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ブルキナファソ調査(2018年10月)-③ モシの村の台所

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12月になりました(前のエントリーの時点ですでに12月でしたが)。なんだか、暖かな冬です。③と④が逆になったが、そんなことは気にせず村の話最終話。
今回の調査中に知人からモシの人たちの「台所」を調べてきて、と言われたので、やってきました。たいがい知っているつもりでいたのですが、実際は知らないことだらけ。その中のいくつかを紹介したい。
まず、この写真。ネーレという雑穀の摺り台なのですが、大きな円形の台に石が埋まっていて、その石ともう一つの石で雑穀を摺る、モシのコンセッション(大家族が住む屋敷地)にはよく見られる設備だ。最近は機会の製粉機が村々にできたことで、役割を終えたネーレが朽ちたまま放置されていることが多い。

このネーレの石は混入した女性の数だけ設えられており、男子が妻を娶ると擦る石を与えられるが、1年間は義母の石を使ってミレットやソルガムを製粉する。1年が経つと新妻の石が埋め込まれる。結婚儀礼の重要なシンボルになる。
次にカマド。これはいわゆる改良カマドで、混ぜ棒や鍋が並ぶ。
カマドはヤガと言い、いわゆる三石カマドを指す。改良カマドは、ヤガーメェガと言って別ものとして考えられている。とか、鍋は一律でロコと言い、この大きさに合わせてカマドが作られている。混ぜ棒はソースを作る先割れのものがフィニンガ、トをこねるためのものがブグリと言って、混ぜ棒も全く違う語幹を持つ。

頼まれ仕事で、今のところ業績につながるわけではないけど、カッセーナの研究とは間違いなくつながっていく。知らないことを知る、というのはフィールドの最大の楽しみなのだ。
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ブルキナファソ調査(2018年10月)-④ 今回発見した食材やら。

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さらにモシの村でのこと。最初は雑然とした空間にしか見えなかったのだけど、一つ一つの配置を見ていくと、時々「なんて合理的な空間配置なんだ」と感動する。「民藝」が機能美だというけど、なんだかそういう美しさに近い気がする。

と食欲から少し離れた話から始めてしまったが、やっぱり食い気が勝ってしまうので、今回発見(というか、ちゃんと写真を撮ったなども含む)したものを少し紹介しよう。

まず、ゴマ。実は日本もブルキナファソからたくさんのゴマを輸入しているのだけど、ご存じだっただろうか。ブルキナファソでは、コットンと並ぶ重要な商品作物。以前、ゴマ料理の話を書いたときに、その希少性を話したが、ゴマは収穫されると、家の敷地内でこんな風に干される。













十分に乾かしたゴマを脱穀すると、なじみのあるゴマになる。今年はゴマも豊作で、チルメンガの家ではその量は数十キロになったという。
次に秋っぽい写真を。
これ、柿みたいですよね?これ、実はクンバというローカル品種のナス。これも何度かこのブログの中で出てきたが、ちょっと苦くて、西アフリカでは本当によく食べる。この写真、何をしているかというと、これも来年のための種を取っているところ。乾かすと赤くなるんですね。初めて知りました。


そして、これはおなじみのゴンボ(オクラ)。オクラはその茎の一番大きいものを残し、翌年の種にする。少しでも強くて大きなものができますように、そんな風に考えての古都ではないだろうか。
そして、この葉も時々村のお宅を訪ねると植わっているのですが、改めて聞いてみると、タバ(コ)。ここでは、噛みタバコのようにするのだという。


こんどはこれ。ラッカセイみたいですが、モレで「スマ」と呼ばれるバンバラ豆(プチ・ポワ)。これもラッカセイと同じく採れたてを生でも食べる。生のラッカセイは土臭くてあまり好きではないのだけど、スマは結構甘くて、あとをひく。

そして、最後はコットン。商品作物として重宝されているのだけど、土を痛めるイメージが付き、最近はあまり好まれない。でも、綿が大切なのと、種は油、あと実(?)も食べられるらしい。
村に行けば、まだまだ知らないことが多く、村の人に教えてもらうばかり。質素に見えるブルキナファソの村の人たちの生活は、とてもコンテンツが多く、うまくそれらが組み合わされているのを感じます。少しでもそのことは書き記していきたいと…

