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子守歌

貴一朗もあっという間に7か月。最近では、匍匐前進でそのあたりを這いまわるようになった。体力もついてきて、以前のように7時にはぐっすりということも少なくなり、8時、9時までキャッキャと騒ぎ立てる。一応、昼間は出勤している僕にとっては、こんな時間が長いことは願ったりかなったりなのだけど、授乳しなければおとなしく寝付かないこの時期の貴一朗を実際に寝かしつけられるのは、連れ合いだけ。なので、彼女にしたらたまったものではないだろう。 ちょっと寝かしつけてみようと思って、数十分添い寝をしてみたけど、たぶん、父ちゃんは遊び相手で、ニコニコバタバタ。こちらもそれなりに疲れていて、暗いところに横たわればそのまま落ちてしまう。すると貴一朗は飽きて母ちゃんを探し出す。それで、こんな時は子守歌だろうと思って、うる覚えの歌を歌ってみる。しかし、きれいに何にも歌えない。最近聞いている安全地帯でも聞かせてやろうか、と思うが、どうも艶っぽくて、子守歌にはどうか、と思ってしまう。そろそろ秋なので、もう少し日本の伝統的な風景を取り込んだ方がよいか…とか、そんなことを思いながら、結局また寝てしまう。 話は変わるが、このブログでも何度も書いているように、ブルキナファソ南部のカッセーナの家屋の研究。この研究は、どこかで「伝統」をいかに掬い出すか、ということからは離れられない。伝統的な手法、伝統的な景観…こうしたものが失われることを客観的に見たら、結局子守歌も似たようなもの。カッセーナの若者たちが伝統的なイエの作り方を知らないように、僕らも父母が与えてくれたものを忘れようとしている。きっと、父母も僕らの祖父母から受け取れきれなくて、零れ落ちたものも数多くあるのだろう。こうやって、時間が経ち、伝統は「伝統」になる。