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「ヤギ2頭「も」」か「ヤギ2頭「しか」」か?

昨日書いた学会シンポの件でもう一つ。 「みんなの学校プロジェクト」 は、ニジェールの広範域を対象に就学率を上げることを目的としたJICAのプロジェクト。世間的な評価についてはよく知らないが、内部評価は上々なよう。シンポでは、このプロジェクトについてもかなり強く触れられた。 僕が理解している限り、このプロジェクトは、「コジェス」と呼ばれる学校運営委員会がコミュニティと教員によって組織され、自らの手によって学校を運営していく(つまり「住民参加」ということ)ものだ。経済的不調などのこの地域特有の問題や、地方分権化といった制度的変化により、このあたりの小学校にはなかなかおカネも先生も回ってこない。それなら、住民自らが自分たちの子どもの教育を担うようにしようという意図なのだろう、と思う。 果たして日本でもこれが成立するのか、というと、すでにこの辺で疑問を感じてしまうのだけど、JICA関係の方によれば、そこそこうまくいっているらしい。その評価基準として、どんなものが使われているか、というと、ナンボ住民が学校運営のためにおカネをだしたか、ということ(きっとほかにもあるだろうけど)で、1校あたり15万Fcfaくらいなのだそうだ。 15万Fcfa。日本円で約3万円くらいなのだけど、ご発表された方は、(あの貧しい地域の人たちが)「15万Fcfa『も』」拠出した、と評価されている。だが、15万Fcfaといえば、羊が高騰するタバスキ(イスラームの犠牲祭)の大きな羊2頭分くらい。通常でもヤギ4頭を買うのも難しい。確かに一家族で出すのであれば結構な出費だが、150人くらい生徒がいるとすると、この額はたいしたことはない。僕は「15万Fcfa『しか』」と思ったわけだ。僕の感覚としたら、一大事があれば、家畜を売ってそれくらいのおカネを用意できる人が大多数だと感じているし、イスラーム学校なら、少しカネを持っている人がポンと出してしまうだろう、と思うのだ。 当然、日本と同じように、ニジェールでも、「学校」は「国」が提供してくれるもので、周辺国では義務教育の無償化が進んでいるところもある。そこに自分らでおカネを出せ、ということ自体が難しい発想で、当然出し渋るだろうな、というのは想像に易い。確かに、教育は現代社会を生き抜く上で重要な公的サービスであることは間違いない。だが、「教育」は一つ

アフリカの教育を巡る深いジレンマ

25日、26日と東京で開かれた「アフリカ教育研究フォーラム」に行ってきた。いつもながらにとても刺激的で、いい研究会だと再度実感して京都に戻ってきた。 しかし、今回は違うところで忸怩たる思いも抱えてきた。 頭の悪さをひけらかしてしまうようだけど、僕は政治のことやらはあまりよくわからない。アフリカを巡る事象にしても、MDGs(ミレニアム開発目標)とか、FFA(全人教育)とか、ESD(持続可能な教育)とか、つい最近まで何の訳だかすら知らなかった。ちなみに、MDGsにしても、ESDについては未だにイメージがわかない。つまり、「世の中」でどんな議論が交わされているのかということもわからない、ズブズブの素人ということになる。 今回のフォーラムでは、この辺のことを扱ったシンポジウムが開かれた。MDGsが評価年になる2015年以降、どんな世界を描くのか、ここまででどんなことをしてきたのか、そんなことを「検証」するプレゼン、と理解した。ただ、「アフリカ教育開発 研究 の展望」(強調は僕)という題目が気になる。 「教育」に関する学会で、参加する院生、教員ともに、「教育」は必要であることについては誰も疑わない。もしくは、一家言持っていても、おいそれと表には出てこないから、僕はどんな了解があるのかはよくわからない。しかし、少なくとも、発表を聞いている限り、そこを疑う人には全く出会わない。僕は人文学を学ぶ者として、「教育」は何たるか、その方法論とか、視点についてこの学会では探ってきたつもり。その底流にあるのは、文化相対主義的な思考で、進化論的な思考を可能な限り排していく発想だ。 「みんなの学校」プロジェクト、というのがニジェールで行われている。JICAのプロジェクトで、PTAのような、教師と親で組織される学校運営委員会が中心となって学校を運営していこう、というもの。実に結構なことなのだけど、残念ながら、僕の集めてきたデータはそうは言ってくれない。その結果、ドロップアウトした生徒はどうするのか、やっぱりノートやらが買えなくて学校に行けない子はどうするのか、と。そして、そこに根付いている「伝統」教育はどう扱うのか、と。 細心の注意を払って本質的伝統主義に陥らないように気をつけたいのだけど、今一度人の生活を見てみると、「伝統」と呼ばれる「近代化」の反対のベクトルを持つ現象(