ブルキナファソ調査(2018年10月)‐② パイロット・ファーム

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2017年から始まった地球研「サニテーション・プロジェクト」。このプロジェクトが始まる前には、ブルキナファソでSATREPSのプロジェクトとして5年間研究をしてきたプロジェクトチームなのだが、このチームが中心となり、さらなる展開を狙い、地球研で再始動した。僕はブルキナファソ班の一員として、砂漠化プロ当時から付き合いのある、中北部州バム県で調査研究を始めることになった。このプロジェクト、サニテーション、保健衛生が中心的な研究対象なわけだが、もう少し具体的に言えば、トイレのことを研究している。特に人口が増える都市部においては、トイレの問題はすでに大きな問題。都市の中で暮らしているとわからないが、ブルキナファソでは処理施設が完全にパンクしている。たぶん、そのほかの国々でも同じような状況にあるはずだ。「処理」するのは当然なのだが、「処理」したものがどこに行くのか、「処理」できなかった汚泥はどこに行くのか…想像するだけでおぞましいわけだが、パンクしている、ということはそういうことなので、現実を直視して、解決策を考えねばならない。こんな風に、大きな負担になりつつある「トイレ」の問題。負担を解決しようとするのではなく、負担を価値あるものに変えようというのが、このプロジェクトの狙い。
ということで、ウンコを価値あるものに…と考えたとき、日本人の多くが、肥料に結びつく。それで、バム県では、農村部を主体に、どうやってウンコと付き合っているのか、また、肥料にすることはできないか、ということを考えるための調査を展開することにした。何をするかというと、少し畑を借り、そこを3分割して1つの部分にウンコ、真ん中はなにもせず、もう1つにこの地域で最もよく使われる肥料である家畜フンなどから作ったコンポストを、ザイの穴に入れる。あとは普段通りの耕作をしてもらう。これをパイロット・ファームにして、今年は作付けの実験、2019年、2020年と地域の人たちとワークショップを行い、その後トイレ行動に変化があるかを観察する、という筋道だ。
今年は5月にブルキナに来て、パイロット・ファームを設置。8月に別調査の合間に来た時には、下の写真のように、見事に草丈に差がでた。草丈だけ見れば、最終的に3:2ほどの差が付き、ある意味見やすい指標が出ることが分かった。
今回の滞在では、まず収穫作業をお願いした。実は収穫作業…

ブルキナファソ調査(2018年10月)-① 収穫の秋

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故あって今年は調査のことをあまり書いていませんが、まま、適当に現地には行っています。11月も見えてきた、ということで、黙っている必要もなくなった(大した理由ではないのですが)のでそろそろ書きます。と下書きに書いて、向こうでのネット環境が悪かったので、放置していました。

10月後半から11月。ブルキナファソは収穫シーズンを迎えていました。今年は雨が順調に降り、軒並み豊作。ここ数年、作況の良くなかったバム県でも稀に見る豊作だったとのことです。

ワガドゥグに到着したのが10月27日の夜、その翌朝にはワガドゥグを後にして一路コングシへ。コングシに着く前に当然のことながら、 チルメンガのところに顔を出す。都合で到着が遅くなったので、まずは仕事を済ませてから戻ってくることにした。街道沿いのカバレからチルメンガの家に向かう道、畑の様子を見せてもらった。ソルガムの穂は重そうに垂れ、オクラはすでに収穫され、最も大きく育ったものが種取用に残されている。



チルメンガのイエに着くと、ニコニコしながら出迎えてくれ、収穫したものを見せてくれる。ササゲ、ソルガム、オクラなどなど。そして、いつものやつが始まるのである。(つづく)


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科研費応募シーズン

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少し前にどこぞのアホ議員がなんやら言って物議を醸しましたが、そんな雑音に負けず、この1か月間は多くの研究者が科研費の応募書類をせっせと作っています。制度のことは何も言いませんが、研究者が「好きなこと」=「興味があること」=「面白いこと」≒「役に立つかもしれないこと」を進めるために、この制度は生命線。その裏には、よりよい業績を上げ、就職や部局内でのよりよい地位を確保する、という実利的な面もあります。こういうことを意識しながら書いている人もいると思いますが、僕はそんな器用なことを考えられるわけでもなく、研究仲間と課題をすり合わせ、どんな成果物を出すか、ということを考えて必死になって申請書を作るわけです。

