2010年1月31日日曜日

Iまやさんとアチェケ

大学院の大先輩Iまやさん(♂)がいらっしゃって約1週間。

京都に用事があるたびにお世話になっている先輩。おそらく唯一接待可能なブルキナにいらしていただいたので、「満腹ツアー」と称してワガドゥグB級グルメツアーを敢行した。足がないのが痛いが、近辺の大概のレストラン、飯屋は制覇した。


Iまやさんのお気に入りはアチェケ。私もワガドゥグにいて、放っておくと週に2,3回は食べてしまう。行きつけの屋台が3,4軒ではすまない。一昨日、15分ほど歩いて、食べに行ったのは、カメルーン人のマダムの屋台。「死ぬ前に思い出してもおかしくない」とは、ラーメン大好きのIまやさん談。
そんなにお気に入りなら、ということで、事務所すぐそばでアチェケを売る姉妹のところへ。まずまず美味しいのと、近いのもあり、最近頻繁に利用している。それが上の写真。結構な量でしたが、二人で完食。
そして、今日Iまやさんは調査へ。また2週間後に「満腹ツアー」再開です。

2010年1月28日木曜日

少し手を休めて…

寒いくらいの明け方。暑さの嫌いな私にとっては、最高の季節だ。

正月あたりは、シュラフにくるまって寝ていたが、ここのところ、微妙に気温が上がってきたように思う。昨日は日中雲が厚く、叶わぬ願いながら、ほんの少しでも雨が降らんかなーとかぼやいてみた。

今週は、日曜日の小旅行以来、調査の手を休めている。来るべきものが来た、というか、なんのことはない、以前提出した論文やら他の原稿やらがまとめて返ってきて、なにやら他にもいろいろ手続きをしなければならない。幸いなことに、他の人類学を研究する院生が山奥やら砂漠やら行っているのに、私はいつでもネットのつながる首都にいるので、大概のことはその場で用が済んでしまう。来週からはまた知人が2人来るので、一気にまとめて用事をすませることにした。

今日あたりで今回の調査も半分。毎回毎回、時間がたつのが早くなる。「アフリカ=のんびり」と言うのは、全くのウソで、次第に知人が増えれば、やることも増えてくるもんだ。その一瞬一瞬で時間の捉え方なんぞ、大きく変わってくる。たまに村に行って、地平線に囲まれて見るからあの景色に感じ入るのであって、やっぱり、こうしてPCを叩いている限りは、間違いなく日本の世界と深く結びついている。調査の手は休めてみるが、生活やつながりの手を休めるのはなかなか難しい…

ということはどういうことなのかを考えている。

2010年1月27日水曜日

王様の話

約900年の歴史を持つと思われるモシ王国。ワガドゥグを中心とする中部モシ王国以外に、南部にテンコドゴTenkodogo、北にワイグヤOuahigouyaを王都とする3つの王国に分裂している。

当然のことながら、それぞれの王国には、いわれがある。このあたりは川田順造さんの本をご参照になることをお勧めするのみにして…

ずっと「若者文化」の研究であることを標榜してきたが、ワガドゥグという都市を理解しようと思ったときに、どうしてもここが王都であることを抜きにしては語れない。都市のある部分が切り取られ、そこに住む住民が移動させられ、ある通りが「ストリート」と呼べる道になるためには、なんらかの理由があるのだ。その理由が何につけ、移動すべき人々が(それが偶然であったり、権力や権威が直接的な理由でないにせよ)選ばれるわけがなんらか、そのあたりと関係があるのではないか、と勘繰りたくなる。つまり、「ストリート・チルドレン」と呼ばれる子どもたちが「そこ」にいるには、遠くに王様の姿が見え隠れしたりもする。これを論証するには、ずいぶん長く話さなければならないのだが…

葬式の日、同じ足でさらに南のジバGuibaに向かった。ヤルセの長老に聞いた村である。

ワガドゥグにボゴドゴBogodogoという地域がある。ここは、モシ王、モロ・ナーバMogho Naabaがヤルセの人々に与えた土地だった。ヤルセはこの地域にイスラームを持ちこんだ人々で、モシ王は歴代にわたり、この土地のヤルセに自分の息子たち(王子)のイスラームのイニシエーションを委託していた。息子たちは、イニシエーションが終わると、ジバのシェフになる。つまり、人々を治めるシュミレーションを行うわけだ。