セネガルの「兄弟」から。

今日も夜更けまで発表準備に励んでいる。集中力がないというか、才能がないというか… ダメダメの僕を「兄貴Grand Frére」と呼んで憚らないやつがいる。僕もそこそこでかいけど、彼はもっとでかい。きっと2m以上ある大男だ。気は優しい。きっと力持ち。一人で暮らすお母さんをとても大切にしている。愛すべき奴でかなりシンパシーを感じている。 彼は歯が悪い。しょうがないので治療費を少し助けてやることにした。でもまだ送れていない。時間を見つけてはいろいろやってみるけど、うまく行かない。なので、毎日彼にメールをする。ケンカもする。もっとわかってくれ!お互いがこれで言い張るのだ。 そして、彼は日本に来たいという。助けてやれないけど、いい形で来てほしい。だから必要以上に慎重になる。とても悲しい例をたくさん見ているから。学びたい、知りたい、と「弟」が思うこと、何とか実現させてやりたいのだけど。 今日もたくさん彼と話した。仕事は進んでいない。でも今日はいいか。あと少し仕事をしてゆるりと寝ようかと思う。

第12回アフリカ教育研究フォーラム・発表の要旨(10月24日-25日@早稲田大学)

明後日からの「アフリカ教育研究フォーラム」、こんな発表をしたいと思う。 いろいろと追いまくられて、準備がまだまだ不完全。今日明日(明後日)までこちらに集中して寄りよいものをお届けしたいと思う。 ******************************************************************************* 西アフリカ内陸部の「伝統」教育としてのクルアーン学校[その 2 ] ニジェール共和国ファカラ地方の事例より  第 11 回アフリカ教育研究フォーラムにおいて、発表者は同名の研究発表を行った。前発表では、 2012 年度に行った広域調査のデータから西アフリカ内陸部に広く存在する「伝統」教育機関(クルアーン学校)のメカニズムを概観した上で、クルアーン学校と小学校との比較を試みた。同地域のクルアーン学校の学校数は公立小学校の約 2 倍存在し、生徒数はほぼ同数が存在し、公立学校が整備されてきた現在でも一定の存在感を示していることが明らかとなり、さらに、クルアーン学校が子どもたちのセーフティネットになっていること、労働力のストック機能をもっていることを指摘して、クルアーン学校の社会的機能について論じた。  前回の発表を背景として、本発表ではクルアーン学校 / 西アフリカの「伝統」教育の側面を捉える試みの 2 回目として、クルアーン学校の「教師」に位置づけられるマラブー Marabous (仏) /Alfa (ザルマ)(以後、マラブーと記す)に焦点をあて、マラブーの出自と来歴から西アフリカのイスラーム社会における「教師像」を明らかにすることを目的とする。 まず確認しておかねばならないのは、この地域には初等教育にあたる過程を実施する「学校」に公立小学校とクルアーン学校の 2 つの種類の教育が併存していることであり、「教師」もそれぞれの「学校」において異なった位置づけをもっていることである。広辞苑では「教師」は第一義として「学校・教習所などで、学問・技芸を教える人…」、第二義に「宗教上の教えを広める人。宣教師」とされる。公立学校の「教師」は当然のことながら、最初の意味での職業的な教師である。一方で、クルアーン学校における「教師」にあたるマラブーはこの「教師」の定義にしたがえ

