることになったが、まあ、ちょうどよかったのでは。【つづく】





2010年8月23日月曜日

Bobo Diulasso, Banfora2


モスクへ。

ワガドゥグの大モスクは1950年代の建設。ボボ・ディウラッソのモスクは1880年建設なのだそうだ。よって、ワガドゥグのモスクよりも70年ほど古い。

皮肉にも、この二つの時期は大きく植民地時代と重なる。

新しい方から見てみると、今年2010年が「アフリカの年」から50年。すなわち、1960年に一斉にアフリカ諸国が独立を始める。1950年代、というのは、この胎動が確認できる年代なのである。

そして、1880年という年。フラニの「ジハード」が盛んな年代で、フランス植民地主義に住民/イスラームが立ちあがった時期。いずれにしても、イスラームは西アフリカにおいて、いわば「錦の御旗」的な存在であったといってよいかもしれない。

この時期にこのボボ・ディウラッソのモスクが誕生したのは、この時代の流れと少なからず関係しているはずだ。ガイド氏によれば、「このモスクの建設には、ムスリムだけでなく、クリスチャン、アニミストが自発的に参加した」という。「白人」向けのガイド。決して、「なぜ」という問いに答えを持っているはずだったが、そこまで突っ込んで聞くことができなかった。自身の信条を超えた団結の象徴、ボボ・ディウラッソのモスクは、イスラームの遺産(現在も十分に稼働しているが)というよりも、もっと人間的な歴史を含みこんでいる。
モスク内部。厚い土壁でできている。壁の材料は、バンコ(日干しレンガ)、灰、土だそうだ。
今年のアフリカ学会で、ジェンネのモスクの発表をされた伊東さん(アフリカ学会URL http://jaas.sakura.ne.jp/taikai/47kai/fixed_program.pdf)がおっしゃっていた、日干しレンガについて質問したところ、思った通り、「丸い」日干しレンガを使用していた。不思議な話しで、なんで四角いレンガを使わないのだろう…


さらにマニアックに。
この建設方法、ジボDjiboの家屋、サガボテンガSagbotingaのモスク、全部一緒。木材(材質は分からなかった…)をびっしり張り巡らせる。格子状に張ればズレなくていいのに…とか思ってしまう。土が上に乗るから強度的にも弱いような気がする。
しかし、130年間、大きな改修をすることなく、持ちこたえているのだから、まあ、これでいいのだろう。
屋根の上に着いている明りとりの窓。ふたがカワイイ。サガボテンガのモスクは横に明かり窓があったような気がする。ふたをつけるあたりが、雨の多いボボディウラッソらしい。

そんなわけで、初日から結構充実した観光になった。Kさんに通訳をしつつだったが、このモスクを見られたので、後はお釣りのようなもの。まあ、なかなか楽しかったのだけど。【つづく】

2010年8月22日日曜日

Bobo Diulasso, Banfora①

8月初旬のこと。以前から連絡を取り合っていた、写真家のKさんがブルキナファソに到着した。


彼女は齢70を過ぎ、益々活発に写真を撮り続けている。本職は生け花の先生で、その傍らで世界各国の女性の写真を撮り続けている。今回は2006年以来の2度目の来ブル。前回はワガドゥグ周辺だけを回っただけ、とのことで、今回はせっかくなのでボボ・ディウラッソ、バンフォラも回ろう、ということにした。




実はボボ・ディウラッソは7年前と4年前にちょっと行った程度。バンフォラに至ってはお恥ずかしながら一度も行ったことがない。私自身のためにも、なかなかいい機会だった。

研究の方でも、多少なり意義があるだろうと思った。イスラームはこのルートを取った訳ではないだろうが、景色の中にモスクを探してみるのも、雰囲気を知る上で大切だし、ボボ・ディウラッソのモスクもじっくり見てみたかった。

上の写真はボロモBoromoのモスク。小さいけど、アラブ諸国からの影響を受けた形式のモスクであることが分かる。舗装道路沿いだけでも3つほどモスクが見られた。出発前、知人より、「ガリブ(物乞い)が多い」という情報はつかんでいて、この街道沿いの代表的なイスラームの拠点であることは十分に感じ取れた。


景色は西にすすむに従って濃い緑になる。この時期のブルキナファソの景色は目に優しい。乾期のホコリにまみれた赤い景色は、ついつい「不毛」を感じるが、その中から芽吹いた緑は、3カ月ほどの短い雨季の雨を一杯に吸い込んだ草木は瑞々しい景色を作りだす。

少しゆっくり目に9時過ぎに出発して、15時ころにボボ・ディウラッソ到着。早速モスクを訪れた。【つづく】


ノマッド→半定住

ノマッド生活から少し前進した。

結局、アブドゥルの友人の家に寄宿することになった。「ムスリムであるなら…」という条件で…

ただ、さすがに不便で、家には電気があるものの、ネットどころか机も、それを置くスペースもない。とにもかくにも、帰る場所、物を置く場所があるだけでもありがたいのだが、どうも落ち着かず、今週はほとんど家で状態。別にアブドゥルの友人が構ってくれるわけでもなく、その息子が少し相手をしてくれる程度(彼の名誉のために、彼はなかなかインテリジェンスのある見どころのある男なのですよ)。

今日、明日は原稿の準備のため、ホテルで仕事をすることに。まあ、今回はこの辺でしゃあないか…

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2010年8月17日火曜日

兄弟

アフリカにいるのに、野球が楽しめる。いい時代になったものだ。

時々、中日スポーツ(中スポ)の記事などを読むのだが、なかなか楽しい。ドラゴンズも微妙に波に波に乗ってきているし、数年間変わらなかったレギュラー選手を割って入る選手が増えてきたから、なおのこと想像力をたくましくさせるのである。

その中の2人。堂上(ドノウエ)兄弟。ドラゴンズ出身の父をもつ、生粋のドラゴンズ一家に生まれた兄弟が熱い、と一人で思っている。

弟はドラフトで取り合いにまでなった選手。なんでもできそうなユーティリティな感じ。兄はドラフト3位くらいだったか…力はあるけど、ちょっと不器用な感じを受ける。森野が若かりし頃の、鋭く、力のあるスイングがとても印象に残っている。兄はなかなか芽が出なかったけど、クリーンナップまで打たせてもらって、ずいぶん張り切っているのだろうな、と思う。弟も、球界の名選手、井端の怪我に乗じてのし上がってきた。

数字を見たら、まだまだファンの心をつかむのは難しいけど、長年ドラゴンズを追っている者とすれば、新たな萌芽を感じてしまう。昔、仁村兄弟がドラゴンズにもいたけど、もう少しスケールが大きな兄弟なような気がする。そのうち、3番、4番を打ってくれたらなかなか夢があるな…などと。

二人ともずっと二軍暮らしで、クサクサしてた時もあっただろうに、良く頑張って来てくれたものだと、なんとなく、親のように気持ちにさせる。

嗚呼、野球見に行きたい…

2010年8月9日月曜日

1ere Septembre再び?!

7月某日午後2時過ぎ。

激しい雨音が始まる。豪雨が『和が家』の屋根をたたく。

15時ころ、あの悪夢がよぎる。ワガドゥグでは、「プルミエール・セプターンブル」と言えば、洪水のことを指す。
しばらくすると、『和が家』のテラスの水が逆流し始め、門のあたりから濁った水が入ってき始める。あ、来たな、と思い、オヤジ氏と共に腹をくくる。



そして、16時近く。左の写真のような状態。9・1ほどのことはなく、せいぜいひざ上くらいまでの深さだったが、目の前の舗装道路は濁流と化していた。

前回、一番被害のひどかった、某NGO事務所近くをオヤジ氏と共に視察に行く。同時にこの街の様子も分かるのだが、9・1を経験した街の人たちの対応は冷静だった。水が前回よりも少なかったこともあるが、それよりも、前回浸水のひどかった南側のほとんどの家屋で、雨期が始まる前に家の入口に大小の堤防を築いていたため、そのあたりでは床上浸水には至っていないようだった。なんだかんだ言って、ちゃんと防衛策を取っていたのには驚いた。


翌日、このあたりの議員が回ってきた。街の人々の話では、「威張ってばかりで大したことはしない」と言うこの議員が回ってきた翌日の早朝、なんとワガドゥグ市長がこの地域を視察に訪れ、側溝がきれいに掃除された。側溝詰まりがここのところの洪水の原因、と捉えたらしい。