数代前にこの慣習は途切れ、現在の王子はフランスに留学し、ジバでのシュミレーションを体験していない。この日お会いしたのは、代理シェフで、この代理シェフですら、3代目とのこと。「伝統」に従い、コラの実を渡し、謁見をお願いする。

質問は二つで、「なぜこの地が王の統治の練習の場として選択されたのか」、もう一つは「いつころまで、この習慣が続いていたのか、もしくは、現在途絶えているとしたら、今後習慣が復活する可能性があるのか」ということだった。もちろん、イスラームについて、ヤルセについて、さらに、ここで行われるイニシエーションについて…聞きたいことはそれ以外にもたくさん用意はしていたのだが。

写真も録音も禁止され、ノートすら出せずに、調査者としてはストレスフルな中で聞き取りを行った。シェフは威厳を保ち、フランス語が話せるにも関わらず、側近ないし、アブドゥルを介して私の問いに応えるが、最後はほとんど直接フランス語で話すようになった。

川田順造さん、Eliot Skinnerと言った人々がモシの王権について分厚い研究を残している。この二人の偉大な人類学者をして、この王権のことは書けることがあまりにも少なかったことがここのところの調査で実感したことだ。きっと秘密にしておかねばならないこともあるだろうし、書くに書けない部分もあるだろう。

この質問に対しても、なかなか面白い答えが帰ってきた。まだ全く確かめられないので、詳細を書くことはできないが、このイニシエーションがどうも戦乱の時代に則した性格のものだったことが分かった、その延長線上にモシと言う民族の抱える歴史の一端が見え隠れする。

ここ数日間、これを確かめるためにはどうしたらいいのか、これが悩みどころである。

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2010年1月25日月曜日

人生儀礼2

引き続き…
アブドゥルの友人の「マソン(大工)」のお父様が亡くなった。もう3週間くらい前だろうか。とても悲しいことのはずなのだが、大往生の末のことゆえ、彼にもさほど悲痛感はない。なにせ、120数歳まで生きた、ということである。しかも、今から40年ほど前、一度「亡くなって」墓に埋葬されてから甦った、という曰くつき。
先々週からアブドゥルに「文化を学ぶお前は行かねばいかんよ」と言われて葬式に参加するよう誘われていた。それが今日。一昨日よりこちらにいらしている先輩もお誘いし、朝8時半にワガドゥグを出発。スーラというワガドゥグから南に60kmほどの村に車を飛ばす。
着くなりこんな雰囲気。類稀な長寿を全うした故人を送りだすべく、多くの人が集まり、30数人という子孫とその連れ合いがこの大祭を取り仕切る。マソンもその一人。右に左に走り回る。



右側の盛り土が墓所、左側が故人のお父上の墓所。「力が宿っている」ということで、復活の墓所は撮影禁止。この間、誰もそこを避けるように歩いていた、ように見えた。

故人の生活した家の前では、10名ほどの楽士がさまざまな楽器をかき鳴らしていた。油断していて、楽器の名前を聞けなかったが、水を張ったひょうたんに少し小さなひょうたんを浮かべ、ひょうたんの匙で叩く楽器があった。トーキングドラムが4台、角笛が1つ、この奇妙な楽器は男性が叩いたり、女性が叩いたり…

そして、その周りには、100人ほどいようかという人の群れ。踊る、歌う…

私たちはその後、マソンの弟の家、と言われた家に招かれ、食事をする。チャパロ(ミレットビール)、ゾムコム(ミレットと生姜のジュース)、さらにリグラをいただく。さらに故人宅のそばの木陰でビールが供され、一番穏やかな季節ではあるが、ブルキナファソの灼熱の太陽に照らされて、適当に酔い、腹もはちきれんばかり、眠気すら襲ってきた。
120年と言う、気の遠くなるような時間を生きた故人。奇跡の復活を遂げ、晩年は、人の手に触れればその人の人生が分かる、と言われた伝説を持つ。どんな生き方をし、どんな境地にいたのだろうか。120歳まで生きることができなさそうな我々にはなかなか想像もできない。ただ、満腹と酔いで朦朧とするなか、肌をなでる乾いた風を感じると、目の前の風景に遠く先のことも昔のことも、意外にどうでもよかったのではなかったか、という気がする。
2日間で二つの人生儀礼に参加した。生を謳歌する儀式と、生を振り返る儀式。その時がどんな時なのか、残念ながら私には未だよくわかならない。ただ、少なくとも、それぞれの儀式にその時の生の状態が反映されることだけは確かなようだ。