道尾秀介『背の眼』(上)(下)幻冬舎文庫

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「文化人類学者は出来そこないの小説家…」とある人類学者の言葉だが、中島らものように人類学に着想を得た小説も少なくない。この作品も文化人類学、特に宗教、呪術、憑依と言った研究に実に示唆的な作品だった。とにかく、道尾氏のこうした領域への知見、そしてそれをもとにしたストーリー展開は実に感心させられる。 心霊現象、除霊、憑依…実に科学的な回答を与えつつ、この作品ではミステリーホラー小説として、本質的な心霊現象を最後まで否定しない。いくつもこの点で感心させられる点があるのだが、一つだけ紹介してみようと思う。 山奥の「天狗」による神隠し(殺人)事件のクライマックス。亡き妻秋子に「憑依」された歌川。亡き妻は聾者で重い病を得てこの世を去り、歌川は幼い息子とともに生活したが、その息子も不慮の死を遂げる。歌川はその結果、元気に走り回る「子ども」に恨みを持つが、良心との板挟みにあった歌川は、秋子の人格(ペルソナ)の元で「子ども」を攫って危害を加えた。主人公の心霊現象探究家、真備は滝壺に亮介(子ども)を叩きつけようとした歌川に「除霊」を試みる。のちに真備は語る。「憑依体との間の共通の言語」を介在させることが「除霊」であり、被憑依者と憑依体、除霊者の三者の間での意思の疎通が必要で、そして除霊者が語りかけるのは、憑依体ではなく被憑依者だ… 小説としても楽しかったし、とても勉強になった。この前、研究仲間とも話していたのだけど、人類学を学ぶ者、小説は忙しくても読まねば、と再実感したのでした。

「TRF」解散!

もしTRFファンの方が迷い込んでこられたらごめんなさい。あのカッコいいグループのことではありません。最初にお詫びします。 +++++++++++++++++++++++++++ 29歳のときに発症した痛風。その後発症した高血圧症…その他アフリカでいろんな病気をして、年を追うたびに病院にはよく通うことになっていた。基本的に投薬治療でなんとかなっていて、ビールを少なくして(たくさん飲めなくなってきていると言うのもある)、焼酎に変えたり、おかわりを減らす程度しかしてなくて、痛風に関しては10年ほど一進一退。 おとといあたり薬が切れたので、今日は病院に行ってきた。8月に検査をしているのでその結果の受け取りもしてきた。とりあえず、所見をいただいてくるのだけど、尿酸値が3期連続で低下。1年間ほどは尿酸値が通常値をキープした。そんなわけで、尿酸値を抑える薬を半分にすることになった。 それで、なんでTRFかと言うと、T=痛風、R=リュウマチ、F=ファット、ということで、それぞれの患者が「サバイバルダンス」を踊る、というおっさんネタでで、なかなか笑い(苦笑)が取れたのです。とりあえず、尿酸値が通常値なので、もう僕は痛風ではなくなったので、Tが抜けます。Rave Factoryとして再編しましょう。相変わらずFではあるので。 朝からつまらん話題でした。