この迅速な行政の対応にさらに驚かされたが、実はそれはポーズに終わってしまうかもしれない。このあたりを歩いてみると分かるのだが、この舗装道路沿いに水が集まる構造になっている。確かに、側溝に目を向けるべきなのだが、側溝は小さすぎる。そして、この側溝の水がどこに行くのかがよくわからない。どこかに集中しているはずで、そこはこの地域以上に被害がひどくなっている可能性があるからだ。

この日の雨は新聞に載るようなことはなかった。大した被害が出なかった、ということでよかったのだが、やはりこの水害、人災だということは避けがたい。ワガドゥグ市には何やら考えていただきたいものだ。

ちなみに、オヤジ氏は再び洪水対策を講じ、防壁を新たに作っておりました。ブルキナベ共々、感服です。











2010年8月8日日曜日

ノマッド

Nomad:遊牧民

牛を追っているわけではないが、定住できない。毎度のことだが、小さな部屋を借りるのに四苦八苦している。2,3カ月、という短い期間なのもその原因なのだが、貸家にかかわる人々のいい加減さに毎日怒っている。

【事例1】2週間ほど前…

アブドゥルが一軒の家を探してきてくれる。古いが掃除をしたらきれいになりそうだ、ということで、手付を払った。20,000Fcfa。結構な額である。期間が短いので、内装の変更はなし、ということで納得。2日後の引き渡しで話が着いた。

引き渡し日。アブドゥルと共に再びそちらへ向かう。

扉を開かれたその向こうには、二日前と同じ光景が広がる。少しむかついたので、大家の使い(2日前も彼と話した)に、「なんで掃除できてないの?」と聞く。

「だって、洗剤と雑巾を買う金をくれなかったから…」

カチン!①。

「いや、20,000Fcfa、手付を渡したよね?(洗剤を何十キロ買うんだ!と思った。)」

「だって…(その後は覚えていない)」と言いながら、危険を察知したアブドゥルの動きがあわただしくなる。

カチン!!②

「ダマレ!カネだけ取って、頼まれたこともしないで、なんなんだお前は!もういい!鍵はいらん!」

【事例2】昨日
【事例1】と同時進行で、もう一つの物件も抑えていた。

<プロフィール>
こちらは、修繕途中で、到着早々に旧知のタプソバ氏から同じ敷地の物件を紹介を受けていた。ただし、来週には…という言葉を何度も聞いており、だんだん「怪しい…」と思い始めていた。しかし、イスラーム家庭と同じ敷地に住める調査上のメリットを考えると、なかなか手放せなかった。【事例1】の件もあり、この物件に決めるべく、「カネがあれば…」という大家の言葉に従い、2か月分、すべて支払い、8月5日の引き渡し日を迎えていた。そして昨日(8月7日)…

仮住まいのオヤジ氏の居酒屋から、網戸を頼んでいた大工のバイクに2ケツをしてタプソバ氏の家に向かう。土曜日ということもあってか、僕の借りる部屋は鍵がかかっている。そこに、施工をしている大工がやってくる。

「部屋に入りたいんだけど…」と言うと、鍵を開けてくれる。

建材の山+地面のコンクリートは壊れており+約束の扇風機はついておらず+シャワーの蛇口もない+壁は工事のためにボコボコ

大工に問う。

荒熊「何これ?もう契約が始まってるんだけど。床も壁もなんにもできてないじゃん。」

大工「いや、大家がこの状態でお前が入ると言っていたので…」

カチン1

荒熊「そんな約束はしとらん!そもそも、建材がこんだけあって寝られるか?お前がどんな生活をしとるか知らんが、掃除くらいしてから見せろ!」

大工「大家がカネをくれなかったから資材が買えずに仕事ができなかった」

荒熊「大家がどうこうの問題じゃない。大家が「掃除をするのか?」。契約が始まっていることは知ってるだろ?」

大工、そそくさと逃げる。後を追いかけると、「大家を呼んだ」とのこと。

40分後。大家がやってくる。そして何も言わずにカネを数え始める。そして、

「レシートを持ってきてくれ。作業員が時間を守らないから、契約を切ろう。」

カチン2+諦め。

そんなわけで、ここも契約解除。

契約など、所詮紙切れ。適当な理由さえあれば、大概破棄できる。お互い納得すればいいが、1ヵ月のかなりの時間を遣って、待ち、歩き、頼み。全部水の泡。調査はおかげで進まんし、しょっちゅう引っ越しをする羽目になっている。

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2010年7月26日月曜日

コーラン学校2 タリベたちとできの悪い生徒

前にこのブログにも書いたように、今回のこの調査、タリベ(コーラン学校の生徒)の生活を知ることが目的です。現在のワガドゥグのストリート・チルドレンにタリベが多いことが、いくつものNGOによって指摘されてきたからです。また、もう一つに、ワガドゥグをイスラーム都市と考えた時、ワガドゥグ市民の多くが幼少期にコーラン学校を経ていることからも、ワガドゥグ都市民を理解するうえでも、大いに意義のあることだと思ったこともあります。

そんなわけで、コーラン学校の滞在中、できるだけ彼らと話をすることを心がけました。本当に小さな10歳以下の子どもとは会話が難しかったです。わけのわからない「白人」の「オヤジ」が自分たちと同じ所で寝泊まりしているのですから、遠巻きに僕を眺めている状況で、なんともしがたかったのです。しかし、20歳前後の数名とはかなり話ができました。

彼らも「コーラン学校の生徒」ということで、日々コーランを読み、「信仰生活」という言葉にふさわしい生活を送っています。彼らの中でも最もシリアスにイスラームについて語ってくれたのが、アブドゥル(21)とユヌッサ(24)でした。

アブドゥルはモスクの前で小さな雑貨屋を営んでいるのですが、初日にタルが去るときに、彼に僕を託していったこともあり、ずいぶん強く責任を感じながら僕に接していたように思います。初日から、「これを覚えろ」とかいうフレーズが3つ4つ…アラビア語をラテン語表記したもので、とても簡単には読めません。もしかすると多少老化した脳みその僕に、苛立っていたかもしれませんが、気長に、ひたすら読み方を教えてくれます。

小学生以来、初めて、意味を持たない記号を覚えさせられたように思います。小学生時分、僕は相当優秀な生徒で、簡単にこんなことはできたはずなのですが、その後、すっかりこういうことが苦手になっていました。結果、苛立ったのは僕で、年甲斐もなく、途中で投げ出す始末…(お恥ずかしい)。そして、蚊の多さを言い訳にタルの家に逃げ込み、お祈りをサボると、翌日、「一緒にお祈りをしましょう」と言って僕がサボった分だけのお祈りを一緒にやってくれるのです。この時は、計8回連続でお祈りをしたのですが、スクワットと腕立てを組み合わせたようなお祈りをこれだけすると、腕がパンパンになり、困りました…

ちなみに、これは面白いな、と思ったのですが、イスラームのお祈りって、借金みたいなもんで、祈らなかったら、その分を後で返せば("payer"という表現をしていましたし)いいものらしいです。

アブドゥル、さらに、毎日食事と水を僕に届けに来るし、あまりに健気過ぎて、非常に俗な動機でムスリムになった僕としては、実のところ、とても気が引けてしまいました。動機不純と劣等感、妙にプレッシャーを感じながらのフィールドワークとなりました。

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2010年7月25日日曜日

コーラン学校1 蚊との戦い

1週間、コーラン学校で過ごしました。初日にバプテムをしてもらい、木曜日には結婚式、金曜日には金曜礼拝に参加しました。

これまで、とても宗教的とは言えない、俗っぽい日々を過ごし、人生初めて「宗教」に触れたと思います。ものすごい違和感に苛まれながら、一所懸命に客観視しようと努力して、少ない知識をフルに稼働させて、ここのイスラームを捉える努力をしました。まだ調査も始まったばかり…これからの調査の雰囲気をつかむのに四苦八苦しながら、問題の大きさに愕然としたり…

