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球春間近-ドラゴンズ野手

週末、めっきり春の陽気でずいぶんすごしやすくなった。ニュースサイトの野球の記事も日々動きが出てきて、そろそろペナントが始まる。 昨年のペナント終了後もたくさんの話題を振りまいてくれたドラゴンズ。GMに落合さんが就任、監督に兼任で谷繁が就任、そして落合政権の立役者の井端が去り、小笠原がその穴を埋めるようにドラゴンズに入団した。ナゴヤドームができて以来、旧来の(少々雑な感じもした)打撃中心の野球から守り勝つ野球に変わったこのチームが落合政権で一気に花が開き、高木政権でそのひずみが出たように、僕は解釈している。これが、今年から今一度大きな変化を迎えるのではないかと期待している。 監督以下のフロントの変化はもちろん大きいのだけど、今年のドラゴンズを考える上で最も象徴的な変化は、井端が抜けたことにあるのではないか、と思っている。「守る」という要素については、身体的な能力に加え、経験及ぼす影響は、ほかの打つ、守るに比べ、より大きな部分を占める。井端という卓越した守備の人は、シュアで粘り強い打撃を習得することによって、確固たる地位を築いてきた。ただでさえ、長く試合に出ていることによるアドバンテージがあるのに、これを追い抜く若手に出て来い、というのはなかなか酷な話だとは、薄々思っていたけれど、井端を外に出す(残っても3000万円の年俸程度にしか使わない)ということで、いまひとつ打ち破れていなかった、「守り」のチームに甘んじていたドラゴンズというチームカラーに大きな一石を投じたに思う。「守る」だけでなくて、守るほうに重点があるチームへの変化だ(もちろん、今まで打つほうをサボっていたわけではないだろうけど)。 オープン戦だけを見ても、内野のレギュラー争いはとても面白い。複数のポジションをこなせる堂上、高橋(周)、エルナンデス、森野、ルナ、荒木、そして小笠原までが加わってレギュラー争いが展開されている。最も万能だった井端がいては、この状況が生まれなかったように思う。「打つ」ということについては、嫌らしいバッティングをする井端が抜けたものの、荒木や森野といったベテランの粘り強いバッティングでその分の穴は埋まるだろうし、むしろ、小笠原の加入や高橋の台頭によって、強打が期待できるようになった分、おそらく得点力は上がっていくだろう。荒木か、井端か、という選択肢については未だによく理解

ブルキナも暑くなってきた。

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3月も中旬。日本のこの時期は桜の蕾が…三寒四温が…という季節。サヘルに近い西アフリカはこれからもっとも厳しい季節に入る。現在16時半。40度を軽く越している。街中が微睡み、動きが緩慢になる。 大体この時期に調査に来るときは、この酷暑を避けるように、3月中旬前くらいにはこちらを出るようにしている。何度かは洗礼を浴び、いかに仕事にならないか(僕も周りも)を経験しているので、その辺はご勘弁いただきたい。そして、今回の調査も残すところあと1日。 毎日が大体思い出せて、まあ充実した調査だったけど、「仕事」になってから、「調査」ではない業務がたくさん増えた。その代り、こういう研究所の皮を被ってなかなか集まらなかった情報が集まるようになったりした恩恵もあるから、実は中身が濃縮されてきたのではないか(と期待する)。 とにかく、今回の成果の第一は「ストリート・チルドレン」の統計調査の遂行なのだけど、ここ数日間でクルアーン学校のデータも集まってきているし、セネガルの足がかりが築けたし、タマネギ貯蔵庫の資料もある程度集まった。その他、行くべきところは大概行けたので、まずまずと言ったところだろう。その代り、宿題として持ってきた原稿があまり進まなかったし、気が付けばたまりまくっている発表資料の一部が取り残されたまま(このことに気付いて一昨日から大急ぎで進めているが…)。いやはや、「調査して本を読んで書くんや!」という旧師匠のお言葉を実行するのはなかなかに難しく。 とりあえず食レポも8本か。頑張って食べたな…そのおかげで、朝と夜のおばちゃんにずいぶん気に入ってもらって、他で浮気できなくなったという…う~ん、たまには他のもんを食べたいんですけど… そんなわけで、明日出国します。今回もたくさんの方にお世話になり、特にいろいろと話を聞かせてくれた皆さん、ご紹介いただいたりした皆さん、どうもありがとうございました。きっと届かないですが、お礼までにて。 にほんブログ村