前々職のころから、出せるものは出しておくべき、というスタンスで取り組んできて、今年も2つ出します。失業状態ということもあり、ほかの研究仲間が学内・所内業務をやりながらの分、少し頑張ろう、とそんなわけです。もちろん、この経費が取れたら、課題に準じた調査をしてもらうことになりますが、何日かでも長く現地にいてもらって、自分の研究を進めたり、見聞を広げてもらったり、こうしたことがとても大切だと考えています。申請する課題の芯は、3年前から変わっていません。一つはまあまあいいところまで来ていて、もう一つは去年もあまりよい評価を得られなかったので、割とドラスティックに変更をかけています。

作業はなかなかにしんどいのですが、その先にあるかもしれない、研究の進展や、楽しい研究会、そして、論文、本が書けるようになるはずで、そうした妄想を楽しみながらの作業です。何とか一つ。できれば二つ。全力を尽くして応募しようと思っています。

博論執筆日記 Vol.2 フィールドノート

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フィールドノート。何度かこのブログにも出てきたが、人類学者というか、フィールドワーカーにとっては、宝物だし命の次に大切と言ってもよい。人それぞれで位置づけは違って、単なるメモ帳の人もいれば、僕のように、すべて書き込むタイプもいる。

研究を始めてかれこれ60冊ほどのノートがあるのだが、最初からすべて書き込む、というスタイルではなく、最初は記憶力が悪いくせに、ほとんどノートもとらず、さらに見返しもしない。よく修士論文が書けたな、と思うほどだ。いろんな経験とほかの人のノートの取り方を見て、例えばトピック毎にノートを分けてみたり、また1冊にまとめてみたりして、今はすべてを時系列的に並べて、できるだけ詳細に、図をできるだけたくさん入れる、というスタイルに落ち着いて3-4年になった。結局、正確な情報を映像と共に思い出せるようにしようと思うと、情報をクラスト化するのはあまりよくない、という結果に落ち着いている。今のところ、である。

さて、文化人類学の論文(博論に限らず)はこういうノートを清書し、それをまとめて分析し、そこから生まれてくる。もちろん本も大事だけど、僕のスタイルはフィールドのデータが命なのだ。

さて、大きな話を書いた。なぜフィールドノートのことを書いたか、というと、実は未整理のものがかなりたくさんあるのだ。数年前から、ヴォイス・レコーダーを3台体制にして(埋まったことはない)音声データもあるから、かなり再現性はあるのだが、これがすんごい時間がかかるのよ。ノートだけですでに数百ページあるけど、これをさらにまとめると…いつ終わるんだろ?


想田和弘監督『牡蠣工場』2015年@大竹財団会議室

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3年越しでようやく見ることができた『牡蠣工場』。実は想田映画を「劇場」で見るのは今回が初めてです。

岡山県牛窓(瀬戸内のエーゲ海というらしいが…)の牡蠣工場を舞台としたこの映画。主に渡邊さんという、もともと三陸で牡蠣の養殖をしていたが、震災の影響で宮城から岡山に避難してきた方が中心的に描かれる。渡邊さんは、牛窓の牡蠣工場を継ぐことになっている。この地域も過疎の影響を受け、どこの工場も人手不足。その人手不足を補うため、中国をはじめ、アジア諸国から出稼ぎを受け入れている。渡邊さんのところでも、中国人の出稼ぎを受け入れることになった。

とあらすじめいたものを書くと、なんかチンケな話だけど、そこは観察映画。さまざまな「今」が見えてくる。震災のその後、過疎問題、一次産業の人手不足、今のご時世の文脈で言えば「差別」の問題等々。145分という長い映像だが、トピックはいくつもでてくる。ポスターには「過疎の町にグローバリズムがやってきた」として、グローバリゼーションが前景化されているが、別のテーマであるといわれても、いかようにも取れる。これが想田監督が言う、オーディエンスに解釈を任せる、というものなのだろう。ある景観を形成する要素や、その切り口は一つだけではないのだから。