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人生儀礼1

昨日は結婚式、今日は葬儀に参加。二日で二つの人生儀礼に立ち会った。


まずは結婚式。知人の娘さんの結婚式だった。これまでも数回の結婚式に参加しているが、だいたい「市役所(ブルキナファソの結婚宣誓は市役所で行われる)→教会→家」というルートをたどるが、今回は初めて貸し会場で行われた。


知人は憲兵隊で、ちょっと裕福なレベルの生活をしている、と見えていた。貸家も何軒かあったり、お子さんも大学まで行っている。上流階級に属する人だろう。で…


なんと、会場は500人ほどが入る場所で、我々が陣取った後方の座席からは、雛段の人の顔が全く判別不能…

そして、なんと、ブルキナファソのトップ歌手(だろうと思う…)が4人も招かれて、1曲ずつ興じる…たぶん日本だと、細川たかしと小林幸子と槇原敬之と後一人思い浮かばないが、大体そんな感じだ。ダイジェスト版紅白みたい…

料理も普通は、リ・グラ(Riz Gras油飯)、サラダ、鶏肉、フライドポテトあたりと決まっているが、今回はこれにさらに伝統料理数品が加わる。

聞けば、旦那さんの方はよくわからなかった(新婦側の席だったため)が、お嬢さんの方は銀行勤めだとか。この辺の「格」は相当こだわるはずだし、これだけの会場を借りて歌手を呼び…とできる家柄だとすると、まあ、中途半端なところにはいまい。

いろんな結婚式があっていいわけだけど、妙に少し前のティピカルな日本の結婚式を見るようで、複雑な気分になった。出入り自由で、隣近所の人が手伝って、わけのわからない兄ちゃんがタイコを叩きまくって…という手作り感のある結婚式が妙に遠くに行ってしまったような感覚に襲われた。

まあ、それでも、エリートのお二人の結婚。どんな結婚式であれ、この国を背負う跡取りをたくさん作って、幸せな結婚生活を送られることを祈って…


2010年1月22日金曜日

てっぺん

世界中、どこでも「偉い人」は忙しい。いなか街、ワガドゥグでも同じこと。

本来、このハウサの人たちの調査は、イスラームの調査と大きく重なっていく。ワガドゥグのハウサの歴史を調べれば、イスラームの歴史がわかるし、ワガドゥグのイスラームの歴史がわかるとハウサの歴史もわかる。ただ、ぜんっぜん全体像が見えてこない。最低限、ほしい情報が入ってこない。

モスクに入ろうとして断られ、コーラン学校に行って断られ、ムスリムに「どこの宗派なの?」と聞くと、「イスラーム サーンプル(普通のイスラームだよ。つまり、偶像崇拝も変な習慣もないということ)」と応えられる。心の中では

「んなわきゃねーだろ!」

と叫ぶこと数度…ここにどんなイスラーム、特に、いわゆる神秘主義(スーフィー)が入っているのかもわからなかった。以前、一度だけ、2つグループがある、と聞いたことがあるが、どうもそうではなさそう。街の中心部にはセネガルを中心に広がるムーリッドのモスクがあるし、北部にはフラニのモスクがある。きっともっとあるはずだ、という確信だけはあった。

そして、本日、El Hajji Mussaというイマームと会うことができた。

師は、なんとブルキナファソ・イスラーム・コミッティの事務局長だ。いわばてっぺん。今日は結局ほとんど時間をいただけず、後日質問票を持ってくるように、と言われる。しかし、ほんの数分間で、上の疑問はほとんど解けたし、ここのイスラームの全体像の輪郭くらいはつかめた。その後、一緒に来てくれたタル、アミノゥともイスラームの話で盛り上がり、一般的な情報はかなりわかった。

豚肉を喰い、泥酔するまで酒を飲むイスラームのいる国ブルキナファソ。これからどんなことが分かるのだろう?