鶴見俊輔『旅と移動 鶴見俊輔コレクション3』河出書房新書(2013年)

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「もっと早く読んでおけばよかった」、そう思う本は数多い。ちゃんと本を読んできたつもりでも、僕などは本当に読書の才能、本を読みこむ努力を怠ってきたから、日常的にこんな後悔に苛まれている。 ●●全集、とか、○○著作集、とかいうと、大先生の論文の寄せ集めのようなものが多くて、どうも苦手なのだけど、この本は題名を見て購入を決めた。自分の研究にもキーワードとして、こんな言葉が入ってくるからだ。しかし、読後感として、鶴見俊輔という巨人の懐の深さやご自身の人生から紡ぎあげた、実に豊かな味わい深い思考と万人に伝わる表現は感じ入るものがある。もちろん、最後の方の「国家と私」あたりは特に賛否両論あるだろう。この節に限って言えば、鶴見俊輔の特異な経歴から語られる国家と、まったくの小市民の間には、乗り越えがたい溝があるように思う。 ジョン万次郎から始まり、ご自身のディアスポラ(という言葉は使っていないが)の経験までをまとめて、「旅」という一本貫かれた筋から、様々な旅と人の移動が語られる。「ひとりの読者として」として、解説を書かれている四方田犬彦氏はそのはじめにこんなことを書く。 「たくさんの種類の旅がある。 知的探求のための旅。社会的により高い地位に到達するための、試練の旅。未知の風景をこの眼で確かめてみたいという好奇心だけに促される旅。」(443) まさにさまざまな旅がある。時代の大きなうねりの中で期せずして、もしくは時代に押し出されるようにして異国の地を踏むもの、また、その跡。今回の調査でも他のNGOのスタッフたちと話している中で、決して「問題」があることが、子どもたちをストリートに押し出す要因とはならない、ということはしばしば聞いた。おそらく、僕が大学生の時にしたようなバックパッカー、また、その後もこうして続いているアフリカとの往復の旅は、これらの旅ではなく、その前の引用の類の旅なのだろう。四方田犬彦氏が続けて、 「鶴見俊輔が拘泥するのは、そのような旅ではない。好むと好まざるとにかかわらず状況に強いられてなされてしまった旅、庇護者も受け入れ先もなく、身を隠すようにしてなされた旅のことだ。」(443) というように言う。しかし、こうした旅を経験した人たちの子孫、もしくは、彼らのように旅すらできなかった人たち、また、なんとか押し留まった人たちもいる。今、僕

食文化シリーズ 「ベンガ(ササゲ豆)」

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食文化シリーズ、8回目くらい。今日はベンガ。これもこのあたりのソウルフードだ。もっと早い時期に紹介しておかねばならなかった料理の1つだったが、なかなか食べる機会がなくて遅くなってしまった。というのが、ベンガを食べるのはなかなか勇気が必要で、朝これを食べると、一日中のどが渇くのだ。豆全般的にそんな傾向があって、こちらの人も、「朝ベンガを食べたら、あとは水を飲んでれば一日おなかが空かない」などという。 しかし、そこは勇気を振り絞って。出張中ではあったが、ベンガを探すことにした(たくさん食べると動けなくなるので、量は少な目で、と心に決めて…)。6:30。すでに準備の始まっていたマーケットの一角に数名の女性がベンガを売ってるが見え、その中の一人のところへ。お姉さんの前に座ると、「白人」がベンガを食べている、というので、人だかりが。もうそのあたりは慣れたもので、まったく周りを気にせずに写真をパシャっと撮り、さっそく食べ始める。200Fcfaでまずまずの量、そしてなぜかオプションでスパゲティがついてくる。一番の客だったのもあって、少し水分が多い感じ。 ベンガなどの豆料理には、必ず健康志向の日本人が見たらびっくりする量の油を回しかける。しかし、この油がないと口の中がバサバサになって非常に食べにくいのがこれらの豆料理だ。そんなわけで、たっぷりの油、オンリー炭水化物の朝ごはん。ベジタリアン化した日本の朝食などどこへやら。炭水化物万歳の朝ごはんだった。  さて、ベンガを食べて移動中もひたすら水を飲みながら、午前中を終えてお昼を食べ、前に少し紹介した チルメンガ さんのところに少し聞き取りと帰国のご挨拶に訪れる。最近は完全に親戚のオッチャンの家に行くような感覚になってきた。チルメンガさんのところを訪れると、必ずチャパロとご飯のおもてなしがあるのだけど、これを期待していくわけにもいかず、その前に必ずご飯を食べてから伺うのだ。なので、いつもちゃんと食べられないことになるのだけど。日本人的なのだ。 朝ベンガを食べて、チルメンガさんのところで出たのが、下の写真。ササゲ豆にGros mil(グロ・ミル)と呼ばれる雑穀を炊き込んだものだ。Gros milとは何を指すのかよくわからないのだけど、おそらくは白ソルガム(粟)ではないかと思う。マジー(ブイヨン)の

