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博論執筆日記 Vol.2 フィールドノート

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フィールドノート。何度かこのブログにも出てきたが、人類学者というか、フィールドワーカーにとっては、宝物だし命の次に大切と言ってもよい。人それぞれで位置づけは違って、単なるメモ帳の人もいれば、僕のように、すべて書き込むタイプもいる。

研究を始めてかれこれ60冊ほどのノートがあるのだが、最初からすべて書き込む、というスタイルではなく、最初は記憶力が悪いくせに、ほとんどノートもとらず、さらに見返しもしない。よく修士論文が書けたな、と思うほどだ。いろんな経験とほかの人のノートの取り方を見て、例えばトピック毎にノートを分けてみたり、また1冊にまとめてみたりして、今はすべてを時系列的に並べて、できるだけ詳細に、図をできるだけたくさん入れる、というスタイルに落ち着いて3-4年になった。結局、正確な情報を映像と共に思い出せるようにしようと思うと、情報をクラスト化するのはあまりよくない、という結果に落ち着いている。今のところ、である。

さて、文化人類学の論文(博論に限らず)はこういうノートを清書し、それをまとめて分析し、そこから生まれてくる。もちろん本も大事だけど、僕のスタイルはフィールドのデータが命なのだ。

さて、大きな話を書いた。なぜフィールドノートのことを書いたか、というと、実は未整理のものがかなりたくさんあるのだ。数年前から、ヴォイス・レコーダーを3台体制にして(埋まったことはない)音声データもあるから、かなり再現性はあるのだが、これがすんごい時間がかかるのよ。ノートだけですでに数百ページあるけど、これをさらにまとめると…いつ終わるんだろ?


想田和弘監督『牡蠣工場』2015年@大竹財団会議室

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3年越しでようやく見ることができた『牡蠣工場』。実は想田映画を「劇場」で見るのは今回が初めてです。

岡山県牛窓(瀬戸内のエーゲ海というらしいが…)の牡蠣工場を舞台としたこの映画。主に渡邊さんという、もともと三陸で牡蠣の養殖をしていたが、震災の影響で宮城から岡山に避難してきた方が中心的に描かれる。渡邊さんは、牛窓の牡蠣工場を継ぐことになっている。この地域も過疎の影響を受け、どこの工場も人手不足。その人手不足を補うため、中国をはじめ、アジア諸国から出稼ぎを受け入れている。渡邊さんのところでも、中国人の出稼ぎを受け入れることになった。

とあらすじめいたものを書くと、なんかチンケな話だけど、そこは観察映画。さまざまな「今」が見えてくる。震災のその後、過疎問題、一次産業の人手不足、今のご時世の文脈で言えば「差別」の問題等々。145分という長い映像だが、トピックはいくつもでてくる。ポスターには「過疎の町にグローバリズムがやってきた」として、グローバリゼーションが前景化されているが、別のテーマであるといわれても、いかようにも取れる。これが想田監督が言う、オーディエンスに解釈を任せる、というものなのだろう。ある景観を形成する要素や、その切り口は一つだけではないのだから。

蛇足。つい最近のこと。東京のセネガル人の集まりに呼ばれて、ゴハンをごちそうになりながら、カメラを回すことになった。僕にとっては、一部調査ということもあり、いろいろ話を聞きたかったのだけど、カメラに気を取られて全く調査にならない。ノートにメモできないことがこれほど不安だとは…もちろん、この手法に慣れた想田監督だから、比べても仕方ないのだけど、観察しながら映像を撮るというのは実に難しい。



ブログを一新しようとして失敗してる話

ブログを一新しようと思ったら、思いもよらない方向に…

ちょっと色気を出してみたのだけど、まったくの失敗。
背景の青いのは、写真の半分上の空の部分。う~ん、うまくいかん…
投稿の仕方も変わってしまってややこしくなった…

こればっかりやってられないので、今日はここまで。明日以降作業をやり直します。

そんなわけで、これから時々変わります。引き続きごひいきに。

博士論文執筆日記 Vol.1

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突然こんなことを書き出すことにした。ここ1年程、再びブログ倦怠期に陥っていた、というか、別原稿(後日詳細を書く)に係っていて、この原稿の関係で、あまりブログをいじりたいと思えなかったのだ。そして、その原稿に係っているうちに、ブログ上でもチョコチョコ「宣言」めいたことをつぶやいていた博士論文のほうも、ようやく、本当にようやく走り出してきた。

やはり一筆目が大変で、次の一画からは意外にサッサと筆が進む。「思うより行うが易し」とは言うが、めくら滅法にに書き始めるわけにもいかない。だが、とにかく最初の1文字を書き始めなければ、終わりもないわけで、ある程度方向性を決めたら次は無理をしてでも書き始める、こんな感じでなければ、と思う。

