2014年3月11日火曜日

鶴見俊輔『旅と移動 鶴見俊輔コレクション3』河出書房新書(2013年)


「もっと早く読んでおけばよかった」、そう思う本は数多い。ちゃんと本を読んできたつもりでも、僕などは本当に読書の才能、本を読みこむ努力を怠ってきたから、日常的にこんな後悔に苛まれている。

●●全集、とか、○○著作集、とかいうと、大先生の論文の寄せ集めのようなものが多くて、どうも苦手なのだけど、この本は題名を見て購入を決めた。自分の研究にもキーワードとして、こんな言葉が入ってくるからだ。しかし、読後感として、鶴見俊輔という巨人の懐の深さやご自身の人生から紡ぎあげた、実に豊かな味わい深い思考と万人に伝わる表現は感じ入るものがある。もちろん、最後の方の「国家と私」あたりは特に賛否両論あるだろう。この節に限って言えば、鶴見俊輔の特異な経歴から語られる国家と、まったくの小市民の間には、乗り越えがたい溝があるように思う。

ジョン万次郎から始まり、ご自身のディアスポラ(という言葉は使っていないが)の経験までをまとめて、「旅」という一本貫かれた筋から、様々な旅と人の移動が語られる。「ひとりの読者として」として、解説を書かれている四方田犬彦氏はそのはじめにこんなことを書く。

「たくさんの種類の旅がある。
知的探求のための旅。社会的により高い地位に到達するための、試練の旅。未知の風景をこの眼で確かめてみたいという好奇心だけに促される旅。」(443)

まさにさまざまな旅がある。時代の大きなうねりの中で期せずして、もしくは時代に押し出されるようにして異国の地を踏むもの、また、その跡。今回の調査でも他のNGOのスタッフたちと話している中で、決して「問題」があることが、子どもたちをストリートに押し出す要因とはならない、ということはしばしば聞いた。おそらく、僕が大学生の時にしたようなバックパッカー、また、その後もこうして続いているアフリカとの往復の旅は、これらの旅ではなく、その前の引用の類の旅なのだろう。四方田犬彦氏が続けて、

「鶴見俊輔が拘泥するのは、そのような旅ではない。好むと好まざるとにかかわらず状況に強いられてなされてしまった旅、庇護者も受け入れ先もなく、身を隠すようにしてなされた旅のことだ。」(443)

というように言う。しかし、こうした旅を経験した人たちの子孫、もしくは、彼らのように旅すらできなかった人たち、また、なんとか押し留まった人たちもいる。今、僕の前にいる人たちはそういう人たちなのかも、などと想像してみた。しかし、僕の目の前にいる人たちは前者のような旅も企図しているような気もする。まだ見ぬ世界に希望を馳せ、ある人は隣国に、ある人はヨーロッパへと向かう。彼らの旅は鶴見俊輔が描こうとしてきた旅なのだろうか?そして、鶴見俊輔が描こうとした旅の末、また、闘争と逃走の末、果たして一世代、ふた世代前の彼らは幸せを手にできたのかどうか。そして、その息子や娘は、いまどうしているのか、そんなことが気にかかった。

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