蛇足。つい最近のこと。東京のセネガル人の集まりに呼ばれて、ゴハンをごちそうになりながら、カメラを回すことになった。僕にとっては、一部調査ということもあり、いろいろ話を聞きたかったのだけど、カメラに気を取られて全く調査にならない。ノートにメモできないことがこれほど不安だとは…もちろん、この手法に慣れた想田監督だから、比べても仕方ないのだけど、観察しながら映像を撮るというのは実に難しい。



ブログを一新しようとして失敗してる話

ブログを一新しようと思ったら、思いもよらない方向に…

ちょっと色気を出してみたのだけど、まったくの失敗。
背景の青いのは、写真の半分上の空の部分。う~ん、うまくいかん…
投稿の仕方も変わってしまってややこしくなった…

こればっかりやってられないので、今日はここまで。明日以降作業をやり直します。

そんなわけで、これから時々変わります。引き続きごひいきに。

博士論文執筆日記 Vol.1

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突然こんなことを書き出すことにした。ここ1年程、再びブログ倦怠期に陥っていた、というか、別原稿(後日詳細を書く)に係っていて、この原稿の関係で、あまりブログをいじりたいと思えなかったのだ。そして、その原稿に係っているうちに、ブログ上でもチョコチョコ「宣言」めいたことをつぶやいていた博士論文のほうも、ようやく、本当にようやく走り出してきた。

やはり一筆目が大変で、次の一画からは意外にサッサと筆が進む。「思うより行うが易し」とは言うが、めくら滅法にに書き始めるわけにもいかない。だが、とにかく最初の1文字を書き始めなければ、終わりもないわけで、ある程度方向性を決めたら次は無理をしてでも書き始める、こんな感じでなければ、と思う。

4月から月に1回から2回のペースで名古屋に通い、指導教官の佐々木重洋先生に指導を仰ぐ。これがペースメーカーとなっている。前期中はとりあえず、目安となる目次の作成、そして、ブルキナファソ調査2度(こっそりと)で補完データを収集し、図書館でも文献収集をした。資料のまとめやらで割と時間がかかっていたのだが、8月にようやく本格的に執筆が始まった、というのがここまでの経緯。もうずいぶん長くやっているので、既出論文は何本かあり、これを解体して、重複箇所を削除して、プロットの組み換えをやり…としていると、すでに原稿用紙200枚分。量を書けばいいわけではないが、とりあえず、これが今のところのベースだ。

今のところ、12月末には初校を上げ、3月に晴れて学位取得、というのが目標。もちろんやることは、これだけではなく、そのあたりを考えると、すでにかなり厳しいスケジュールになってきている。しかし、まずはやれることをコツコツと。

とりあえず、改めて執筆宣言をしてみたのだけど、内容の話はまた追々と。タイトルすら書いてないし…


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災害に際して思うこと

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7月から続く数々の災害。大阪の地震、大雨、台風、そして北海道の地震…これでもかという自然災害が日本を襲っている。「厳しい」環境だと言われているアフリカにいると、最近では「暑いだけか」というくらいで、ずいぶん優しい環境に感じてしまう。

ここのところTwitterの住人と化し、ほとんどブログを更新することもなくなってしまったが、災害が起こっているときのいわゆるネトウヨ諸氏による野党攻撃は目に余るものがある。逆側もそう取られているのかもしれないが、まあ、僕はそんな立場なので、こちら側に軸足を置いている。ネトウヨ諸氏の野党批判は、災害が起こって諸野党が「災害対策本部」を設置するわけだが、政治家が現地に赴くのをあげへつらって「邪魔しに行くな」とかそういう批判が多い。確かに、よく考えたら、野党諸氏は現地に行って何をしているのだろう?というのは疑問だ。独自の目線から情報収集を行う、これは間違いなく必要だろう。だが、ホームページを見ると「支援」と言う言葉がチラホラと目につく。どんな「支援」をしているのかな?と思ってみてみると、それは全くホームページに書いていない。これは色々言われるわ、と思ってしまう。これでは、現政権批判のための情報収集にしか見えない。

これだけ頻繁に災害が起こると、毎度初めまして、というのはなんだかおかしい気がしていて、確かに日本社会としての知識や経験の蓄積はあるのに、声高な政党が情報収集だけだったら、「本当に政権をとるつもりがあるのか?」という批判に耐えきれるものではない。被災者の「支援」を本当にやっているのなら、もう少し具体的な報告がアップデートされてもいいと思うし、情報収集だけなら、効果的で体系的な「支援」を考えなければならないと思う。NGOや研究者、企業などを巻き込んだ備えのプロットを多く作ることで、よりレジリアンスの高い社会をつくる。特に、関心も知識も高い、NGOや研究者はその存在自体、特にイベンチュアルに起こる自然災害は平時は得てして忘れ去られてしまいがち。こうした人たちを常に備えさせることで、より質の高い「支援」も実現するのではないだろうか。