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2010年1月19日火曜日

新年の胎動

今年は元旦始動。

プロ野球の選手もそんな選手が多かったように思う。スポーツなら、私もラグビーをやっていたときに、先輩から「1日休めば戻すのに3日かかる」と言われて、何かと体を動かしていたように思う。(あっ!まだ現役のつもりなんだけど過去形にしてしまった…)年中冬眠状態に近い怠惰な院生としては、何のことはないのだが…まま、調査は手ごたえを残しつつ、成果につながるかどうか、という不安も残しているが、とりあえず動いているので2010年の出足はなかなか充実しているように感じている。

さっぱりした正月のこちらは、365日の中の一日を何とか生きていたが、日本は大変だ。会社にいた時も、年始の休暇が明けても何日かはあいさつ回りやら、なんやらでさっぱり腹に力が入らない。毎度毎度アルコールが入りすぎのきらいがある。今更ながら、そんなことを思い出すが、だんだん来年度の研究会の話が出てきたり、講義の依頼をいただいたりする。日本の方も、動き出したな、という実感を遠くから思う。

2010年1月18日月曜日

Dar es Salaam de Ouagadougou





昨夜は韓国人Pさんと話し込んで、睡眠不足。少々疲労もたまってきたころだが、前に書いたワガドゥグのダル・エス・サラーム(平和な港=タンザニアの経済的中心)に行ってきた。お伴はいつものアミノゥ。アミノゥも場所を調べておいてくれて、11時ころからアミノゥのバイクを駆って出発する。




ワガドゥグの北西に位置するこの村は、ボボ・ディウラッソ、アビジャンへと向かう線路沿いにあった。行きは約1時間、ひたすら炎天下を進む。初めに見えてきたのは、モスクだった。とりあえず、イスラームの村であることが分かる。タンザニアもイスラームの多い地域だ。


ここで、ここを訪れた趣旨を説明する。マラブーが出てきて、話を聞いてくれる。ダルエスサラームとタンザニアをくっつけて話すと、大笑いされる。マリにも「ダルエスサラーム」という地名があり、マラブー自身、そこにコーランを学びに遊学した経験があるという。ロマンチックな僕の妄想は敢え無くここで撃沈。「ダルエスサラーム」と言うのは、コーランに出てくる7つの楽園の一つである、というマラブーの解説を聞き、まあ納得…
ただ、ともあれ、ここに来たのは、僕の妄想を確かめるためではなく、ヤルセについて調べることである。まだ、壮年の域のマラブー。長老連に引き合わせてくれるというので、お願いする。



モスクからさらに1kmほど奥に入った(方角はすでによくわからず…)ところに老人が木陰に座っている。実に人のよさそうな、好々爺という表現がぴったりくる老人である。この人に話を聞くことになる。

ここにいるすべての人がモレ(モシの言葉)を話すのだが、自分たちだけの時は、ディウラに近い言語で会話をするという。ディウラから多少のボキャブラリーを引いた言語、という説明だが…全くディウラの知識のない私たちにはなんとも確かめられない。そして、大真面目にタンザニアの話を持ち出すと、自分たちの先祖はメッカからやってきた、という。参考文献通りである。また、モシの王、モロ・ナーバとの関係もモロモロさん(前々回の記事参照)の言われる通りだった。すなわち、イスラームを携えて交易をしていたヤルセの祈りに魅せられた王が、乞うてヤルセを近くに住まわせた、というものである。ただ、少なくとも老人の曾祖父の時代からこの村に住んでおり、それ以前のことはわからない、という。

帰り道。一緒についてきてくれた若者に近道を教えてもらった。そして、アミノゥより…最初、我々が来たときに、老人たちは話をしたくなかったみたいだ、ということ。さらに、我々が「秘密(=儀礼的な話)」を聞きに来たのではない、ということで、話を始めたようだ、ということを伝えられた。
残念ながら、これ以上この村にかかわることはできない。完全に違う方向に行ってしまうし。しかし、ということは、ヤルセのイスラームの核心部がこの村にヒントが隠されている可能性がある(祈祷やコミュニティのベースではなく、モシのアニミズム的な要素が混じったもの)ということ。そこにもしや、東アフリカの要素が見られるとしたら…
限りなく妄想を掻き立ててくれる村、楽園(ダルエスサラーム)小旅行記でした。

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2010年1月15日金曜日

変えてやった…

ブログのレイアウト。前に某女王に変えられてそのままになっていた。前のレイアウトがずいぶん気に入らなかったのか、ほとんど言葉を発することなく、淡々と変えられてしまったように記憶している。