いろんな意味で考えさせられる1週間でした。

その1週間、もしかしたら、一番悩んだかもしれないのが、この時期、特にひどい蚊の襲来でした。モスクは仮のもので、バラック以前のもの。風通しはいいものの、反対に蚊からの防御を考えると、今までで最低の住環境。夜はどうやって蚊と対峙するか、これが課題でした。初日から3日目までは、「修行」と考えて、蚊の趣くままに自分の体を差し出しました。初日はイマームがくれた塗り薬をつけて、蚊取り線香をたきましたが、それなりに蚊に食われ、二日目は日本から持ってきたスプレーをつけて蚊取り、三日目はこちらで購入したクリームと蚊取り…雨の影響もあり、どれもさほど威力を発揮せず、蚊のサンドバック状態。

しかし、この「修行」はもはや自分に不必要。精神修養が今回の目的はないので、4日目、5日目は友人宅に逃げ込んだのですが、おそらく、蚊に食われたのは数百か所…いい加減、マラリアが恐ろしくなりました…

ちょっとコーラン学校を離れ、2日ほど休憩の予定。体力を回復して、次のコーラン学校に乗り込みます。

ちなみに、僕のイスラームネームはモハメッドです。アッサラーム・アレ・コム。

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2010年7月18日日曜日

長老逝く-合掌-

前回の調査、長老たちへの聞き取りを多く行いました。意外な歴史、外来民族がどのようにワガドゥグに入ってきたのか、ということがよくわかり、今回も少しずつ進めようと思っていました。

中でもヤルセの長老、el hadji Sieno Djiebre師はsagbotenga(http://cacaochemise.blogspot.com/2010/03/sagbotenga.html)に導いてくれるなど、本当にたくさんのことを学びました。小さな家に住んでいましたが、ブルキナファソの大金持ち、カナズュエ師の義理の兄にあたる人で、以前イスラーム協会の会長を歴任されていた方です。すでに年は80歳を超え、緑内障のため、視力は低下していましたが、当時は至ってお元気でした。少しトリッキーで、いたずらっ子みたいなおじいさんで、話の端々に配されたユーモアがなんとも面白いお話でした。

前回、調査を手伝ってもらっていたザカリアさんに、「写真は撮らなくていいのか?」と聞かれ、「いや、必ず会いに来るから、次回にする」と宿題を残したのです。調査の最後から2日ほど前だったと思います。残念ながら、この宿題は果たすことができなくなってしまいました。

今回も、ザカリアさんに会ったときに、アポイントを取ってもらうことにしてもらっていました。ちょうど先週の水曜日。その日は師は村での儀式のために日帰りでYakoの方に行っていて会えなかったのですが、金曜日にザカリアさんに改めてアポイントを取りに行ってもらったところ、すでに体調が悪い様子だったとのこと。

先ほど、ザカリアさんに打ち合わせのために電話をしました。一通りの話が終わった後、ザカリアさんからの「残念なお知らせ」が師がお亡くなりになったということでした。

ひょっこり迷い込んだ外国人の僕に、親切に、そして、知ることすべてを伝えてくれようとする師の話しぶりは、癒しのようなものでもありました。調査をしていて、これだけ話を聞いたことを喜んでくれた人はいなかったのではないでしょうか。「また会いたいな」と思った人の一人だったのですが…本当に残念です。

ご冥福をお祈りいたします。合掌。

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2010年7月14日水曜日

ムスリムになる

アミノゥ、タルに連れられ、トラムダキュイのコーラン学校を訪れる。

礼拝の後、午後2時。

コーランでは、10名ほどのタリベたちがイマームからコーランの教えを受けている。我々が到着すると、おもむろに2人のイマームがこちらにやってくる。

簡単にタルから紹介してもらい、面接を受ける。イスラームに心酔して…などという嘘を言わず、正直に、アカデミックな理由からコーラン学校、モスクの経営に関心がある、という話をする。

前もってアミノゥとタルから、調査をするにはムスリムにならないと無理、と言われていたので、多少の覚悟はできていた。イマームからも、同じように、ムスリムになる気はあるか?との問い。自分の信仰の問題に直結するので、本当はだいぶ躊躇しつつ、即答で"Oui"。

来週からブルキナ風のムスリムとして修業に出ます。

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2010年7月13日火曜日

あれから…

状況は一進一退、と言ったところ。

3カ月前にある程度目星をつけてきたはずのコーラン学校、なっかなかマラブーに会えません。モタモタしている間に1週間になってしまいました。

村で調査をしている方々に話を聞けば、もう家族同然の付き合いで、調査先に自分の部屋がある、と言った方もいるようですが、ここワガドゥグには、相当な金持ちでなければ部屋を取っておいてくれる人などいない、のではないでしょうか。そんなわけでここ数回、まじめに探してはいるのですが… 前回など、家主ともめなければいい部屋もあったのですが、どうも縁がありません。今度こそ、ということで、昨日改めて捜索をお願いしたのですが、明日には大方の回答を得られる予定。

コーラン学校、昨日KEOOGOのウスマンに連れられて、ワガドゥグの南端にある100名のタリベを収容しているコーラン学校を訪れましたが、上に書いたように、空振り。マラブーが里帰りしていました。今日は、トラムダキュイにあるコーラン学校を訪れます。こちらもどうなるか…

思い通り進まないのはいつものことですが、鬱屈とした状態で、快適な気候に任せて惰眠を貪ってみる。万年睡眠不足が解消されて、体調がよくなってきたのが唯一の進展でしょうか。

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2010年7月9日金曜日

調査計画書(2010年夏)

これをさらしておこうと思ったのです。自分に緊張感を持たせるためにも…

今回は、コーラン学校の調査…と銘打ってやってきました。一応、前回の調査で目星をつけてきたのですが、これまで20回以上見学を断られてきてコーラン学校…調査協力者ともう一度打ち合わせと思い、挨拶を合わせて、人に会う日々です。正味2日目で、前回もお世話になったアミノゥ、ずーっとお世話になっているKEOOGOのウスマン、後、街で見かけたと言ってホテルに駆けつけてくれた元ラスタ、現在は「敬虔」なムスリムのラミン…新旧の調査協力者総出で相談に乗ってもらっています。

早いところホテルを出たいのですが、来週真ん中くらいまでかかりそう。可能であればトラムダキュイのコーラン学校、これが難しいようであれば、ウスマンの紹介のコーラン学校に泊まり込みします。アミノゥには「そろそろお前もコーランを学ばないとな…(つまり、ムスリムにならんといかん)」と…酒と豚肉、止めるかな…
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2010夏調査 調査計画書

調査地: ブルキナファソ ワガドゥグ市およびその周辺
調査期間:2010年7月5日~9月29日(正味84日、パリにて1泊)
調査スキーム:笹川研究助成
「アフリカ都市のコーラン学校と地域社会に関する都市人類学的研究:ブルキナファソ、ワガドゥグの事例から」

◆コーラン学校Ecole Coranique調査(インフォーマント:トラムダキュイのコーラン学校、北部タンプイTampouyのコーラン学校)
・ コーラン学校での参与観察
■マラブー/イスラーム指導者への聞き取り
・ コーラン学校の成り立ち
・ コーラン学校の経営
■ コーラン学校の生徒(家族との関係概略、出自調査)
・ 就学年数、父母の状況、出身地。
・ 数名の生活調査
・ コーラン学校の統計的データの収集(Association islamique)
・ 研究計画(申請書より)
本研究では、ブルキナファソ、ワガドゥグのコーラン学校の現代的機能を明らかにすることを目的とする。応募者はこれまで、ブルキナファソの若者文化、ストリート文化を研究してきた。この過程で、メディアによる欧米文化の流入が顕著である一方、ストリートの若者の生活が伝統的規範としてのイスラームにより大きな影響を受けていることを目の当たりにした。都市における「学校」は、社会結節機関としての機能を果たしている。よって、コーラン学校によって若者たちの行動規範が醸成されているのではなかろうか。この仮説をワガドゥグ市のハウサ人社会のフィールドワークによって検証することが研究目的である。
(「応募者」となっているのは、今回の調査助成の際の原稿をそのまま使用しているからです)

◆KEOOGOへの調査
・ イスラーム社会への働きかけについての聞き取り。および、メディア露出資料などがあれば収集。
・ 2006年から2009年までのカルテ写真撮り。
・ いくつかの質問事項
eg) NGOにおいてなぜ「タリベ」が問題視されているのか?
ストリート・チルドレンの枠組みについての確認