誰が野球放送を減らしたのか。

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131017-00000081-spnannex-base 地上波から野球放送が減ってからずいぶん経った。確か、Jリーグが始まったくらいのタイミングだったと思うが、確かに90年代初頭、王長島という一時代のスーパースターが引退して、今考えてもプロ野球が多少地味な時代に突入していた時代だったかもしれない。 しかし、その後、松井秀樹やイチローという王長島に匹敵するプレーヤーが出てきていて、特定の球団に入れ込んでいる人でなくともそれなりに楽しめるクオリティはいつもあったように思う。何でこんなに少なくなってしまったんだろう。帰ってテレビをつけて、野球がやってなくてがっかりする人はまだまだ数多いはずなのに。 上の記事を見てもわかるとおり、広島での視聴率40%とか。人気ドラマの「相棒」が20%弱で「大成功」と言っているのなら、広島に限ってはその倍ある。近年、ソフトバンク(当時ダイエー)が福岡に、日ハムが東京から札幌へ、オリックス+近鉄-一軍=楽天が仙台へ、と球団の地域密着化が進んだ。仮に、昨日の広島のような現象が地方に限ったものなら、地方局がやればそれで済む話だが、できればいろんな試合が見たいので、できたらキー局でももっとやってほしいもの。 問題はスポンサー?どんな契約なのかしらないけど、たとえば、視聴率に応じてスポンサー料が変動するような仕組みを作るとか?あとは増えすぎた芸(能)人の行き場所がなくなる?野球ファンのボヤキでした。

会社と上司

連れ合いが就職活動で苦戦している。 面接の様子を聞くに、小説で読むようなどうしようもない面接官ばかり…昨日など、有限会社の理事長が「徹夜仕事があることがあるけど、残業代は出さない。それでもやる人でないと取らない」という内容を「説明会」で話したとか。絵にかいたような「ブラック企業」」だ。 ここ何年か(ミーハーでないことを自慢してみる)池井戸潤の諸作品を読んでいるけど、この人の小説に出てくる上司もとてもステレオタイプな人が多い。順法意識が薄弱だけど、家庭は大事…という上司キャラクターが多い。 僕も4年間と短い間だけど、何人か漫画に出てきそうな上司にであった。入社早々、激しく虚勢を張ったほかの部の長を見て笑いをこらえるのが大変だったのはとても懐かしい。体が埋もれそうなデカい革の椅子に埋もれて葉巻を吸い、タバコを吸っていたほかの社員に「そんな臭いものを吸うな!」と怒鳴り散らす。威張りたいのはいいけど、もうちょっとカッコよく威張れよ、と心の中で思った。でも、大方の上司は逆にいい意味でマンガに出てきそうな人たちだった。「ガンガンやれよ。やるだけやって失敗したらケツは持ってやる」というありがたい上司が多かった。仕事に失敗すると、ほかの課の上司、先輩が飲みにつれて行ってくれた。今の上司も含め、何人かの上司に使えたけど、不思議と連れ合いが出会ったような人には出会ったことがない。運がいいだけかはたまた… そんなわけで、僕は社会(会社)というのは、いろんな人がいることでバランス取れているように思っていたけど、どうもそうでもないらしい、ということがわかってきた。僕がいたのが、船会社。割と荒々しい業界で、連れ合いが受けているのが教育系、割とお上品そうなのに、後者の方が品がないことをおっしゃる。こんなんでちゃんと「教育」できるのか?ちょっとひどすぎるので、レコーダーを貸してやろうと思う。

『シャイロックの子供たち』池井戸潤(2008)

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ドラマ「半沢直樹」のお蔭でやたらメジャーになった池井戸潤氏。こんな感想文を書いて、やたらミーハーにみられるのがなんだけど、面白いものは面白いので、気にしないことにして。 たぶんこの作品もいろんなところに感想文が書かれているだろうから、すごく端的に。この作品は小説の作りが面白かった。短編小説のように感じながら読み始めると、銀行の一支店の空間を中心として、そこに働く行員とその家族の物語で、ちゃんと一貫性のあるひとつの小説として成立している。 池井戸潤作品の多くは基本的に勧善懲悪調のいわば水戸黄門的に安心して読める作品なのだけど、その意味ではこの作品は少し異色。謎を置きっぱなして読者に委ねるという、ミステリーでよく使われる手法を使っている。 銀行/金融、また、会社という世界を分厚く描く池井戸作品だけど、もしかするとそのうち飽きが来てしまうかな…と思ってしまう。世界観がぶれないので、定番としての位置づけは得られるのだろうし、もしかすると、金融論とか、商学のテキストになっていくかもしれないけど。まあ、かと言ってもミステリー。余計な心配をせずに、たっぷり楽しみたいと思う。

罰金!?