ちょっと事務的な感じだったので、いつか変えてやる…、というのをやっと実現した。やってやった。

今日は休憩。本当は3つも予定が入っていたのだが、二日酔いと洗濯で午前中がまるっと潰れてしまい、途端にやる気なし。予定を見直したり、メールを打ったり。

2010年1月14日木曜日

「KAKAO」はあんまり関係ないですが…




"T”が発音しにくいらしい。いっつもKAKAOである。しかも腹が気になる。この写真。





というのはどうでもよくて…





しばらく真面目に調査してきた。何度か中途半端に書いたが、実に面白い調査になっている。ここ数日間で5人ほどの古老に話を聞けた。実によく話してくれて、二人の調査協力者も本気で面白がってくれている。消えかかった自分たちのルーツを探る、どんな気持ちなんだろうか。古老たちも口々に言うのが、「アフリカの歴史は口承に頼るため、自分たちの歴史が次々と消えて行ってしまう」ということで、おそらく、変なデブ外国人がこれを文字にして残してくれることを期待しての協力してくれているのだろう。


一番左がアミノゥ、最近一番よく会っている調査協力者で、明るく、生真面目、いつも友人たちの中心にいる好青年。その右の水戸黄門みたいな爺さんがハウサで最も有力なイマーム、アル・ハジ・ダカンバリ・ババカー師。その右はよくわからないけど、気のいいイマームのお友達。いちばん右が、今回の調査でしばしば寝床を提供してくれているタル。アミノゥと同じ部屋で育ったという、兄弟以上の大親友。

今日は、このババカー師らが語ってくれた、ハウサともう一方のヤルセという民族のことの聞き取りを行った。いろんな話が出てくるもんで、今日二人目の聞き取りでは、西から来たもんだとばかり思っていたヤルセは、実はイエメンの出で、しかもワガドゥグの近くにもDar es Salamという村があるそうな。Dar es Salamと言えば、タンザニアの経済的な中心。ワガドゥグから1万キロ以上は離れていよう。この距離をえっちらおっちら歩いてくるとどれくらいかかるんだろう…途中にジャングルはあるは、砂漠はあるは。「ここはどこよりもよい」と思ったところに腰を落ち着けるそうな。雄大なり。桃源郷探し。

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2010年1月7日木曜日

すっぽかされる

よくあること…なんですが、なんだかね~。

朝から某誌のインタビューを受ける。時代は便利になったもんで、スカイプである。私の論文の粗稿を送っておき、事前に調査事項を聞きとっておく。そのうえでのインタビュー。ほぼ原稿はできているので、そこに足りない情報を乗っけるということ。朝から順調な滑り出しだった。

午後。昨日、NGOのスタッフにある提案をした。NGOで転がっているデータ集積作業なのだが、この返事をくれるとか言って、こちらから電話しても全く出ず…そして、今回の受け入れの先生が6日に電話するように言っていたので、電話するが、こちらも出ず。さらに、NGOの事務所スタッフが「久しぶりにどうだい?」と言うので、「喜んで」ということで待っている間にこれを書いているのだが、今、「ちょっと今日は都合悪くなった。明日ね!」と元気よく電話がかかってくる。

まーいいですけど。やることがないわけではないので。そして夜は更けていく…

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2010年1月4日月曜日

「調査しながら書いて読むんや」

師匠W先生からのお言葉です。

以前、あまりに立て続けに調査に行くことになり、

「少し本を読む時間が欲しいんですが…」

と言い訳をしたことがあります。この言葉はその時にいただいたもので、ガーン、と来ました。確かにその通りで、教官方はどこで本を読んでいるんだろう、と思わせるほど読書量は多いし、調査の密度も濃いのです。そして、いつ書いているんだ、と思うほど書いているのです。いつかこうなれるかどうか、わかりませんが、そうなる努力はせんといけない、と褌を締め直す思いもしたわけです。

基本的に、こういう体育会系的アドバイスには弱く、ラグビーでも明治大学の故北島監督の

「前へ」(決戦前の一言がこれだけだったとか。)

という一言はいちいち感動していました。1cm前に出れば有利になるという、ラグビーのもっともシンプルな真理を言い当てている一言だな~とか。

なんか休んでいたのか、仕事をしていたのか、よくわからない2週間ほどを過ごしましたが、今日はひたすら読書に励みました。ブルキナファソは世間的に4連休の3日目で、インフォーマント、助手ともにあんまり働かせると文句を言われるので。