10分、5分、2分、10m

日本のパンクチュアリティは有名だけど、逆にアフリカは「アフリカン・タイム」と評されるほどに時間にルーズ、反面、のんびりしている、などというイメージが付きまとう。村でのことなら致し方なしとしても、ワガドゥグくらいの街になれば、実は逆にちょっと遅れて怒られることすらある。 ちなみに、アフリカのバス、と言えば、席がいっぱいにならないと発車しない…などというイメージだったのだが、すでにいくつかの会社では、定刻通りに席がいっぱいにならなくても発車してしまう。数年前に、アクラ行のバスに乗ろうとして、ちょっと水を買いに行ったら、「おまえを待っていたんだ!」と怒られたことすらある。 そんなわけで、アフリカの中ではかなりパンクチュアリティの厳しいブルキナ。たとえばタクシーを呼んで時間に来ない、というときに、ドライバーに電話をすると、Dans 10minutes(あと10分で行きます!)などと返事をする。今日も10時のアポのために、9時半(距離的には10分で着く)にタクシーを頼んだのに、9:35分になっても来ない。さすがにそれほど余裕がなかったので、「早く来て!」と電話をすると、Dans 5minutes(あと5分!)と。それから8分後に来たので事なきを得たが、少しひやりとした。 午後。他のアポイントのために、役所を訪れる。15:00のアポで14:55頃に訪問先に到着。門先でお茶を飲んでいた、同僚がまだその人が来ていなかったので、電話をしてくれる。Dans 2minutes( あと2分!)。電話をした同僚も笑いながら、2分だったらここから見えるかもね、なんていう。 こんな話で、ずいぶん前にこんなことがあった。確か、誰かを空港に送る前に、送別会のようにして、Peule de chef(から揚げのこと)の有名なテラスにご飯を食べに行った。チェックインが21:00で、20:45には店を出なければならない。20:00ころにタクシーに電話をして、20:30には来てほしい、と伝えておいた。しかし、40分に来ず、電話をする。「あと10分待って!」。50分に来ず、「あと5分」。チェックインの時間の21:00に電話をすると「あと10m!」。そこにいたみんなが「それは初めて聞いた」と爆笑の渦に包まれた。 とまあこんな話を思い出した。