◆ブルキナファソの教育状況
・ 初等教育のカリキュラム
・ 学校数、クラス数、収容可能人数
・ 上の独立後の変遷
・ ブルキナファソの教育行政、方針
・ 伝統教育(エコール・コーラニックなど)への対応
・ マドラッサの公的教育上の扱い
・ マドラッサを訪問し、指導者の出身や教育歴などを確認する。

◆トラムダキュイ+茶会の調査
・  アフリカ学会で発表した「茶会によって培われる共同性」についての追跡調査を行う。調査はトラムダキュイにおいて行う予定で、ハウサ、旧ザングエテン住民に焦点を当てる。
・ ハウサの若者への概略調査。経済的背景、生業、楽しみについて。
・ 将来のワガドゥグのハウサの民族誌作成のための聞き取り調査の継続。
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2010年7月6日火曜日

アエロフロート

10数年前、私は大学生で、よく考えたら今と同じようなことをしていた。安いチケットを探しては、アフリカをフラフラとする。研究とかは全く関係なく、ただなんとなく、他人が行ったことがない場所を歩くこと、これくらいがその時の目的だったように思う。

そのころ、まだロシアは「ソ連」の匂いがしていた。暗いモスクワの空港、トランジットをするとムショのメシがでるし、機体はすごく金属質なイリューシンだった。そして何より、モスクワに行くと、アフリカのどこにでも一回で行けた。社会主義の拘束感と非日常の入り口が同居していたような空間。

それからずいぶん格安航空券にはお世話になってきた。今回久しぶりにアエロフロートを利用した。

機体はエアバスで、フライトアテンダントはオレンジのケバケバしいユニフォーム(お美しい方もいらっしゃいました)、そして、モスクワの空港は改築中でデューティーフリーがずいぶん入りそう。すっかりその時代の香りはなくなりました。路線もずいぶん絞っているし、今回などは日本-モスクワ-ロンドンと、JALかなんかの肩代わりをしているような路線でしたし。

そんなわけでパリにおります。今やアエロフロートではここら辺までしか行けないので。

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2010年7月4日日曜日

「あなたは長生きしますよー」

2日ほど前、58さんと行った「あらま」。数年前に行ったっきりの店だったが、そこに、男性が。くせの強いおかみさんが一人でやってると思ってたけど…

58さん曰く…ものすごく当たるのだそうで。

この男性、ずいぶん有名な占い師なのだそう。進められるがままに、じゃあ、ということで、誕生日を伝える。

その答え①。
「あなた長生きしますよー」
本当っすか?病気持ちですが…そうならすんごく嬉しいです。

答え②
「あなたの星はマラドーナと同じですよ」
むむむ…ゴッドハンド+ヤクでムショ+返り咲いてナショナルチームの監督(今日はズタボロでしたね…)。そんな派手な人生でなくても…

答え③
「今年と来年は何にも動きません。焦らずに、じっくりと。その先の準備期間なのですから…」
やっぱりそうですか。動かんですよね…ってことは、就職は2年後??まあ、それくらいなら御の字です。

全体的に、おっしゃった通りにことが運べば嬉しいのですが、微妙なのは②…くらいですかね…

2010年6月20日日曜日

もういくつ寝れば…

仕事が終わらず、持ち帰りで英文(フランス語含む)和訳。A4で20枚近くあったはずだから、2日で終わればまま怒られないでしょう(締め切りは4時間ほど過ぎてしまったけど)。

遅くなったので、skypeでも開いてみる。

ああ、そうだった。3週間後には彼の地に飛び立つのだ、と思うと、事前に準備のつもりで向こうの友人たちに電話してやろう。時差もちょうどいいし。前回の調査でずいぶん世話になったAminouと、もう腐れ縁に近いAbudul。オヤジ氏の声も聞きたかったけど、昼寝中らしい…ああ、そんな時間だな、と。

世間の荒波にどっぷりともまれたこの3カ月。帰国数日後の研究会発表から、学会発表、論文…毎週何か仕事をしていた気がする。

去る木曜日。粗稿のレベルの論文を見てもらった。その後の食事の席で新任准教授に言われる。

「あの論文は、練りが足りない。昔、初めて読んだ「ラスタのフロンティア」、粗かったけどよく練られていた、と思ったんだけど…」

忙しさ、は何の言い訳にもならない。何足のワラジをはいていてもできる人はできるし、一足でもできない人はできない。でも、まともに見直しもできず、すでに校正してもらった論文が10日経っても手がつけられない…読んでもらうにもとても気が引ける。こんなのしか書けないのか、と自信喪失気味にもなる。

少しワラジを脱がないといけなくなってきた。この1ヵ月、痛感した。

なので、決めたのです。過大な期待をしてくれたNGOには、本当に申し訳なかったけど、知らないうちについた力よりも、これからの力のために、今の体力も気力も使うことにしました。あと1週間、少々窓際っぽくなってきたけど、腐らずに仕事します。終わったら、もう一皮むくために、行き馴れた彼の地に。

2010年6月3日木曜日

中間管理職と…

毎週の新幹線通勤。何の権限もない中間管理職…

こんな時間に研究室にたたずんで小説に身を任せてみる。

2階のタバコスペースでタバコを燻らせながら「なにやってんだろう…」。

まだ何を背負わされているわけでもないのに、なにを焦ってるんだろう…とか。

誰かのために、という生き方は責任を転嫁しているだけ?何かの言い訳にしたいだけだろうか?まだこの生活も2カ月だけど、本にまみれることや、フィールドで汗をかくこと、そして文章を書くことに飢えを感じる。こんな年になり、熱っぽくこんなことを思ってみる。

あっ、そうか。「不惑」というのはこういうこと??

2010年5月31日月曜日

第47回アフリカ学会@奈良②

アフリカ学会。正確には、「第47回日本アフリカ学会学術大会」というのですが、どうも地域学会としては日本で一番大きな学会らしい。

「学術大会」という名前が付いているので、一応、ちゃんと研究発表の場なのですが、年に一度の同窓会的な意味合いも強い。他の学会に比べれば、酒の消費量は多いし、ハチャメチャに羽目をはずして、二日目に来ないという輩も少なくない。

なので、今回のように、二日目の午前中の発表ともなると、真に窮屈。

それでも、普段東京に拠点を持つ人、京都やら大阪やらから、そして名古屋に、と、まさに「同士」達と喧々諤々。これくらい質疑応答も盛り上がるといいのだが、何せ100人からのアフリカニストが話をしなければならないので、そちらは儀礼的に。酒が大量に入るので、後半は何をしゃべったかは全く覚えておらず、ただただ、たくさん笑い、たくさん話し、旧交を温めたことだけは確かなのです。

来年は弘前。また発表して、いろいろな人と話に花を咲かせたいものです。

第47回アフリカ学会@奈良①

5月29日、30日のアフリカ学会で発表してきました。

一応、ここのところの自分のルールで、アブストラクトは出しておくことにしているので、以下の通り公表しておくのですが、少し内容を変えました(普通の学会ではご法度ですが…)。

どう変えたか、というと、都市計画により離散した、旧住民たちのつながり(=「共同性」)が茶会を再現することによって保たれている。という話にしました。

同枠にお美しい女性がお二人発表されていたので、聴衆のほぼいない状態での発表を想定していましたが、アフリカ研究の人気者の座長と私の次に発表となっていた、アフリカの商人の「狡知」を研究しているOさんのおかげで、えらい盛況のうちに終わりました。

しかも、我らがS先生にかみつかれる、というおまけ付き。

「二つ質問があるけど、ひとつは後で聞くから…」とおっしゃり、会場は失笑(?)に包まれ、割と和んだ雰囲気でした(学会では、指導教官は黙っているか、炎上した時の火消、というのが通常なのですが、うちは割かしガチンコなのです…)。
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ワガドゥグの都市計画と住民生活の変化-ZACA計画を事例に
清水 貴夫
名古屋大学大学院文学研究科 博士後期課程
Urban planning on African city and its impacts toward population: case study of “Projet ZACA” on Ouagadougou, Burkina Faso
SHIMIZU Takao
Nagoya University, Graduate School of Letters

