ボランティア考

FacebookでNGO関係のある人の写真を見て、その人のある一言を思い出した。確か、僕が博士課程に入ってすぐのことだったと思う。

「あなたの研究を30秒で説明してください」

確かそんなことだったのだけど、実はその頃この一言にずいぶん腹を立てた。プレゼンの技術として、それくらいで話せればいいのだけど、対面で多少時間もあるのに30秒で語ってその後の話題につなげるなどできるわけもない。一つのトピックを12分でしゃべるアフリカ学会でも相当な時間をかけて準備をするのに。

まだ僕はNGOとボランティアという関係をしっかり説明ができない。NGOに関わる人がボランティアではあるわけなのだけど、「ボランティア=自主性」、日本語では「自主的に動く人」とすると、NGOに関わる人が活動的で自主性のある人ということになるけど、僕の肌感覚ではそうは思えない。多くの活動参加者がとても人見知りだし、ぎりぎりの勇気を振り絞って、きっと優しくしてくれるであろう人たち(NGOスタッフ)に、どこか救済を求めにきているように思うからである。

上の言葉と同時に、大学時代の恩師の「ボランティア的に生きる」という言葉も思い出した。就職してさらにNGOに関わり、有休をとって大学のゼミに来る僕を見て、初めてそんな言葉で褒められたので、とても印象に残っている。「恵まれない人」を助ける正義の味方がNGOに関わる人の自己実現の一面だとすると、その「恵まれない人」がどのように恵まれないのかを知ることから始めるのがロジックな考え方だろう。とすると、「恵まれない人」のことを30秒で語れるなら、僕らの仕事は全く持って簡単で、「恵まれなさ」はものすごく単純な構造の中で生み出されていることになるような気がする。きっとそれは30秒の語りの中に昇華できるものではなくて、僕らが3か月も3年ももかけて学ばなければわからなかったことなのだ。

いちいち「恵まれない」とカッコを付けるのは、そういう価値観で判断すべきではない、という意思表示なのだけど、このカッコの意味こそ僕らが少しでも明らかにしようとしているところだ。そして僕らの信念として、僕らの価値観と僕らから見える現象の隙間にこそある問題を解く鍵がある、と思っている。たぶんそれらは全く違う領域の人に30秒で語れる内容ではない。だから、ここから何かを得ようと思ったら、自主的(ボランタリー)にそれを学び、それを運用する術を習得しなければ、「恵まれない人」のことを語っている僕らの思いの詰まった知識はつまらないものになってしまう気がする。そんなために生活をかけて仕事をしているつもりはないし、できればうまく使ってほしい、と思うのだけど。ボランティアをする人が、無償労働をするだけでなく、こういうところに目を向けられるようになるとよいな、と、ある人の写真を見て思った。

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