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消費税、増税で騒がしい昨今。FBにこんなのが流れてきた。シニカルで面白いな、と思っていたら、某飲食店店主さんがさらに「健康である罰金=健康保険料」などとのたまう。確かにこれから消費税が上がったり、ほかの新税が加わったりするらしいので、それを嘆くのも一計。 でも、すでに日本は返せないほどの借金を抱えている。最近のアメリカの政府機能停止状態を見ていると、国というのはとめたらえらいことになるのだ、ということがわかる。そして、それは決して対岸の火事ではない。 海外に逃亡するのも一計、嘆くのも一計。しかし、腹の底では「罰金」に負けないくらい稼いでやろう、それくらいのファイトがあってもいいと思う。というか、そうしないと生きていけんね。この前来た年金特捜便によれば、僕の年金は2万くらいらしいので。

谷繁監督・落合GM体制決まる。

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http://www.chunichi.co.jp/ee/feature/dragons/ (20131009)より これが気になって仕事が手に着かなかった… 球団の資金難、立浪のプライベートの問題、色々な情報が飛び交う中で谷繁が監督、落合元監督がGMに就任。フロントの一斉更迭。激動のストーブリーグの開幕。方や、秋季合宿では血のにじむ特訓が繰り返されているともいう。 この間の2軍の監督・コーチの更迭や川上憲伸の戦力外を見ても、こういう結末を見ると、落合GM・谷繁監督が既定路線だったようにも見える。 あるファンによれば、ドラゴンズファンは落合元監督に勝つことに慣れさせられた、という。勝ちまくっていた8年間に、もしかすると勝つことにすら飽きてしまったようにも。おかげで観客動員数は減少の一方をたどることになり、負けが混んだ今年は益々客が入らなかった。 ちょっと県民性のようなものを感じてしまうのだけど、「お値打ち」に弱い名古屋人は基準価値が上がると、もっと上がないと「お値打ち」を感じない。つまり、勝ちが当たり前になったら、勝ちにほかの付加価値を付けなければならないのかもしれない。反面、阪神ファンのように勝っても負けてもファンでいつづけてくれる、まさに浪花節のファンで「勝ち負け」よりも、阪神球団の存在そのものを認める。 昔、「名古屋で商売ができたら世界中どこに行っても大丈夫」と言われたことがある。それほど名古屋は商売がやりにくいところで、球団経営もそんなむずかしさがあるように思う。しかし、革命的なほどの改革は白井オーナーの大ナタによるものらしい。今度はきっとファンがこの大ナタを「暴挙」にするか、「英断」にするかを決める。一ファンとして今年はなんとか1度でも2度でも聖地に足を運びたいものだ。

小さい原稿こそ難しい。

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ここのところ仕事がオーバーフロー気味で、あんまり「忙しいのはいいことだ」とか言ってられなくなった。やることがありすぎて一つの仕事を集中的にやる、ということが難しくなってきて、その結果、仕事が雑になって…という何度も経験したスパイラルにはまりそうだったので、今日は事業仕訳をしながらの作業になった。 一応、飼っていただいている研究所の仕事は断れないので、とりあえず今日はこれをやった。「フィールドの様子を生き生きと。字数1,500字」こんな課題だ。 何を書こうかな、と頭をひねってみて、久しぶりに調査を始めて間もないころに題材とした「ラスタマン」のことを書いてみよう、と思い立った。伝えたいことは、「都市を下から見上げてみる」ことで見える色々なこと/モノ。「神の視座」からは見えないものが時に生々しくグロテスクに、時に生き生きとした人間の鼓動として立ち現れること…なんだけど、このボリュームではなかなか難しい。前も4,000字でアフリカの子どもの話をかいたことがあったけど、その時にも似たようなことを思った。 とりあえず今日は粗稿ができたので、今晩読み返してみて、誰かに読んでもらって一気に終わらせてしまおう。山が多いので、とりあえず小さな達成感でも欲しいところ、なので…