発表要旨

 2003年12月、ブルキナファソの首都ワガドゥグの市中心部に位置する通称ザングエテンZanguetinの街は1987年に計画されたザカ計画Projet ZACA[i]に従って破壊された。住民はザング’エテンから追われ、主に政府が用意した代替地、通称トラム・ダキュイTram d’accuilleに移住を余儀なくされた。本発表では、ザングエテンからトラム・ダキュイに移動した人びとの生活変化を追い、近年、殊にアフリカの都市で見られる都市計画が住民の生活に与える影響を考察することを目的とする。
ザングエテンは、1950年ころ、ハウサ人たちによって形成された街区である。彼らは、ワガドゥグにイスラームを持ちこんだ人びとの一部であり、ワガドゥグで最初の金曜モスクが建立し、イスラーム的生活世界を営んできた。外来者も積極的に受け入れられ、都市空間の中においても特に多民族な世界を形成してきた。その結果、約800人とも言われた高人口密度の空間を形成した。しかし、そこは、乾季にも汚水があふれ、決して清潔な生活空間ではなく、経済的に豊かでもなかったと言われ、政府のザカ計画実施に格好の理由を与えたことになる。その結果、移住した住民は、経済・社会的な影響を受けた。本発表では、まず、都市計画による住民の経済・社会的生活変化を検討する。
そして、ザカ計画事務所の担当者の、「一般的には旧住民の生活は向上した」と言う見解からもわかるように、ザカ計画は、一部で住民生活を近代的な意味で向上させた。すなわち、清潔で十分な広さの住空間の確保といった面である。さらに、指摘しなければならないのは、若者たちの変化である。ザングエテンのイスラーム的社会は、貧困者のセイフティネットになっていた半面、本来労働しなければならない年代の若者たちの不労働を許容してきた。旧住民の中にも、ザカ計画によって従来のイスラーム的社会が崩れることで促された若者たちの独立を、この都市計画の副産物として主張する者がいる。
ところが、ほとんどすべてのザングエテン旧住民への聞き取りからは、こうした楽観的見解は聞くことができない。ザングエテンの旧住民の多くは、現在いくつかの街区に分かれて住んでいるが、未だにザングエテンの知己との関係性の中で生きている。そして、彼らがザングエテンを語るとき、それらはザングエテンの在りし日の暖かな家族的社会を語るのであり、ノスタルジックである。また、ザカ計画が老人の死と共に語られ、ザングエテンの家族的世界との断絶を象徴的に語りも多数耳にした。
これらの聞き取りデータから、ザカ計画が与えた影響は、経済・社会的な変化以外に、住民間でより語られるザングエテンで醸成されたミクロな人間関係の変化にあることを論じていく。
[i] ワガドゥグ市のZACA(Projet Zone des activités Commerciel et Administration 商業行政活動地区)を改善させるための都市計画。

2010年5月24日月曜日

どうした!!

本年度、ありがたいことに、アフリカに行くためのお金をいただくことになった。某S財団というところの資金なのだが、このところ、そこの会長氏からメルマガのようなものが送られてくるようになった。相当な有名人なので、たまに読んでみるのだが、今回のは????????????…

4月26日に会長氏のブログに、石弘之氏の記事が出ているのだが、これはかわいい。「イシ」がアムハラで「OK」と言う意味だとか、「キハラ」がスワヒリで「禿げ」だとか、日本語の音と外国語の音を拾ってかわいいジョークでつづっている。

しかし…会長氏、下ネタオンパレードです…にっくき元ドラゴンズの銭留がFワードを含んでいて…とか、下ネタに聞こえる地名を連発。氏はご自身を俗物である、といい、さらに「財団内部より、会長リコールが起きないことを祈っております。」とか言って結んでいるけど…

なんかいやなことがあったんでしょう。偉い人は大変ですから。

2010年5月11日火曜日

五月晴れの空へ

あっという間に今年度も1ヵ月が過ぎ去った。GWもあっという間にどこかに行ってしまった。

毎週のように人さまの前で話をさせていただき、その準備に追われ、ひとつ終わってホッとして酒を飲む。少し刺激が欲しくて、研究室の仲間を誘ってソフトボールに興じ、イライラすると水中の静けさを求めにプールに行く。もちろん、仕事もしている。ヘルシアを毎日欠かさず飲んでいるけど、体重はあまり減らない。それでもここ何年かで一番体にキレがある。

悩みもないわけではないが、満開の躑躅とくっきり蒼い5月の空を見て、思い切り空気を吸い込むと、なんか、全部どうでもいいような気になって、芝生の上に大の字になってやりたくなる。楽しい時間がいつまでも続けばいい、と思うように、この季節もずっと続けばいいのに、と思う。

2010年4月28日水曜日

まるはち人類学第1回研究会

とある研究会のあとの飲み会で「院生の研究会をやらないか」という某先生の一言がきっかけで、中部地区の人類学専攻の院生と研究会が立ちあがった。めでたく第1回の研究会は恙無く開催にこぎつけた。

しかし、同時期にあまりにたくさんのことを抱えすぎたため、完全にキャパオーバー…レジュメができたのも前日だし、全く練りもなし。

そんなわけで、とても人にお聞かせできる発表になりようもなく、案の定炎上したし、あんまり「終わった」という安ど感もないまま、日曜日は真っ白になった。

自己満足のブログではあるが、一応研究室ブログにもリンクを張っているので、満足する発表ばかりを載せているばかりではアカウンタビリティに反するので、ここは恥を忍んで。そして、約40名もいらしていただいた方々に感謝の意を込めて。

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日時:2010年4月24日(土)14:00-17:30
場所:名古屋大学文学部130号室http://www.nagoya-u.ac.jp/global-info/access-map/higashiyama/14時 

趣旨説明
14:10-14:50 清水貴夫(名古屋大学大学院文学研究科博士課程後期)「イスラーム、タリベ、NGO~イスラームの「ストリート・チルドレン」がなぜ発生したのか」
15:00-15:50 神谷良法(名古屋大学大学院文学研究科博士研究員)「発展を妨げる妖術:妖術に対する国家の欲望」
16:00-16:15 コメント 浅野史代(名古屋大学大学院文学研究科博士研究員)
16:15-16:30 コメント 東賢太朗(名古屋大学大学院)
16:30-17:30 討議終了後
懇親会有り。

「開発と宗教現象」ある国をより良い状態にするため、「開発」をおこなう。これは啓蒙主義的観念を含んだ表現であるといえる。ここには、開発側と被開発側の非対称性に根源を持つ2つの問題点が存在することは指摘されてきた。何をもって良い状態ととらえるかは、開発側の価値観の影響を多大に受けがちである。また、開発に際しては、被開発側の人間が合理性、しばしば経済的合理性を追求するものであるということが暗黙裡に含意されていた。換言すれば、到達地点および到達法の両面について、一方的な視線のもとに開発がなされてきたといえよう。それゆえに、開発は「失敗」――到達地点に関しては開発側が満足のいく結果にたどり着かない、到達法に関しては被開発側が開発側の期待するような行動をとらない――することがままあったのである。開発関係者は、このような状況を乗り越えるために、調査法を洗練し、同時に開発法も住民参加型の開発を目指すようになってきた。しかし、その方法論の多くが人類学的な参与観察法を参考にしたものであるにもかかわらず、開発における人類学の位置づけは、実に表層的な部分に注目しているに過ぎない。開発の現場における人類学の貢献の可能性は、こうした調査法や人類学研究者の地理的、地誌的な知識のみではない。人類学は現地調査および隣接諸学問の成果を接合させて、その地の人々の思考の様式を明らかにしようと努めてきたが、これらの知識が開発の現場、さらに「開発学」という学問領域で十分に活用されているかは疑わしい。たとえば、サハラ以南アフリカ諸国を例に取るならば、「近代の造反者」(Comaroff & Comaroff)と称され、社会問題化しているとされる妖術現象は十分に検討されているといえるだろうか。政治学の分野で言及されてきたサハラ以南アフリカ諸国に蔓延する縁故主義(Bayart 1993)に蓋をしてはいないだろうか。これらの現象は開発の現場に関係していないようでありながら、開発の成否を決める要因となりうる可能性を持つ。このようなものに目を向けずに現場での試行錯誤を繰返しているのではないだろうか。開発と宗教現象(注1) と題した本企画が目指すところは、開発と宗教現象という分析レベルでは決して近くはないところにある両者に存在する相互関係を照射し、両者についておこなわれていた分析を接合させていくことにある。清水は都市におけるタリベ(注2) とNGOの関わりから、一方、神谷は、宗教現象、とりわけ妖術をふくむオカルト現象にまつわる問題から開発を照射することを目指す。注1:ここでいう宗教現象は不可視のものとの関わりあいとして広義に捉えておく。したがって、たとえば、占いや近年日本でもしばしば喧伝されるスピリチュアル・ムーヴメントのようなものも宗教現象の範疇ととらえる。注2:Taribéはアラビア語起源の言葉で、「学ぶ者」全体を指す。コーラン学校、マドラサの生徒を特定して指し示すこともある。参考文献Bayart, Jean-François 1993 The State in Africa: The Politics of the Belly, translated by Chris Harrison, Longman.Comaroff, Jean & John Comaroff (eds.) 1993 Modernity and Its Malcontents: Ritual and Power in Postcolonial Africa, University of Chicago Press.