まずは目先の被災者「支援」にご尽力願いたいが、少し落ち着いたらこんなことも考えてほしいと思っている。

新たなテーマに向けて:ヤルセの研究

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調査後半。別用務の調査で、そちらの方はまずまず順調で、心の中では執筆中の博論の追加データがほしい!の一心で後半をストリートの調査に充てているのだけど、これがなかなか難しい。子どもたちの掃討作戦があり、今日会った子どもたちは10人ほど。ともあれ、この状況は如何ともし難いので、このまま採れるデータを取って帰国に向かいます。

このブログでも何度か出てきましたが、順調な方の調査はSagbotengaという村でのもので、初めて3日間ほど泊めていただきました。調査の内容は書きませんが、この村のイマーム(礼拝を先導する人)は齢95。初めてお会いした時に比べれば、足が少し悪くなったのと、耳が遠くなったのですが、それでも背筋は伸び、矍鑠とした、そしてなんとも言えない柔和な表情の老イマームです。イメージとしては、東野英治郎の水戸黄門のような感じ。僕の滞在を本当に喜んでくれて、途中、お孫さんへのお土産かと思った枕とマットレスはなんと僕のためだったりとか、食事やオヤツまで気にかけてくれたりとか、そして、この村のこと、惜しみなくいろんなことをお話ししてくれました。

この村はヤルセというマリに起源のあるマンデ系の民族で、彼らのもともとの言葉はすでになくなり、モシの言葉を話します。ブルキナファソにイスラームを持ち込んだ民族として、現在まで宗教的にとても重要な位置を占めています。この村は、いわば、彼らのハートランドなのですが、ここのことを調べてやろうと思っています。今年、例の仕事が片付くとして、フィールドで過ごせる時間が今くらいのペースだとして、これから3年から5年かけることになるでしょう。


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あるNGOを辞めた話

3月に前職を退職し、4月から「無職」状態となったので、いろいろな会員ステイタスを整理することにした。学会もなんだかんだと6つも入っていたし、NGOも3団体に加入していた。これだけでも年間10万円近い会費を払っていたことになる。

多くは幽霊になっておいて、おカネが払えるようになったらまとめて…という作戦に出たが、一つのNGOに関しては積極的に辞めることにした。10年以上会費を払い続けた団体をなぜ辞めることにしたのか。もちろん、経済的にきつくなってきた、というのが大きくて、ほかにもいくつも理由があるのだが、それらを全体的に言えば、会の方針に納得がいかなかったためだ。NGOは、ともすれば素人に毛が生えた程度の設立者が自己顕示欲をむき出しにした独善的な組織になりやすいが、このNGOは多くの研究者を巻き込み、客観的な問題理解を目指していた。活発に活動も展開していた。

この会を辞めることを考え始めたのは2年前。すでに、関東を離れ、10年ほどが過ぎ、関東にいたころのようにNGO活動に関われなくなりずいぶん時間が過ぎていた。総会すら参加できず、とりあえずおカネを払い続ける、という状態が続いていたが、この会のリーダーだった方との個人的なご縁から、そのままにしておいた。しかし、そのリーダーが交代することとなり、少し僕の気分にも変化が生まれた。

昨年、会費の請求のメールをいただいた時に、「会費を払い続けるか悩んでいる」ということを、その理由を含めて書いて新しい事務局長宛てに送った。そこには「お返事無用」と付け加えておいた。何を書いたかと言えば、関東を離れてしまうとただただおカネを払い続けているだけになってしまうから、地方での活動を活発化させてほしい、ということ、このNGOの性質として特定の一分野に特化するのではなく、もっとオーガナイザー的な活動を強化すべきではないか、ということなどである。