今年のドラゴンズ勝手に総括

気が付いたら終戦していた…今年のドラゴンズを象徴するような終わり方だった。 そして、Yahoo!ニュースのトップには連日次の監督を詮索する記事と退任する高木監督を揶揄する記事、そして戦力外通告を受けた選手の記事が連日踊る。まだ暑い日が続くけど、こういう寒々とした記事を見ていると秋を感じてしまう。 たとえば、野球のチームが強いか弱いかというのは、せいぜい144分の20、つまり1週間に1勝多いか少ないかで決まる(時に40くらい差が付くけど)。今年のドラゴンズはこんな差だったと思う。要因を分析していけば、エースの吉見、浅尾の経年疲労、井端、荒木、大島、山内のケガ、若手の伸び悩み…反面、上積みも結構あって、3人抜けた外国人の穴はルナやクラーク、カブレラがよく埋めていたし、森野が復活したし、平田もそこそこ良くやり高橋周平は大器の片りんを見せている。ピッチャーでも大野がよく投げた(ブランコは想定外だった…)。 来シーズン、興味があるのは、高橋周平と森野という、プレースタイルの似ている左打ちの内野手スラッガーをどう使うか。これはアライバを固定的なレギュラーとして考えるのではなく、3つのポジションをこの4人、そしてここに食い込んできそうなもう1人か2人としっかり競わせることに通じていく。そして、外野手も和田、平田、大島、藤井、堂上剛(個人的に彼を楽しみにしているのだけど)、野中あたりをどう使うか、そして、谷繁の後釜をいよいよ真面目に考える局面に来ているので、ここをどうするか。 ちょうど今年はCSもないし、まずはケガ人がしっかり治す。次の監督がだれなのかわからないけど、落合前監督なら、また「10%のレベルアップ」と言えるくらいのものは持っているのではないだろうか。巨人あたりの戦力の充実ぶりを見ていると、それでも足りない気がするので来シーズンまでは雌伏の時かと思ってはいるのだけど。

秋のカルチャー講座「現代アフリカの呪術」全2回in大阪(道祖神)

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http://www.dososhin.com/event/65.html より 明日はこれに行ってみようと思う。講師の近藤英俊さんは我らが森本栄二師の最初の教え子。大学は違うけど、昔から勝手に兄弟子だと思っている方。なんだかんだ2年ぶりくらいかな…ご挨拶がてらお話を伺いにいく。 どこぞでほかの研究会があるとの情報も入っているけど、申請書類やらアブストラクト作りがあるので、負担の少ない方にて。

初めての非常勤を終えて

帰国後すぐに始まった愛知県立大学での集中講義。何度かゲストスピーカーとして非常勤講師の経験はあったが、半期15コマすべてを取り仕切るのは始めてのことで、現在採点作業の真っ最中。 4コマx3日+3コマx1日というしゃべる方にとっても聞く方にとっても大変なスケジュールだったのだけど、(もちろん途中でお休みになられる方もいたが…)基本的に教室は静かで、熱心な方にはしっかり聞いていただけた。何を伝えたいかの部分はずいぶん意識したので、それなりに自信はあったが、回収したレポートを呼んでいると、こちらが思っている何倍もいろんなことが伝わっていて、ずいぶん励まされる。 どんなことをしゃべったかは具体的に書かないけど、今まで一番影響を受けた大学生時代の先生の受け売りのようなことをずいぶん話した。そして、その言葉に反応してくれた学生も多かった。もう20年前に聞いてずいぶん感銘を受けた言い回しだけど、こういうことは時代を超えるのだな、と実感した。 少し準備不足のところもいくつもあって、聞き苦しいところもたくさんあったと思うのに、ありがたいことに、「おもしろかった」と感想を書いてくれる学生が多く、この気遣いには感銘を受けた。何か考えたり、知るきっかけになれば僕の仕事は上出来なわけで、あとは想像力の翼を伸ばして本を読んだり、いろんなところに行ったり、人に会ったりしてくれればいい。 少し贅沢をいわせてもらえば、「センセイ、飲みにつれてってよ」っていう学生がもっと(1名いた)いてもいいな、とか、感想で「お前の言っていることは間違っている」というのがあるといいと思った(実はこういう人がいたらいやだな…と内心ビビっていた)。 教育機能のない研究所に勤務していて、こうした機会が得られたのはとても貴重なことで、来年以降また機会があれば、ブラッシュアップして準備したい思っている。