「ストリート・チルドレン」集計調査終了

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夜9時にワガドゥグ市内5か所で、約30人のアンケーターが始めた「ストリート・チルドレン」集計調査が終了。一番遅くまでやっていたチームの終了時間は午前2時過ぎ。僕も2時前くらいまで、ワガドゥグ一の繁華街、クワメ・ンクルマ通りで6名のアンケーターと一緒に動いた。 僕は一人で外人なので、アンケーターの仕事を見守っているだけだったけど(立場的にあまり派手に動いてはいけないらしい)、逆に、アンケーターを含めた、インタビューの空間を客観的に見られたので、別の意味で勉強になった。一度論文で書いたのだけど、NGOのスタッフの子どもたちへの視点や「子ども」の枠組みがずいぶん深まったし、同時に6人のフィールドワークが見られたのは方法論的にも勉強になった。もちろん、僕はここでは外国人で、同じようにふるまうことはできないのだけど。 雑駁だけど、今回の調査で気づいたことをいくつかまとめておきたい。 ① 子どものモビリティについて 今回の調査でアンケーターが最も多く口走ったのは、「子どもが集まるサイトが完全に変わった」という言葉ではなかっただろうか。この調査の前のまとまった統計調査は2009年。そうだろうな、と思ってあまり考えたくはなかったけど、5年ぶりに子どものサイトが確認、共有された。 この調査の間、もっとも注意が払われたのは、「同じ時刻に一斉に調査を始める」ということだった。数時間の間にも、転々と移動する子どもたちをダブルカウントすることを防ぐためだ。こうした子どもたちのトリッキーな動きは、彼らの自由意志だけが原因ではない。警察や憲兵隊等公権力の取り締まり、さらには、子どもたち同士の権力争いなどによっても大きく変わる。普段それなりに追跡しているはずのNGOのスタッフが追いきれない彼らの移動性がある。 個人的には、子どものモビリティをいくつかの層に分けて考えないといけないな、と思うのだけど、どんなふうに描けばいいだろう、少し考えなければならないところだ。 ② NGO活動とエスニシティ この調査とかNGOの活動そのものの根源的な問題を指摘してしまうようだが、NGOの活動と民族性のあたりはもう少し注意していなければならなかった。おそらく僕が一緒に動いた中にはブルキナファソ第3の言語であるフルベ語を操れる人がいなかった。たまたま僕らのエリアにはフルベはいない「はず」なのだ

食文化シリーズ 「ムギラ」

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朝7時。数日前にハルマッタンが吹き荒れたというワガドゥグは暑気が一掃されすがすがしい。こんな朝は焼き立てのバゲットといれたてのコーヒー…というわけにはいかない。こっちは腹が減っているのだ。 だみ声のおばちゃんが朝から群れを成して押しかける老若男女を小気味よく捌く。地元の人も白人(私)も容赦なし。特設のカウンターに並ぶ大皿の数々、2つのテーブルに窮屈そうに身を寄せ合う人びと。肉を噛み切り、スープをすする音、匂いにつられてうろうろする犬や猫のか細い鳴き声…ワガドゥグの朝の光景だ。 例の牛皮ソースのおばちゃんのもう一つの特製料理がこのムギラ。おそらくガーナのオムトゥ(であってるかな?)と同じもの。この起源は定かではない。コートジボアールという人もいるし、ガーナ、という人もいる。とにかく、コメの料理だし、おそらく南の方からやってきたのだと思う。 おコメを炊いてすり潰し、こぶし大に丸める。日本なら、おはぎのようなものだ。粘り気の少ないこのあたりのコメをどのようにこんな形状にしているのかよくわからないけど、いつもアツアツで出てくるので、もしかするともう一度ふかしているのかもしれない。 この団子状(そんなにかわいくはないが)のムギラに、ピーナッツソースと牛皮を煮込んだ濃いめのトマトソースかけていただく。揚げ魚か牛皮をトッピングできるが、ここはおばちゃんの店、自動的に牛皮だ。本当は手でこねながら食べた方がスープが絡んでおいしいのだが、ここのピーナッツソースは少し水気が多いので、ソースをスープ替わりにした方がベター。そんなわけで、スプーンで食べる。 始めは4つ食べていたが、あとでかなり苦しくなるので、最近は3つ。牛皮2枚が定番。お値段はムギラ一つ50Fcfa(10円)、牛皮一枚50Fcfa(10円)で、〆て250Fcfaの朝ごはん。写真は昨日のものだけど、これを書きかけたまま食べに行ったら思わず今日もムギラになってしまった… にほんブログ村