「お返事無用」ということで、意見への回答はなかったが、とりあえず昨年は会費を納め、何か変わるかと思って会報誌などを眺めていたが、残念ながら、それらしい節は見当たらなかった。広島で何かある、ということもなかったし、それの呼びかけもなく、活動の見直しもない、総会もやはり委任状と報告が送られてくるだけ。従来の活動は活発だったようだが、オーガナイザーとしての役割を強化したようにも見えなかった。そういうことが…

オウム事件の終結と日本社会-1

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7月6日、前日から西日本を襲った雨の中を朝から名古屋から京都へと移動していた。スマホでTwitterを見ていると、そこには京都市内を流れる河川の増水の様子や大雨の様子に増して、麻原彰晃以下6名のオウム真理教幹部らの死刑執行「予告」のツイートで溢れていた。1995年の地下鉄サリン事件から23年。とうとうこの事件も歴史の一ページに落とし込まれた瞬間だった。

ツイートを見ていると、死刑が「執行された」という報告を受けているわけではなく、あくまで「これから執行されます」という「予告」であったこと、何かの間違いではないかと疑ったが、何人もの人がこれに違和感を表明していた。

どこかで書いたような気がするが、1995年3月20日の朝、僕は馬喰町に向かっていた。ようやく大学が決まり、一人暮らしをするための調理器具を買うためだった。とりあえず行先が決まった安ど感、でも行きたいところではなかった若干の寂寥感もあり、浮足立っているわけではなかった。馬喰町の駅を出ると、遠くで聞こえるサイレン。特に気にすることもなく、待ち合わせていた友人と会い、馬喰町で買い物をした。携帯がようやく出始めたころのこと、高校生風情ではそんなものは持っていない。飯でも食べたのだろうと思うが、少し遅い時間に帰宅すると、母が血相を変えて「無事でよかった」と。何のことやらわからず、テレビに目をやると、例の光景が目の前に広がった。

そして、真相が明らかになり、上九一色村のサティアンが解体され、麻原彰晃以下の幹部が逮捕され、オウム真理教自体もいったん解体された。多くの人が殺され、傷ついた。テロやカルトと言った、ずいぶん上の方で語られていた言葉が急に身近になり、「平和」とは何か、ということが一般的な会話の中に入り込み、時に、それはヒステリックに語られさえするようになった。

森達也さんの「A」、「A2」などのドキュメンタリーを見たり、テロやカルトについての理解を深めようとした。世の中が1995年3月20日に起こったことを理解できずに、もがいていたような時代だったのかもしれない。その年は1月に阪神淡路大震災があったこともあり、入った大学の中でも、知識人たちが様々なシンポジウムを開き、学生たちもとても熱心にそうした催しものに参加していた。その雰囲気は、68年の安保闘争などの時のような熱気だったのではないかと想像する。そして、僕…

アフリカ学会⇒文化人類学会⇒30th Society for the Advancement of Socio-Economics

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大変ご無沙汰してしまいました。2ヶ月放置です。

最後に更新してから、晴れて失業者として認定していただきました。ちゃんと就職活動も、就職するための業績づくりにも励んでいます。

毎年5-6個の学会に参加し、多い時には10近いところで発表してきたのですが、今年は思い切って絞り込み、3つ。文系の研究者としては、それでも多い感じがしますが、昨年上梓した本の出版記念の分科会発表、お世話になっている地球研関係の分科会発表、そして6月23日~25日に京都で開催されたSASEと、5月末から6月に隔週で開かれた学会ウィークは無事に終了しました。

簡単にタイトルだけ挙げておきます。
■アフリカ学会:「サハラ以南アフリカの人糞処理業者 の社会経済的役割の解明に向けた予 備的考察 ―ブルキナファソの事例より―」(中尾世治さんとの共同発表),フォーラム「「サハラ以南アフリカにおけるサニ テーション研究の現状と課題」( 代表者:山内太郎・中尾世治))
■文化人類学会:「​​ネガティブな子ども像を超えて ブルキナファソの「ストリート・チルドレン」の事例を起点に」, 分科会「アフリカ子ども学と文化人類学」(代表者:亀井伸孝), 日本文化人類学会 第52回学術大会, 弘前大学 
■SASE:'The Process for Co-Created Technology for Combat Desertificationè Collavoration of Afriacan Farmers and Japanese Scientist'(田中樹さんと共同発表), Session: Global Reordering and New Model of Development. Perspectives from Asia and Africa Part2 (B-12)