発表1:清水貴夫(名古屋大学大学院博士課程後期)「イスラーム、タリベ、NGO~イスラームの「ストリート・チルドレン」がなぜ発生したのか」ブルキナファソの首都、ワガドゥグは近年の顕著な都市化に伴い、「ストリート・チルドレン」が社会問題化した。「ストリート・チルドレン」が社会問題化したことが分かるのは、NGOや社会行動省がこの問題に対処し始めたころで、大方が90年代後半ころと言える。このころからの「ストリート・チルドレン」の統計資料から、1990年の80人から、2007年の2,500人へと大幅増を見ている。ワガドゥグの「ストリート・チルドレン」問題にかかわるNGOの草分け的な存在として、赤十字ブルキナベとケオーゴがある。両団体と深くかかわる、モーリス・ソメ氏らは、ケオーゴの活動評価書中に、「ストリート・チルドレン」を、路上で寝起きする少年たち(Enfant de la rue)、路上を生活の主たる場とする少年たち(Enfant dans la rue)、タリベ Taribéの3つの少年たちの状態を定義する(Somé2010)。都市化や近代化、根底に横たわる貧困よる、「ストリート・チルドレン」の現出は、これまでも多くの機会に論ぜられてきたことであるが、イスラーム子弟を指すタリベを「ストリート・チルドレン」とするのは、早くからイスラームが伝播し、急激な都市化が進む、西アフリカに独特な現象であると言えよう。イスラームは従来、旅人を歓迎する宗教性を持つ。よって、従来、家庭や村落社会から逸脱する少年たちも、「ストリート・チルドレン」とはならず、イスラーム社会に吸収されることが十分想定される。しかし、この現象がなぜイスラーム社会、ワガドゥグで起こるのか、今一度、イスラーム社会の変容とNGOを合わせて考えてみたい。

発表2:神谷良法(名古屋大学大学文学研究科院博士研究員)「発展を妨げる妖術:オカルト現象に対する国家の欲望」「あなた方はアルコール依存症と妖術と戦わねばならない」(1983年5月26日カメルーン共和国大統領ポール・ビヤ)[Fisiy 1990: 1]「政府がお前らのためにやっていることをお前らのくそったれな妖術で妨害するのはyめろ!」(カメルーン共和国一地域の行政官の発言)[Fisiy & Geschiere 2001: 229]かつて妖術をはじめとしたオカルト現象は近代化とともに消え去っていく「迷信」とされてきた。しかしながら、近代化したはずの現在のサハラ以南アフリカ諸国においても妖術や儀礼殺人はメディアの中で語られ、社会問題として取り上げられる。オカルト現象は近代化の光とともに消え去るどころか、近年になってもなお盛んであるということができよう。このような状況に対して、20世紀後半から「妖術のモダニティ論」と総称される一連の論考がなされてきた。これらの諸論考に共通するものは、オカルト現象をめぐる問題をグローバル化する世界、新自由主義経済での格差拡大に対する民衆の適応あるいは反応として捉えることにある。これらの諸論考は一面で正しい。しかしながら、民衆の適応や反応としてしまったときに、オカルト現象と民衆の間に介入してきた主体の動きは指の間からこぼれおちてしまうのではないだろうか。たとえば、カメルーン共和国では、妖術は刑法によって禁止されているばかりか、実際に司法の現場で運用され、「妖術師」は刑事罰を受けることがある。また、冒頭の引用にあるように大統領や行政官によって国家の営みを妨害するものとして非難されている。オカルト現象は国家の発展に対する内なる敵であり、国家はこれに対し介入を試みているといえよう。オカルト現象をグローバリゼーションや経済の問題に対する民衆の反応として捉えるのは以前に国家のオカルト現象に対する介入を視野にいれる必要があるのではないだろうか。そこで、本発表は、サハラ以南アフリカ諸国におけるオカルト現象と国家の間の関わりに着目する。この際、国家をオカルト現象と民衆との間に介入する主体として捉え、国家のオカルト現象に対するまなざしを明らかにし、そのまなざしの意図について考察をおこなう。

2010年4月9日金曜日

業績2010

2010年4月9日現在の業績

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学位論文
○ 清水貴夫1999「アフリカ農村部における持続可能な保健衛生開発への一考察」明治学院大学国際学部国際学科1998年度卒業論文
○ 清水貴夫2007「アフリカ都市の若者文化の都市人類学的研究‐ワガドゥグのラスタの事例から」名古屋大学大学院文学研究科2006年度修士論文

論文(査読あり)
○ 清水貴夫2007a「ブルキナファソのラスタの演奏活動に見る『アフリカ』」『神話・象徴・文化』篠田知和基編pp.207-223 楽瑯書院
○ 清水貴夫2008b「ワガドゥグのストリートの若者たちの生活とその背景」『名古屋大学比較人文学年報』Vol.5 pp.137-154名古屋大学大学院文学研究科比較人文学講座
○ 清水貴夫2008 c「来住アフリカ人にとっての六本木‐「アフリカ人-アフリカ人」のインフォーマルな接合の調査報告‐」2006年度科学技術研究費報告書『来住アフリカ人の相互扶助と日本人との共生に関する都市人類学的研究』(基盤研究A 研究代表 和崎春日 研究番号:16202024)pp.135-144
○ 清水貴夫2008d「セネガル文化としてのバイファル、ラスタを探る」2007年度科学研究費報告書(基盤研究A 研究代表 嶋田義仁 課題番号:18251006)pp.119-134
○ 清水貴夫2010b「ワガドゥグで活動する「ストリート・チルドレン」支援のNGO、ケオーゴKEOOGOの活動から見えるNGOとストリート・チルドレンの関係性」『名古屋大学比較人文学年報』Vol.7 pp. 名古屋大学大学院文学研究科比較人文学講座(印刷中)

論文(査読なし)
○ 清水貴夫2006「ラスタのフロンティア」『名古屋大学人文科学研究』第35号pp.57-70 名古屋大学大学院文学研究科
○ 清水貴夫2010a「都市計画が住民生活に与えるインパクトに関する都市人類学的考察~ブルキナファソ、ワガドゥグ市のプロジェ・ザカProjet ZACAの事例から~」『名古屋大学人文科学研究』第39号pp名古屋大学大学院文学研究科pp.61-74

研究ノート(査読あり)

研究ノート(査読なし)
○ 清水貴夫2009a「ワガドゥグにおける染色綿布、ボゴランBogolanの制作過程」『名古屋大学人文科学研究』第38号pp.133-144

書評

雑誌・エッセイなど
○ 清水貴夫2005-2007「国際協力の今」(全10回)『HARMATTAN』(認定NPO法人)日本ブルキナファソ友好協会会報 19号~29号
○ 清水貴夫 2007b 「来住アフリカ人のコミュニティ形成と生活」『メタプティヒアカ(名古屋大学大学院文学研究科 教育研究推進室年報)』Vol.1 pp.128-129 名古屋大学大学院文学研究科 教育研究推進室
○ 清水貴夫 2008a「アフリカ都市の路上販売者と「観光」-ワガドゥグのストリートから-」『アフリカNow』79号(特活)アフリカ日本協議会会報誌pp.12-13
○ 清水貴夫2008e「産業化する国際NGO-国際NGOで働く職員たち」『伝統知識と技術の再活性化によるアフリカの草の根開発(Grass Root Development)と環境保護』嶋田義仁編 平成19年度「国際協力イニシアティブ」 名古屋大学文学研究科pp.127‐128
○ 清水貴夫 2008f「『ポップ』が生み出される場所」(第1回11月)、2008h「ネットで取引される『伝統』」(第2回12月)、2009c「中国の介入を受ける手工芸品」、2009d「隣の芝は青い‐綿布の話」、2009e「ポップな「伝統的」楽器‐ジェンベDjembe」、2009f「ラスタという考え方」『porto』、(フリーペーパー)への連載
○ 尾関葉子氏によるインタビュー記事(清水貴夫) 2009b 「アフリカNGO事情 ブルキナファソのNGO法」『NPO Management Review』64号p.36-40
○ 尾関葉子氏によるインタビュー記事(清水貴夫) 2010a 「アフリカ NGO事情 ブルキナファソのNGO法」『NPO Management Review』65号p.34-38