ボランティア考

FacebookでNGO関係のある人の写真を見て、その人のある一言を思い出した。確か、僕が博士課程に入ってすぐのことだったと思う。 「あなたの研究を30秒で説明してください」 確かそんなことだったのだけど、実はその頃この一言にずいぶん腹を立てた。プレゼンの技術として、それくらいで話せればいいのだけど、対面で多少時間もあるのに30秒で語ってその後の話題につなげるなどできるわけもない。一つのトピックを12分でしゃべるアフリカ学会でも相当な時間をかけて準備をするのに。 まだ僕はNGOとボランティアという関係をしっかり説明ができない。NGOに関わる人がボランティアではあるわけなのだけど、「ボランティア=自主性」、日本語では「自主的に動く人」とすると、NGOに関わる人が活動的で自主性のある人ということになるけど、僕の肌感覚ではそうは思えない。多くの活動参加者がとても人見知りだし、ぎりぎりの勇気を振り絞って、きっと優しくしてくれるであろう人たち(NGOスタッフ)に、どこか救済を求めにきているように思うからである。 上の言葉と同時に、大学時代の恩師の「ボランティア的に生きる」という言葉も思い出した。就職してさらにNGOに関わり、有休をとって大学のゼミに来る僕を見て、初めてそんな言葉で褒められたので、とても印象に残っている。「恵まれない人」を助ける正義の味方がNGOに関わる人の自己実現の一面だとすると、その「恵まれない人」がどのように恵まれないのかを知ることから始めるのがロジックな考え方だろう。とすると、「恵まれない人」のことを30秒で語れるなら、僕らの仕事は全く持って簡単で、「恵まれなさ」はものすごく単純な構造の中で生み出されていることになるような気がする。きっとそれは30秒の語りの中に昇華できるものではなくて、僕らが3か月も3年ももかけて学ばなければわからなかったことなのだ。 いちいち「恵まれない」とカッコを付けるのは、そういう価値観で判断すべきではない、という意思表示なのだけど、このカッコの意味こそ僕らが少しでも明らかにしようとしているところだ。そして僕らの信念として、僕らの価値観と僕らから見える現象の隙間にこそある問題を解く鍵がある、と思っている。たぶんそれらは全く違う領域の人に30秒で語れる内容ではない。だから、ここから何かを得ようと思ったら、自主的(

食文化シリーズ ヤッサ・ジェンとチェプ・ジェンとチェプ・ヤップ(セネガル番外編2)

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昨日ブルキナファソに戻る。1週間の滞在とはいえ、密度の濃い、また、楽しいものだった。特に食はずいぶん楽しませてもらった。 とにかく最後まで一食を無駄にしないように、しっかり食べてきたので、セネガル番外編2本目を報告したい。 お世話になったジャネ先生宅にお呼ばれして、ザ・チェプジェン。セネガルの食文化で特にいいのは、こうして大皿でみんなで食べること。そして、それぞれが満腹を目指して食べるわけだけど、隣の人に魚をほぐしたり、野菜を切り分けて配ったりしながら共同作業で食べることだ。この日はジャネ先生の奥様がホスト役で、食材の説明をしてくれながらいろいろと取り分けてくれた。アフリカ人がスプーンで食べている横で、僕は手で食べていたので、メモなどできるわけもなく、ひたすらがっついた。中でも魚の干物(クサヤっぽい)のがおいしかったのだけど、名前は忘れた。知ってる人、教えてください。 時間が前後するけど、その前日のホテルでの食事。ヤッサ(タマネギソース)に魚(ジェン)でヤッサ・ジェン。これもセネガルのいいところで、魚が旨い。また僕のドラえもんハンド登場で、なんとなく大きさがわかるだろうか。おおよそ30㎝のおそらくスズキ。白身が旨い魚だ。鯛やらスズキやら、日本では高くて買えない魚が、ここでは激安、そして新鮮。魚、よく食いました。 そして、移動中の機内食。セネガル発ということだろうか。チェプ・ヤップ(鶏肉)が出た。ちょっとびっくりしたけど、機内食はこういうのがいい。到着する国のものではなくて(ブルキナでもよく食べるが)、出発先の国のものを出して後ろ髪をひかれる感じだろうか。冷えていたのが残念だったけど、なかなかの味付け。これでしばらくチェプはいいな、という気にさせてくれる。 そんなわけで、いろいろなことに翻弄されながらも、充実したセネガルを離れ、今日からワガドゥグでの調査を再開。いきなり大きな調査からだけど、うまく行きますように。 にほんブログ村