始めてのネタあり、焼き直しのネタありで、まあまあ準備にも時間がかかったので、ここ1,2日は少しゆっくり目のスケジュールにて。


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長い時を経て

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僕は7歳の時に父の転勤で三重県伊勢市から千葉県船橋市に移り住んだ。以来、高校を卒業し、予備校に通った20歳のころまで。その後も大学卒業からの4年間をすごしているので、合計すると17年ほどこの街に住んでいたことになる。そのあと、いくつかの街を転々として、今回13年ぶりにこの街に戻ってきた。

東京近郊のベッドタウンとして、人口減少時代の現在でもこの街の人口は増え続け、現在70万人に迫ろうとしているらしい。だけど、僕らが住む地区は、年寄の姿が目立ち、とてもこんな勢いのある場所には見えない。近くの商店街もずいぶん前にシャッター商店街になっているし、代わりにできたいくつかの小さなスーパーも高いうえに、それほど品物もよくなく、そして、僕がいたころからコンビニすらできては潰れる(その後の話では、近くの若干荒れた高校生が屯うので、小学校のPTAが閉店に追い込んだということ…)と言った状態で、そういう意味では、あまり生活しやすい街ではない。

都内の中高に通い、会社も都内だった僕にとっては、自分で行動するようになってからは寝るだけの街で、興味を持ってこの街を眺めたことはなかった。免許を持たない僕は、基本的に駅間を移動するだけだし、その駅の回りは歩いたことがあったが、街の中の風景は父の運転する車の助手席からだけ。加えて、中学校から都内に通い始めた僕は、地元の友達がいない。そのため、人とのご縁も非常に薄い。

約20年住んでいたものの、そんなわけだから、この街のこと、僕はほとんど知らない。こちらに移り住んで3週間。今まで東広島の田舎道しか走ってこなかった連れ合いに、道を覚えてもらうことも含め、週に何度かは車を走らせて東西南北に行ってみることにしている。すると、見たことのない景色、幹線道路から垣間見える街の発展の様子、様々なものことが目の前を過ぎ去る。薄れた記憶が蘇る、懐かしい、というよりも、また新たな街にやってきたような気分になっている。


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Bye Bye 広島

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年が明け、2月は逃げ去り、3月も半分を過ぎた。あまり何をやっていた、という実感もないまま、ぬるりと滑り落ちてしまったようなこの2か月半、敢えて思い出せば、ずいぶん長い間、本を整理しながら箱詰めをして、これまでに集めた資料をスキャンしていた。

3月16日に2年間住んだ官舎から荷物を搬出して、しばらく住所不定状態となった。連れ合いの仕事の都合で、2日間は西条駅近くのホテルで過ごし、千葉に向けて出発した。移動ルートは高松⇒徳島⇒東京というもの。義父の勧めもあり、徳島⇒東京はフェリーだ。フェリーのスケジュールの都合で高松で2泊し、官舎を出てから合計5日間の旅となった。節目としては若干冗長だったが、とても楽しい家族旅行になった。
都合2泊した香川では、うどんをすすり、高松市内を回り、連れ合いが留学時代に懇意にしていたムワンギ先生にも会った。自分の足で歩くことが好きな貴一朗を追いかけまわし、もちろん連れ合いと喧嘩したりもした。

気持ちはクサクサと荒み、縮こまっていたこの数か月間の滓が少しずつ落ち、いくつかのとても楽しかった思い出、新たにやってくる不安や古くて新しい環境になることへの期待…いろんなことが目くるめく風景の中で思い出された。
いつもの年よりもずいぶん早く咲いた桜は、僕らを迎えるように千葉でもすぐに満開になった。去年、連れ合いと貴一朗と鏡山公園で見た桜もきれいだったけど、千葉の桜も負けていない。


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松坂大輔の生き方を重ねてみる:ご報告

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ドラゴンズのことなんて何年かいていないだろう。広島にやってきて、そして、貴一朗が生まれてから、野球からはますます遠ざかり、たまに広島選があるときにテレビで見る程度で、普段はスマホでニュースを追いかける程度になってしまった。

例年、ペナントレースが始まる直前のこの時期は、希望的観測が飛び交い、「お!今年こそは!」と思うことしばしばで、ゲームが早く始まらないかと心浮き立つ時期だ。去年も高橋周平やら福田と言った、若いスラッガーたちが泥まみれになる姿が載った記事を見るに、その年の秋口の結果を想像したりもした。