口頭発表
○ 清水貴夫 「ワガドゥグのラスタ」現代アフリカ都市文化研究会第27回例会 於名古屋大学 2005年7
○ 清水貴夫 「ラスタの生業と思想-ワガドゥグのラスタを事例に」第43回日本アフリカ学会 研究大会 於大阪大学 2006年5月28日
○ 清水貴夫 「ラスタの生業と思想‐ワガドゥグのラスタを事例に」アフリカセミナー 2006年7月1日
○ 清水貴夫 「「周辺」のラスタが捉える「伝統」と「アフリカ」-ブルキナファソ、ワガドゥグのラスタの事例から‐」現代アフリカ都市文化研究会第29回例会 於名古屋大学 2007年2月24日
○ 清水貴夫 「アフリカ都市の若者文化の都市人類学的研究―ワガドゥグのラスタの事例から」中部人類学談話会 於椙山女子大学 2007年5月19日
○ 清水貴夫「「周辺」のラスタが捉える「伝統」と「アフリカ」-ブルキナファソ、ワガドゥグのラスタの事例から-」第41回文化人類学会学術大会 於名古屋大学 2007年6月2日
○ 清水貴夫「西アフリカの都市の若者文化のフレームについての一考察-ブルキナファソ、セネガルの事例から-」アフリカ ポップカルチャー研究会(アフリカセミナー、アフリカ都市文化研究会と合同)於 名古屋大学 2008年3月27日
○ 清水貴夫「セネガル文化としてのバイファルとラスタ」科研費研究会(科学技術研究費 基盤研究A アフリカ・イスラーム圏における白色系民族と黒色系民族の紛争と共存の宗教人類学的研究 研究代表:嶋田義仁 研究番号:18251006)於 名古屋大学 2008年7月5日、6日
○ 清水貴夫「ワガドゥグのクールなラスタ」アフリカン・ポップカルチャー研究会『いまアフリカにのる?』 2008年11月15日、16日
○ 清水貴夫「ストリートの少年たちとNGO ブルキナファソ・ワガドゥグの事例から」第46回日本アフリカ学会学術大会 於東京農業大学 2009年5月24日
○ 清水貴夫「少年の移動と「ストリート・チルドレン」ワガドゥグの事例を中心に」GCOE若手研究者合宿 於 KKRホテル琵琶湖 2010年3月16日

講演
○ 岡山大学「国際交流と平和B」臨時講師(森本栄二非常勤講師担当) 2005年11月
○ 岡山大学「国際交流と平和B」臨時講師(森本栄二非常勤講師担当) 2006年11月
○ 清水貴夫 「Qui est vrai Africain?(本当のアフリカ人は誰?)」ファンサバ 2006年11月11日
○ 清水貴夫 「音楽をめぐるラスタの生活~ブルキナファソ・ワガドゥグのストリートから~」(特活)アフリカ日本協議会 あふりか広場 2006年11月
○ 清水貴夫「アフリカの音楽と都市性の関わりOuagadougouのラスタの事例から」『アフリカ・カルチャー講座』 道祖神2009年10月31日

調査暦
○ 2005年11月~2006年3月 調査国:ブルキナファソ
○ 2006年7月~2006年9月(科学研究費 基盤研究A 研究題目『来住アフリカ人の相互扶助と日本人との共生に関する都市人類学的研究』 研究代表:和崎春日 研究番号:16202024)
調査国:ブルキナファソ、ガーナ
○ 2007年2月~3月(科学研究費 基盤研究A アフリカ・イスラーム圏における白色系民族と黒色系民族の紛争と共存の宗教人類学的研究 研究代表:嶋田義仁 研究番号:18251006)        調査国:セネガル
○ 2007年7月~2008年2月 調査国:ブルキナファソ
○ 2008年7月~2008年9月 調査国:ブルキナファソ(日本学術振興会 特別研究員奨励費)
○ 2009年2月~2009年3月 調査国:ブルキナファソ(科学研究費 基盤研究A 研究題目『滞日アフリカ人の生活戦略と日本社会における多民族共生に関する都市人類学的研究』 研究代表:和崎春日 研究番号:19202029)調査国:ブルキナファソ
○ 2009年7月~10月 調査国:ブルキナファソ(日本学術振興会 特別研究員研究奨励費)
○ 2009年12月~2010年3月 調査国:ブルキナファソ(日本学術振興会 特別研究員 優秀若手研究者海外派遣プログラム)

所属学会
○ 日本アフリカ学会
○ 日本文化人類学会
○ 日本宗教学会

所属研究会
○ ポップアフリカ研究会(運営委員)
○ 現代アフリカ都市文化研究会
○ アフリカセミナー
○ アフリカ研究会(STAN、国際開発研究科)
○ まるはち人類学(2010年4月~)

所属NGO
○ (認定NPO法人)日本ブルキナファソ友好協会 理事(2002年~2007年)
○ (特活)アフリカ日本協議会 会員(2005年~現在)
○ (特活)国際協力NGO推進協会(JANIC)(2000年~2003年)
○ (特活)ハンガー・フリー・ワールド(2007年~現在)

職歴
○ 東興海運株式会社(1999年4月~2003年3月)
○ (認定NPO法人)日本ブルキナファソ友好協会ブルキナファソ事務局長(2003年4月~9月)
○ 名古屋大学ティーチングアシスタント(2007年4月~7月)
○ (特定非営利活動法人)ハンガー・フリー・ワールド ブルキナファソ準支部臨時代理事務局長(2007年7月~2008年2月)
○ 日本学術振興会 特別研究員(DC2)(平成20年度(2008年度)採用)
○ 名古屋大学ティーチングアシスタント(2008年10月~2月)
○ 名古屋大学ティーチングアシスタント(2009年5月~2010年2月)
○ (特定非営利活動法人)ハンガー・フリー・ワールド理事(2009年6月~2010年3月)
○ 愛知江南短期大学非常勤講師『国際文化』(2009年6月27日)
○ (特定非営利活動法人)ハンガー・フリー・ワールド事務局次長(2010年4月~)

研修
2001年度 地球市民アカデミア8期修了、9期運営委員
2002年 「NGO‐JICA相互研修」
2008年7月-9月 KEOOGO(ブルキナファソNGO)での研修員

賞罰・助成金(競争研究資金獲得状況)
名古屋大学大学院学術奨励賞(2007年度)
日本学術振興会 特別研究員(DC2) 平成20年度(2008年度)採用
日本学術振興会 優秀若手研究者海外派遣プログラム (平成21年度(2009年度))
笹川研究助成平成22年度 採用

2010年4月5日月曜日

新年度

今日はうちの研究室も入学式。そして僕も新入職員としての第一日目。もう何年も関わっているNGOに就職しました。研究室に籍を置きながらですが。

1999年~2003年まで、都内の某海運会社に籍を置き、それを辞めてからだから、7年ぶりの定職です。行き馴れた事務所とは言え、少しは緊張する。お客さん的な存在から、中の人間に。そこには上司もいれば、同僚もいる。久しぶりの社会復帰。少しピリリとする空気を少し楽しみながら、大学がいかに自由であるか、とかしんみりと思ってみたりもする。

研究室にも教官と院生にフレッシャーが何人も新たに加わった。去年あたりから仕掛け始めた東海地区の研究会も(僕さえ要旨を出せば…)動き出す。他にもいろいろなことが。

いつもの年より少し忙しくて、目が回りそうだけど、ひとつひとつコツコツと。何か実を結ぶものもあるでしょう。

2010年4月1日木曜日

花見!!

