2010年8月30日月曜日

Bobo Diulasso, Banfora4

今回で最終回。

もうお見せできそうな写真がないので、文字だけにて。

バンフォラでは、その後、森重さんが活動するシアバターの工場を見学。彼女のバイタリティと粘り、製品に込められた熱い思いを聞く。1個7,350円の石鹸を売り出すという、なかなかエキセントリックなことをしていますが、非常にまじめです。よろしければ…

アダンセHP: http://www.a-danse.jp/about/

バンフォラを出て、ボボディウラッソに着いた時にはすでに日が西に傾きかけた3時ころ。なんとか暗くなる前にワガドゥグに着きたかったので、先を急いだ。しかし、そこは元気なKさん。虎視眈眈と夕陽ポイントを探していた。

途中、オウンデあたりの沼に照らされる夕陽。「止めて!」の一言で、車から飛び出すKさんに、アブドゥルとタバコをくゆらせながら交通整理をする(そんなわけで写真を撮るどころではなかった…)。でも、その景色はとても幻想的で、その景色と相対するKさんも神々しくもあった。

なんとかかんとか、9時ころにワガドゥグ到着。そうとう疲れていたのか、百戦錬磨のアブドゥルがワガドゥグで道に迷う、というおまけがついたが、無事にこの旅も終わった。

ボボ・ディウラッソは3回目(1回、マリに行った帰りに通ったな…)、バンフォラは初めての滞在となった。Kさんがいらしたこともあり、ゆっくりと見られたし、泊まるところもサバイバルな感じでなかったし、食事もきちんとしたところで摂った。初めてのゆっくりしたブルキナ旅行だったような気がする。

バックパッカーを気取って、20代前半からアフリカをある意味旅し続けてきたけど、やはりちゃんとしたホテルが気持ち良かったり、シャワーもお湯が出た方が落ち着く。いい年になったもんだと、自分で感じてしまう。ひたすら車に乗り続け、でも、とても楽しかった旅行のお釣りはそのあとの数日間の腰痛だった。

2010年8月28日土曜日

Bobo Diulasso, Banfora3

いよいよバンフォラへ。ブルキナファソの西側はボボまでしか行ったことがなかったので、ここからは初めての行程。
ボボディウラッソは台地になっている。何とか地溝帯というらしいが詳しくは忘れてしまった。台地を下りだすと、グリーンの絨毯のようなサトウキビ畑が広がる。「ブルキナじゃない!」が感想。
実は上の写真は後で紹介するドームから撮ったものなのだが、イメージ的にこんな感じ。ボボに向かうに従って緑が増えた、と言ったけど、その比ではない。


車から撮った写真。奥に見えるのがボボの台地。本当に目に優しい。

バンフォラでは、こちらの知人に「是非に」と言って進められた、Canne a Sucreというホテルを取った。ちょっと奮発したけど、フランス人経営らしく、部屋が非常にきれいで、びっくりした。ここに投宿して、少し街を回ることに。そのうち、6時を過ぎ、Kさんのリクエストで、夕陽を撮りに行くことになった。
電線が邪魔、ということで、電線がなくなるところまで車を走らせる。水田の中にヤシの木、その先に見える稜線…肉眼で見ているときれいで、目に焼き付けよう、そして、写真に残そう。隣にはプロのカメラマン、ということで、少しご指導を願いながら写真を撮ってみる。
ああ、真っ暗…
少しは雰囲気が伝わるかな…

翌日。お決まりだけど、観光コースを行く。最初にカスカッド(滝)を見に行くはずだったが、道を間違えて先にドームに行くことになった。我々も、その偉容に興奮したが、一番盛り上がっていたのはアブドゥル。スルスルとドームに登ってポーズ。
ブルキナ+観光=ちゃっちい。
という方程式で考えていたら、なんのなんの。このドームなぞ、奥行きがあって、なかなか立派な観光コース。トレッキングができるくらいに整備してくれるといいのだけど、そこらへんに危なそうな虫の死骸が転がっていて、草の生え具合を見ていると、蛇もいそうだし…とあんまり奥に入ろうという気にさせない。それはそれでいいわけか…

そして、カスカッド。またここに来るまでに道に迷いながら来るわけだけど、それもそのはず。もう身の丈2,3mもあるサトウキビ畑の間を抜けてくるので、どこもかしこもおんなじ景色。先も見えないし、どうしようもない。アブドゥル曰く、ガイドを雇ってもドライバーが道を覚えられないようにガイドするのだとか。
最終日は大急ぎで回ることになったが、まあ、ちょうどよかったのでは。【つづく】