セネガルのリズム

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一通りセネガルでの予定終了。一週間だったけど、内容の濃い時間だった。というのは昨日大体書いたか。柵だらけのブルキナに比べ、ブルキナでの失敗を反省しながら人間関係を形成しているためか、そもそも会っている人がサンパティックな人たちだからかわからないけど、仕事の話はずいぶんスムーズに進んだ気がする。 それで、今日の話題。まずは、なんかお腹いっぱいで深夜を迎えようとしている。 なんかここはスペインみたいなところで、どうも食事のリズムをうまく調整できない。朝はブルキナ並で、バゲットにコーヒー、というのが一般的。僕は朝が早いので、7時くらいにご飯を食べてしまう。それで、お昼は14時か15時。今日などは16時近かった。なので、夜もずいぶん遅いのだけど、16時に食べたとすると、少し夜も食べておかないと、翌朝腹が減るな、と思って、サンドイッチかなんか、軽いものを…と思ってホテルのフロントに頼むと、キッチンはすでにしまっている、とのこと。21時頃。まあ、土曜日だから…ということで、ホテルの外の数日前に行ったレストランに向かった。モロヘ(写真撮り忘れた)という、念願の(初回に行ったときに毎日のように食べた)セネガル飯にありついたのだが、やはりずいぶん重たい。 どういうわけでこんなリズムの生活をしているのやらわからないけど、どうも我々(僕だけ?)の生活には合わないな…ということを思った。たぶん、おしゃべりしている時間とか、何とかが関わっているようにも思うけど、とにかくお腹が重くて眠い。というセネガル最後の夜でした。 にほんブログ村

セネガル調査もボチボチと。そしてNという村のこと。

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今日は金曜日。多くのイスラーム地域では金曜日は安息日。近代化された都市とはいえ、金曜日の午後はほぼ何も動かない。僕も日曜日のお昼頃の出発なので、これでほぼ滞在中の日程は終了。 どこにいてもそうだけど、いろんな人に突然訪ねて行って振り回して、また会いたい人には振り回されるという、常に機転を利かせる注意を払いながらの滞在だった。しかし、少し仕事としてもリクエストから飛び出て、帰ってからなんといわれるか不安をもちながらも今回は少し大胆に攻めてみた。でも、慎重に相手に物事を伝え、誤解が極力ないように。   そんななか、2008年のセネガル初渡航以来、6年ぶりにNという村を訪れた。この村にDaara(学校)と呼ばれる区画がなされ、ここにSBMという聖者を中心としたムーリッドコミュニティーが形成されている。6年を経た現在、どのように変化しているのか、どのような活動が行われているか、そして、今のプロジェクトの仕事がここでも可能か、ということを視察するためである。   ちなみに、写真は本文とは関係ないので、あしからず。まだ多少企業秘密の部分があり、行ったあたりの写真のみにて、ご理解いただきたい。しかし、西アフリカに行きなれた方なら、この下の写真は少し違和感を覚えるかもしれない。セネガルは、おそらくはマグレブの影響が強いこともあり、馬が多い。馬耕が牛耕よりも多く、ダカールなど都市においても、ロバよりも馬による運搬が盛んだ。これを書いているホテルからも時折馬のヒズメの音がしばしば聞こえるほどだ。 閑話休題。 そんなわけで一泊でN村に行ってきたのだが、いやはや、まず驚いたのは、電気も水道もなかったあの村で、インターネットすら使えるようになっていたこと。一緒に行ってくれたPは、「そうだっけ?もう電気がきたのはずいぶん前だぞ」と。どうやら、前回僕が滞在した直後に開通したらしい。そして、以前から医療や学校、また他のこのあたりの村同様に産業のなかった寒村のこの村に、クリニックを建て、学校を開き、さらにセネガルを代表するほどのクオリティの衣料産業をつくりだしつつある。そして、さらにNから12㎞ほど離れた集落(SBM師の祖父の実家)に新たなDaaraをつくりだしたところだった。 以前はもう少しストイックなイメージが強かったこの村だが、相変わらず欧米からのボラ