僕は専門家でもないから、現実的に見たらどうなのか、ということはよくわからない。順位予想もそれほどよくなかったわけだし、シーズン中に覚醒した選手がそれほどいたわけではないので、まあ、そういう順位なのだろう。

これも例年思うことだが、今年は違う。1月に入団が決まった松坂大輔の存在である。各誌松坂のゲームそのものへの貢献よりも、チームに与える影響の大きさを報じ、なんだか僕もそんなことを感じている。感じさせられている、のかもしれないけど。

一時代を作った野球選手が、彼の最晩年を応援するドラゴンズで過ごしてくれるのは、ファンとしてはとてもうれしいことだ。そして、各誌がこぞって報じる松坂の一挙手一投足は、僕にとってもとても含蓄がある。

突然だが、あと10日ほどすると広島を後にすることになっている。このブログでも何度も「書く」と宣言した博論を書くためが第一、そして、もう一つ今の所属先には何の貢献もできなかったと評価されたことが第二の理由だ。かっこつけても仕方ないので、こう書いておく。

僕自身の研究者人生はこの後うまく行けば、あと現役時代は20年、そのあとも続けられるようであれば、25年かそこいらはあるだろう。でも、こんなことができるのは1年だけ。だから、松坂のようにあと1,2年、という感覚は今回はとてもよくわかる。

「周りにどう見られようが、どう思われようが、自分でまだやり切った悔いのない野球人生だったとは思えない。そう思えるようになるまでは、自分を信じて進んでいきたい」
(日刊スポーツ0302https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180301-00136701-nksports-base&pos=1)

僕はこの記事を読んだとき、たとえ僕の研…

「アフリカのストリートの子どもたち」@子ども大学横浜

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2月24日、「子ども大学横浜」で講義を行いました。

初めての小学生相手の講義(「大学」なので)で、資料の言葉遣いや文字数、すごく気を使ったつもりだったのだが、最初にできたものを見て愕然…

学会発表縮小版やないか!!

何度か推敲しても、やはりそれほど変わっていないように見えてしまう。味見をするなら3度まで、そのうち舌がバカになって、どの辺に合わせようとしたのかわからなくなってしまう(そんなようなものだ)。小学生がどれくらい話を理解してくれるのかがわからないのだから、あんまり考える材料もない。そもそも時間的にももうギリギリ。もうこれで行ってしまえ、と思って資料をお送りする。こんな経緯を経て、講義前に読み原稿も作ったのに、直前まで不安で不安で仕方がない。

とにかく、ポイントは①アフリカの子どもの生活について知り、関心を持ってもらうこと、②多様な側面から人を知ることが、人を理解する上で大切なこと、この2点を伝えることを考えて話をするようにした。もう一つ、テクストとお話しだけでは、宇宙や深海のこと(前の講義でこんなテーマのものもあった)よりもニュースが少ない西アフリカのこと。澤崎さんにブルキナファソで撮ってもらった映像を借り、ここ一番のスンバラのにおいを嗅がせる、と言った、ほかの感覚に訴えるような方法も使った。

蓋をあけてみると、ちゃんと話を聞いてくれて、中には前のめりになって聞いてくれている子も何人かいるほど。休憩時間に話をしにくる子もいて、質問もたくさん、しかも、大学生あたりよりもちゃんとした質問をしてくる。さらに、時間配分が、本当に珍しく完璧。そして、この「子ども大学横浜」のサポート体制も細部に気が利いた、快適な授業環境を作っていただけたことへの謝意も加えておきたい。


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二月は逃げる

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原稿が溜まっていたり、出前講義があったり、プライベートでも変化があるので、多少バタついているものの、まったくブログが開けなかったわけではない。気が付いたらほぼ一か月間、未更新でした。ほかで書くことは書いているので、ブログまで書く力が回らなかっただけかもしれないですが。

年が明けて、少し作業を進めていたら、もう2月中旬。光陰矢の如し、二月は逃げると言われるわけです。

月末には、3つか4つの小さい原稿が上がっているはず。ということは、2月後半戦も一気に過ぎてしまうでしょう。

生存確認でした。


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