帰国後怒涛のように移動を繰り返して数日前から実家にいる。ここ2年間、運よく税金で喰わせてもらっていたが、それも昨日で終わり。サバイバルすべく、ない知恵を絞り、少ないネットワークを駆使して、東京を走り回っている。

寒々しかった3月。4月になったとたんずいぶん暖かいになった。今日で桜も一気に咲いてしまうかな…

週末なんとか花見するぞ!でも今年は恒例のてんぷらを揚げようと思うのだが…5人くらい集まったらやろうかな…ということで、参加希望者連絡くれたし。

2010年3月17日水曜日

「ストリート・チルドレン」発表@GCOE合宿

帰国後にすぐに研究合宿に参加。

「生存基盤維持型の発展を目指す地域研究拠点」
http://www.humanosphere.cseas.kyoto-u.ac.jp/article.php?story=20090123-25
(そのうち今回の合宿の報告もアップされると思います)

ずいぶん苦労(体力的に…ですが)したレジュメは何とか出来上がり(誤字がいくつかあったのですが、アフリカボケということで…)、無事に発表終了。多くの方に出会え、共に同じ釜の飯を喰い、酒を飲み、意見をぶつけ合いした。濃密で充実した3日間だった。

発表要旨は以下の通り。
******************************************
「少年の移動と「ストリート・チルドレン」:ワガドゥグの事例を中心に」

ブルキナファソの首都、ワガドゥグ市は推定150万人ほどの人口を擁するブルキナファソの政治経済の中心都市である。ワガドゥグ市には、アフリカの多くの大都市と同様に、路頭で生活する「ストリート・チルドレン」が存在する。
「ストリート・チルドレン」は都市の社会問題と同義で用いられることが多い。だが、本発表では、こうした少年たちのストリートへの出奔を、「社会問題」として扱う以前の、都市への「移動」の現象レベルに引き戻して捉え直すことを目的とする。
人々の都市への「移動」については、都市人類学を中心に多くの研究の蓄積がある。例えば、ガーナ北部から都市部への若年貧困男性の移動を扱ったHartの研究は、経済的な動機付けを持つ人々の「移動」が機能的な意味を持つことを指摘している。だが、本発表の事例に挙げる少年の「移動」は、機能主義的観点から説明することが困難な、目的の明らかでない移動である。
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2010年3月13日土曜日

帰国後の楽しみ

昨夕なんとか帰国した。飛行機の中でもほとんど寝られなかったが、意外に疲れていない。

今日は朝から何事もなかったかのように、こうして研究室に座っている。

帰国後の楽しみ…

主に飲食に集約されるが、ひそかな楽しみも…

PCエアダスター。PCに空気を吹き付けて埃を取るものだが、これがアフリカ帰りの楽しみの一つ。キーボード、通風孔あたりに吹き付けると、見事な砂埃が立つ。よくよく考えてみると、えらい環境でPCを遣っているな、とも思うのだが、それは仕方ない。早速一人の研究室で…ヒヒヒ…

2010年3月9日火曜日

終わらない…

いよいよ出国前日。

暑いし、もう帰りたい、と思い始めて数週間、サボっていたわけではないのに、最後の最後は毎回忙しい。あいさつに行こうと思っていた友人たちもほとんど電話で済ませてしまったし、土産物は今回は一切購入しなかったので、そちら関係も今回はもう会わないことにした。

帰国してすぐに研究会があり、準備をしなければならなかったのだが、調査データ(3,000枚近くデジカメで撮りました…)の整理と、数日前に受け入れ先の先生から言われたファイナルレポート(英語で書いてやった。ははは。)、後NGO関係の事務書類やらで、ここ数日間ほとんどホテルから外に出ていない。何とか、研究会のレジュメを残すのみとなり、少しは帰国ムードに浸ってみようかと…

しかし、終わるのか?あのレジュメは…

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2010年3月6日土曜日

もうひとつの最古のモスク~ワガドゥグ歴史の点~

昨日で今回の調査、最後の記事にしようと思ったのですが、もうひとつ。

先日のSagbotengaの時の写真を届けに、再び古老の元へ。相変わらず「カッカッカッ!」という笑い声と共に、いろいろなことを教えてくれる。「今日はワガドゥグの最古のモスクに行け!」と言う指令。以前、ハウサの古老からも話を聞いていたが、今までチャンスがなかった。

後にハッと気づくのだが、Sagbotengaのモスクを見てからここを見る必要性があったのであった。

ワガドゥグ最古のモスクは、ザングエテンという、今回の調査記事で何度か出てきた街が元々あった場所にある。現在は、この地区は鉄道駅になっている。ここに住んでいた人々がどこに行ったか、というのは、ちょいちょいと書いたので省略。

駅の裏側の保税倉庫のあたりからアミノゥ、ザカリア両氏と共にバイクで入り込む。端っこにバイクを止め、奥へと歩いて行くと、こんもりとした小山が…

「え、あれ?もしかして…」


近寄ってみると、崩れかけた建物の跡。

1920年ころに建てられたこのモスク。先に述べたように、ザングエテンという外国人(ハウサ)の街に建てられた。植民地時代、鉄道敷設、駅舎建設のためこの地域が選ばれた。モロ・ナーバの王宮も以前はこの近くにあり、どうもこの鉄道関係の工事のために現在のところに移設したらしい。本当にフランスという国は乱暴だ。

当時の人々も相当怒っていたに違いない。なぜなら、こんな話が伝わっている。

「駅を作ったのに、このモスクがこのままにされているのはなぜか。
もちろん、当時のフランス植民政府はこれをどかそうとした。しかし、ブルドーザーでこのモスクを壊そうとしたとき、ブルドーザーを運転していたフランス人4名、この作業を手伝っていたブルキナベが3名、その場で気が触れてしまった。その後、何度かモスクを壊そうとしたが、そのたびに事故があり、現在のようになっている」

まるで清正の首塚である。この話をしてくれたのは、例の古老。イスラームはフランス植民地政府に負けっぱなしではないのである。



なぜ、このモスクを今日見に行かねばならなかったか。このモスクの建立者こそ、Sagbotengaのモスクの建立者の末裔であり、ワガドゥグの最初のイマーム。泥作りで、おそらく、Sagbotengaのモスクを模倣したような作りと大きさ…

ハウサはヤルセの創った街を頼りにキャラバンを滞在させ、ヤルセはハウサと共にワガドゥグの宗教、商業を先導した。西(マリ)から東(ブルキナファソ)へ、東(ナイジェリア)から西(ブルキナファソ)へ、北(ジボ、ヤコ)から南(サガボテンガ)へ、さらに南(サガボテンガ)から北(ワガドゥグ)へ。目的地のない旅をした二つの民族がモシ王権と絡み合った後に生まれたこの古びたモスクは、ごく最近の乱暴なフランス人に踏みにじられ、今はだれも知られずにひっそりと朽ちるのを待っているよう…
「アフリカには歴史がない」
一応人類学を学ぶ私たちにとっては、すでにそんなことがあり得ないことを知っているが、ワガドゥグ、ブルキナファソの人々は、まさにそんな風に思っているようにも感じてしまう。こんなにダイナミックでリッチな歴史があるのに…スキナーというアメリカの人類学者がワガドゥグ市民を「フランス人になりたい人々」と書いたが、もしフランス人になることが、自分たちがなぜそこにいるのか、を考えることをエポケーすることだったりするなら、もう一度立ち止まってよく自分たちの足元を見てほしい、そんな風に感じさせる光景だった。きっと、一寒村だったワガドゥグが、インターエスニックな人々の結節点として機能し始めたまさにその時、このモスクが建てられ、このモスクこそ、イスラームがここに根付くきっかけになった、そのモニュメントなのだろうから。
このモスクを見た後、アミノゥのバイクの後ろに乗っていると、アミノゥが尋ねてきた。
「あのモスク、復元した方がいいのかな?」
彼自身、その地域に住んでいたことがあるが、実際に見たのは初めてだという。きっと、自分たちのルーツに触れ、それなりの感銘を受けての問いだと思う。しかし、僕は、
「それは不可能だと思う。それより、今の状態を残した方がいいのではないか、と思う。十分にブルキナファソの歴史の一ページになっているし、しかも、鉄道駅はもう動かせんでしょ?」
と答えた。アミノゥも「そうか…」と言ったが、自身、正しいかどうかは分からない。ただ、時間がたつことで、あのモスクの存在意義も大きく変化しているように思う。
まあ、早いうちに書いてみるか。たぶんできること、もしくはやらねばならないのは、それだけだし…

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