2010年8月23日月曜日

Bobo Diulasso, Banfora2


モスクへ。

ワガドゥグの大モスクは1950年代の建設。ボボ・ディウラッソのモスクは1880年建設なのだそうだ。よって、ワガドゥグのモスクよりも70年ほど古い。

皮肉にも、この二つの時期は大きく植民地時代と重なる。

新しい方から見てみると、今年2010年が「アフリカの年」から50年。すなわち、1960年に一斉にアフリカ諸国が独立を始める。1950年代、というのは、この胎動が確認できる年代なのである。

そして、1880年という年。フラニの「ジハード」が盛んな年代で、フランス植民地主義に住民/イスラームが立ちあがった時期。いずれにしても、イスラームは西アフリカにおいて、いわば「錦の御旗」的な存在であったといってよいかもしれない。

この時期にこのボボ・ディウラッソのモスクが誕生したのは、この時代の流れと少なからず関係しているはずだ。ガイド氏によれば、「このモスクの建設には、ムスリムだけでなく、クリスチャン、アニミストが自発的に参加した」という。「白人」向けのガイド。決して、「なぜ」という問いに答えを持っているはずだったが、そこまで突っ込んで聞くことができなかった。自身の信条を超えた団結の象徴、ボボ・ディウラッソのモスクは、イスラームの遺産(現在も十分に稼働しているが)というよりも、もっと人間的な歴史を含みこんでいる。
モスク内部。厚い土壁でできている。壁の材料は、バンコ(日干しレンガ)、灰、土だそうだ。
今年のアフリカ学会で、ジェンネのモスクの発表をされた伊東さん(アフリカ学会URL http://jaas.sakura.ne.jp/taikai/47kai/fixed_program.pdf)がおっしゃっていた、日干しレンガについて質問したところ、思った通り、「丸い」日干しレンガを使用していた。不思議な話しで、なんで四角いレンガを使わないのだろう…


さらにマニアックに。
この建設方法、ジボDjiboの家屋、サガボテンガSagbotingaのモスク、全部一緒。木材(材質は分からなかった…)をびっしり張り巡らせる。格子状に張ればズレなくていいのに…とか思ってしまう。土が上に乗るから強度的にも弱いような気がする。
しかし、130年間、大きな改修をすることなく、持ちこたえているのだから、まあ、これでいいのだろう。
屋根の上に着いている明りとりの窓。ふたがカワイイ。サガボテンガのモスクは横に明かり窓があったような気がする。ふたをつけるあたりが、雨の多いボボディウラッソらしい。

そんなわけで、初日から結構充実した観光になった。Kさんに通訳をしつつだったが、このモスクを見られたので、後はお釣りのようなもの。まあ、なかなか楽しかったのだけど。【つづく】

2010年8月22日日曜日

Bobo Diulasso, Banfora①

8月初旬のこと。以前から連絡を取り合っていた、写真家のKさんがブルキナファソに到着した。


彼女は齢70を過ぎ、益々活発に写真を撮り続けている。本職は生け花の先生で、その傍らで世界各国の女性の写真を撮り続けている。今回は2006年以来の2度目の来ブル。前回はワガドゥグ周辺だけを回っただけ、とのことで、今回はせっかくなのでボボ・ディウラッソ、バンフォラも回ろう、ということにした。




実はボボ・ディウラッソは7年前と4年前にちょっと行った程度。バンフォラに至ってはお恥ずかしながら一度も行ったことがない。私自身のためにも、なかなかいい機会だった。

研究の方でも、多少なり意義があるだろうと思った。イスラームはこのルートを取った訳ではないだろうが、景色の中にモスクを探してみるのも、雰囲気を知る上で大切だし、ボボ・ディウラッソのモスクもじっくり見てみたかった。

上の写真はボロモBoromoのモスク。小さいけど、アラブ諸国からの影響を受けた形式のモスクであることが分かる。舗装道路沿いだけでも3つほどモスクが見られた。出発前、知人より、「ガリブ(物乞い)が多い」という情報はつかんでいて、この街道沿いの代表的なイスラームの拠点であることは十分に感じ取れた。