読んでいたのは、必読文献にも関わらず、読みそびれていたSkinnerの論文。モシのイスラーム化についての論文でした。Hajji(ムスリムでメッカ巡礼をおこなった人につけられる敬称)がある村で、メッカの人々は一夫一婦制だと語ると聞かなかったふりをした、という一節は笑いました。ここの人らしい。

読書にも少し疲れたので、今度は書くとしますか。2009年の置き土産みたいなもんですが。気分的に早く年明けを迎えたいです。

2010年1月2日土曜日

明けましておめでとうございます。

2010年になりました。


昨年お世話になった皆様、どうもありがとうございました。今年もひとつよろしくお願いいたします。


年越しはオヤジ氏の店にて、楽しい仲間たちと過ごし(途中であまりに眠くて離脱…)、初日の出を見に行き(やはり眠くてボーっとしている間に日の出)ました。帰宅後、持参した餅などで雑煮をみんなで食べ、かろうじて正月らしくなる。そして、爆睡…


年末年始で、調査もあまり動きがないことをいいことにちょっと飲みすぎの日々。すでにそろそろケツに火がついて来たので、元旦から始動することにした。今回のメイン調査ではないが、ワガドゥグのハウサの歴史の聞き取りを行っている。聞き取った内容を少しまとめてみる。

ワガドゥグの形成史を考えるとき、最大民族のモシを中心に考えるべきことは当然。すでに、1960年代からE.Skinner氏によって分厚い民族誌としてその研究成果が世に出ている。しかし、モシという単一がワガドゥグを形成したわけではない。現在の北ガーナのダコンバやマンプルシが北上して現在のモシ王国を形成したが、どうも彼らは農耕を主たる生業とし、また比較的戦闘的な民族だったようだ。

現在調査しているハウサは東側から、そして、西側からはマリンケがモシの領域に通商民として接触していたらしい。この人々は元々、ブルキナファソ北部のドリ、ジボ、ワヒグヤと言った地域で、マリンケとハウサの間の通商のためにコミュニティを形成していた。彼らが南下してくるのは、現在のガーナやコートジボアールから運ばれてくるコラの実の需要が高まったかららしい。

コラの実は、王やチーフへの貢物として、西アフリカ全体に通じている。現在でも、たとえば、マリのドゴンの村を訪れるときには、儀礼的に村のチーフにコラの実を渡して、入村を乞うことをする。ワガドゥグにもその名残はマーケットにあり、大モスクの裏には、コラの実のマーケットが存在する。しかし、現在のこのマーケットには、ハウサ商人は一人もいない、という。なぜか。1950年代までは、5人ほどのハウサ商人がいたが、これらはモシの商人にとって代わられた、という。まず、ハウサの通商をはためで見ていたモシの商人は、ハウサの商法をまねするべく、ハウサ商人についてコラの仕入れを覚え、コラの商売を始めた。そして、ワガドゥグ近辺のモシがハウサからもコラの実を仕入れる中で、前借り+未払いが横行して、ハウサはとうとうコラの商売から撤退した、という。

ハウサのワガドゥグでの貢献は、こうした経済的なものだけではない。一方で、イスラームを持ちこんだのもハウサである(マリンケも同様の働きをした)。

これまでも、モスクやコーラン学校への潜入を試みたが、一度たりとも入れず、文献も少ないため(勉強不足!!)、私の中ではブラックボックスだった。おそらくワガドゥグの研究をするには、一番大事な部分だったのだが…

ただ、この話から、ワガドゥグのイスラームの起源がぼんやりと見えてくる。ハウサ自体がフラニの支配を受けてイスラーム化している、フラニのイスラームはセネガルのイスラームの影響化にあり、これがさらに西下してブルキナファソの地域に広まったと考えるのが順当だろう。

そんなわけで、ワガドゥグの経済的、宗教的に大きな影響を及ぼしたハウサ。来週は今回の受け入れの先生と会い、今回の調査の打ち合わせを行い、そのままトラムダキュイのハウサの家を中心に調査をする予定。

そんなわけで。何とか元気にブルキナファソで新年を迎えることができ、さっそく調査に掛っている。

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