西アフリカの伝統教育における「教師」論

こういうことは一人で温めておいた方がいいのだろうけど、どうせ大した話ではないので少し書いてしまおう。まだアイディア段階で、まとまった話にはならないので。でも、僕にわからないところでいいアイディアだと思ったらこっそり「こうしたら」と教えてください。 この月末、「アフリカ教育研究フォーラム」という学会で発表することになっているのだけど、前回の発表の時に調子に乗って「毎回発表します」とぶち上げてきたので、今回もやることになっている。これは全く後悔していなくて、前回もアイディアレベルをまとめて持っていったら、ものすごくよくまとまった、という経験がある。学会だから、完成度をあげて行かなければならないので本当にこんな意識で持って行ってしまうのは申し訳ないのだけど、大御所の先生と院生が主体で、いい雰囲気のゼミのように感じていて、叩いてもらうにはいい環境だと思っている。 前回は教育を行う組織であるクルアーン学校の社会的位置づけについて発表した。今回は、そこで教える「教師」のことを話そうと思う。「学校」という組織の主体が、生徒と教師によって成立するとすれば、その一つのアクターについてである。おそらく教育学だと、「教師論」のようなものがあるのだろうけど、今回はこれはぶっ飛ばそう(論破するという意味ではなく、やらないという意味)と思う。想像するに、西欧的な教師論とアフリカの「センセイ論」はずいぶん違う気がするし、比較することにはさほど意味はないだろうから、エスノグラフィックに描き出していこうというわけだ。そのため、方針としては、教師の人間、生い立ちなどパーソナルな面に焦点を当てていく方法をとろうと思っている。 何度かにわけて、イスラーム地域の教育を包括的に明らかにしていこう、というプロジェクト第2弾。「アフリカ子ども学」からスピンオフした「アフリカ教育学」、学校/教育の機能は間違いなく子どもたちの生活に大きな影響を与えているし、教育という場やそれが行われる空間には子どもに大人の理想やその社会の理念が反映されるはずで、間違いなく大きな関連性が見られるはずだ。その空間をフィーチャーするのが教師だとすれば、この一連の研究の肝のようになっていくのではないか。 メモ書き程度、自分の考えのまとめまで。

「国際人類学民族科学連合中間会議2012報告」, 2013, 飯嶋+清水+小泉+今中+亀井+國弘+鈴木+井本+山本, 『文化人類学』78-2, pp278-283

インドで行われたIUEAS/国際人類学民族科学連合の学会からそろそろ1年も経つ。何をやってもそう思うけど、時間が経つのが早くて、びっくりしてしまう。 学会終了後に亀井伸孝先生、飯島秀治先生の呼びかけで取り掛かった報告書が載りました。そういえば、学界アブストラクト100ページくらいを統計資料にまとめようとしたけど、思いのほか時間がかかってフィールド調査にも持って行ってやっていたな…としんどかったことはずいぶん昔のことのように感じてしまう。まあ、ともあれ、何とか『文化人類学』誌に載ったし、来年度日本で開かれるIUEASになにがしか資することができれば、少しは苦労した甲斐があるというもの。 レポートを書いていただいた先生方、とりまとめをしていただいた飯嶋先生、そして、一緒に発表して一部の方から「最善の分科会」と評価していただけるほど頑張った亀井先生、阿毛さん、今中さん、本当にお世話様でした。これで一つ片が付きましたね。