景色は西にすすむに従って濃い緑になる。この時期のブルキナファソの景色は目に優しい。乾期のホコリにまみれた赤い景色は、ついつい「不毛」を感じるが、その中から芽吹いた緑は、3カ月ほどの短い雨季の雨を一杯に吸い込んだ草木は瑞々しい景色を作りだす。

少しゆっくり目に9時過ぎに出発して、15時ころにボボ・ディウラッソ到着。早速モスクを訪れた。【つづく】


ノマッド→半定住

ノマッド生活から少し前進した。

結局、アブドゥルの友人の家に寄宿することになった。「ムスリムであるなら…」という条件で…

ただ、さすがに不便で、家には電気があるものの、ネットどころか机も、それを置くスペースもない。とにもかくにも、帰る場所、物を置く場所があるだけでもありがたいのだが、どうも落ち着かず、今週はほとんど家で状態。別にアブドゥルの友人が構ってくれるわけでもなく、その息子が少し相手をしてくれる程度(彼の名誉のために、彼はなかなかインテリジェンスのある見どころのある男なのですよ)。

今日、明日は原稿の準備のため、ホテルで仕事をすることに。まあ、今回はこの辺でしゃあないか…

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2010年8月17日火曜日

兄弟

アフリカにいるのに、野球が楽しめる。いい時代になったものだ。

時々、中日スポーツ(中スポ)の記事などを読むのだが、なかなか楽しい。ドラゴンズも微妙に波に波に乗ってきているし、数年間変わらなかったレギュラー選手を割って入る選手が増えてきたから、なおのこと想像力をたくましくさせるのである。

その中の2人。堂上(ドノウエ)兄弟。ドラゴンズ出身の父をもつ、生粋のドラゴンズ一家に生まれた兄弟が熱い、と一人で思っている。

弟はドラフトで取り合いにまでなった選手。なんでもできそうなユーティリティな感じ。兄はドラフト3位くらいだったか…力はあるけど、ちょっと不器用な感じを受ける。森野が若かりし頃の、鋭く、力のあるスイングがとても印象に残っている。兄はなかなか芽が出なかったけど、クリーンナップまで打たせてもらって、ずいぶん張り切っているのだろうな、と思う。弟も、球界の名選手、井端の怪我に乗じてのし上がってきた。

数字を見たら、まだまだファンの心をつかむのは難しいけど、長年ドラゴンズを追っている者とすれば、新たな萌芽を感じてしまう。昔、仁村兄弟がドラゴンズにもいたけど、もう少しスケールが大きな兄弟なような気がする。そのうち、3番、4番を打ってくれたらなかなか夢があるな…などと。

二人ともずっと二軍暮らしで、クサクサしてた時もあっただろうに、良く頑張って来てくれたものだと、なんとなく、親のように気持ちにさせる。

嗚呼、野球見に行きたい…

2010年8月9日月曜日

1ere Septembre再び?!

7月某日午後2時過ぎ。

激しい雨音が始まる。豪雨が『和が家』の屋根をたたく。

15時ころ、あの悪夢がよぎる。ワガドゥグでは、「プルミエール・セプターンブル」と言えば、洪水のことを指す。
しばらくすると、『和が家』のテラスの水が逆流し始め、門のあたりから濁った水が入ってき始める。あ、来たな、と思い、オヤジ氏と共に腹をくくる。



そして、16時近く。左の写真のような状態。9・1ほどのことはなく、せいぜいひざ上くらいまでの深さだったが、目の前の舗装道路は濁流と化していた。

前回、一番被害のひどかった、某NGO事務所近くをオヤジ氏と共に視察に行く。同時にこの街の様子も分かるのだが、9・1を経験した街の人たちの対応は冷静だった。水が前回よりも少なかったこともあるが、それよりも、前回浸水のひどかった南側のほとんどの家屋で、雨期が始まる前に家の入口に大小の堤防を築いていたため、そのあたりでは床上浸水には至っていないようだった。なんだかんだ言って、ちゃんと防衛策を取っていたのには驚いた。


翌日、このあたりの議員が回ってきた。街の人々の話では、「威張ってばかりで大したことはしない」と言うこの議員が回ってきた翌日の早朝、なんとワガドゥグ市長がこの地域を視察に訪れ、側溝がきれいに掃除された。側溝詰まりがここのところの洪水の原因、と捉えたらしい。

この迅速な行政の対応にさらに驚かされたが、実はそれはポーズに終わってしまうかもしれない。このあたりを歩いてみると分かるのだが、この舗装道路沿いに水が集まる構造になっている。確かに、側溝に目を向けるべきなのだが、側溝は小さすぎる。そして、この側溝の水がどこに行くのかがよくわからない。どこかに集中しているはずで、そこはこの地域以上に被害がひどくなっている可能性があるからだ。

この日の雨は新聞に載るようなことはなかった。大した被害が出なかった、ということでよかったのだが、やはりこの水害、人災だということは避けがたい。ワガドゥグ市には何やら考えていただきたいものだ。

ちなみに、オヤジ氏は再び洪水対策を講じ、防壁を新たに作っておりました。ブルキナベ共々、感服です。











2010年8月8日日曜日

ノマッド

Nomad:遊牧民

牛を追っているわけではないが、定住できない。毎度のことだが、小さな部屋を借りるのに四苦八苦している。2,3カ月、という短い期間なのもその原因なのだが、貸家にかかわる人々のいい加減さに毎日怒っている。

【事例1】2週間ほど前…

アブドゥルが一軒の家を探してきてくれる。古いが掃除をしたらきれいになりそうだ、ということで、手付を払った。20,000Fcfa。結構な額である。期間が短いので、内装の変更はなし、ということで納得。2日後の引き渡しで話が着いた。

引き渡し日。アブドゥルと共に再びそちらへ向かう。

扉を開かれたその向こうには、二日前と同じ光景が広がる。少しむかついたので、大家の使い(2日前も彼と話した)に、「なんで掃除できてないの?」と聞く。

「だって、洗剤と雑巾を買う金をくれなかったから…」

カチン!①。

「いや、20,000Fcfa、手付を渡したよね?(洗剤を何十キロ買うんだ!と思った。)」

「だって…(その後は覚えていない)」と言いながら、危険を察知したアブドゥルの動きがあわただしくなる。

カチン!!②

「ダマレ!カネだけ取って、頼まれたこともしないで、なんなんだお前は!もういい!鍵はいらん!」

【事例2】昨日
【事例1】と同時進行で、もう一つの物件も抑えていた。

<プロフィール>
こちらは、修繕途中で、到着早々に旧知のタプソバ氏から同じ敷地の物件を紹介を受けていた。ただし、来週には…という言葉を何度も聞いており、だんだん「怪しい…」と思い始めていた。しかし、イスラーム家庭と同じ敷地に住める調査上のメリットを考えると、なかなか手放せなかった。【事例1】の件もあり、この物件に決めるべく、「カネがあれば…」という大家の言葉に従い、2か月分、すべて支払い、8月5日の引き渡し日を迎えていた。そして昨日(8月7日)…

仮住まいのオヤジ氏の居酒屋から、網戸を頼んでいた大工のバイクに2ケツをしてタプソバ氏の家に向かう。土曜日ということもあってか、僕の借りる部屋は鍵がかかっている。そこに、施工をしている大工がやってくる。

「部屋に入りたいんだけど…」と言うと、鍵を開けてくれる。

建材の山+地面のコンクリートは壊れており+約束の扇風機はついておらず+シャワーの蛇口もない+壁は工事のためにボコボコ

大工に問う。

荒熊「何これ?もう契約が始まってるんだけど。床も壁もなんにもできてないじゃん。」

大工「いや、大家がこの状態でお前が入ると言っていたので…」

カチン1

荒熊「そんな約束はしとらん!そもそも、建材がこんだけあって寝られるか?お前がどんな生活をしとるか知らんが、掃除くらいしてから見せろ!」

大工「大家がカネをくれなかったから資材が買えずに仕事ができなかった」

荒熊「大家がどうこうの問題じゃない。大家が「掃除をするのか?」。契約が始まっていることは知ってるだろ?」

大工、そそくさと逃げる。後を追いかけると、「大家を呼んだ」とのこと。

40分後。大家がやってくる。そして何も言わずにカネを数え始める。そして、

「レシートを持ってきてくれ。作業員が時間を守らないから、契約を切ろう。」

カチン2+諦め。

そんなわけで、ここも契約解除。

契約など、所詮紙切れ。適当な理由さえあれば、大概破棄できる。お互い納得すればいいが、1ヵ月のかなりの時間を遣って、待ち、歩き、頼み。全部水の泡。調査はおかげで進まんし、しょっちゅう引っ越しをする羽目になっている。

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