4月から月に1回から2回のペースで名古屋に通い、指導教官の佐々木重洋先生に指導を仰ぐ。これがペースメーカーとなっている。前期中はとりあえず、目安となる目次の作成、そして、ブルキナファソ調査2度(こっそりと)で補完データを収集し、図書館でも文献収集をした。資料のまとめやらで割と時間がかかっていたのだが、8月にようやく本格的に執筆が始まった、というのがここまでの経緯。もうずいぶん長くやっているので、既出論文は何本かあり、これを解体して、重複箇所を削除して、プロットの組み換えをやり…としていると、すでに原稿用紙200枚分。量を書けばいいわけではないが、とりあえず、これが今のところのベースだ。

今のところ、12月末には初校を上げ、3月に晴れて学位取得、というのが目標。もちろんやることは、これだけではなく、そのあたりを考えると、すでにかなり厳しいスケジュールになってきている。しかし、まずはやれることをコツコツと。

とりあえず、改めて執筆宣言をしてみたのだけど、内容の話はまた追々と。タイトルすら書いてないし…


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災害に際して思うこと

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7月から続く数々の災害。大阪の地震、大雨、台風、そして北海道の地震…これでもかという自然災害が日本を襲っている。「厳しい」環境だと言われているアフリカにいると、最近では「暑いだけか」というくらいで、ずいぶん優しい環境に感じてしまう。

ここのところTwitterの住人と化し、ほとんどブログを更新することもなくなってしまったが、災害が起こっているときのいわゆるネトウヨ諸氏による野党攻撃は目に余るものがある。逆側もそう取られているのかもしれないが、まあ、僕はそんな立場なので、こちら側に軸足を置いている。ネトウヨ諸氏の野党批判は、災害が起こって諸野党が「災害対策本部」を設置するわけだが、政治家が現地に赴くのをあげへつらって「邪魔しに行くな」とかそういう批判が多い。確かに、よく考えたら、野党諸氏は現地に行って何をしているのだろう?というのは疑問だ。独自の目線から情報収集を行う、これは間違いなく必要だろう。だが、ホームページを見ると「支援」と言う言葉がチラホラと目につく。どんな「支援」をしているのかな?と思ってみてみると、それは全くホームページに書いていない。これは色々言われるわ、と思ってしまう。これでは、現政権批判のための情報収集にしか見えない。

これだけ頻繁に災害が起こると、毎度初めまして、というのはなんだかおかしい気がしていて、確かに日本社会としての知識や経験の蓄積はあるのに、声高な政党が情報収集だけだったら、「本当に政権をとるつもりがあるのか?」という批判に耐えきれるものではない。被災者の「支援」を本当にやっているのなら、もう少し具体的な報告がアップデートされてもいいと思うし、情報収集だけなら、効果的で体系的な「支援」を考えなければならないと思う。NGOや研究者、企業などを巻き込んだ備えのプロットを多く作ることで、よりレジリアンスの高い社会をつくる。特に、関心も知識も高い、NGOや研究者はその存在自体、特にイベンチュアルに起こる自然災害は平時は得てして忘れ去られてしまいがち。こうした人たちを常に備えさせることで、より質の高い「支援」も実現するのではないだろうか。

まずは目先の被災者「支援」にご尽力願いたいが、少し落ち着いたらこんなことも考えてほしいと思っている。

新たなテーマに向けて:ヤルセの研究

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調査後半。別用務の調査で、そちらの方はまずまず順調で、心の中では執筆中の博論の追加データがほしい!の一心で後半をストリートの調査に充てているのだけど、これがなかなか難しい。子どもたちの掃討作戦があり、今日会った子どもたちは10人ほど。ともあれ、この状況は如何ともし難いので、このまま採れるデータを取って帰国に向かいます。

このブログでも何度か出てきましたが、順調な方の調査はSagbotengaという村でのもので、初めて3日間ほど泊めていただきました。調査の内容は書きませんが、この村のイマーム(礼拝を先導する人)は齢95。初めてお会いした時に比べれば、足が少し悪くなったのと、耳が遠くなったのですが、それでも背筋は伸び、矍鑠とした、そしてなんとも言えない柔和な表情の老イマームです。イメージとしては、東野英治郎の水戸黄門のような感じ。僕の滞在を本当に喜んでくれて、途中、お孫さんへのお土産かと思った枕とマットレスはなんと僕のためだったりとか、食事やオヤツまで気にかけてくれたりとか、そして、この村のこと、惜しみなくいろんなことをお話ししてくれました。

この村はヤルセというマリに起源のあるマンデ系の民族で、彼らのもともとの言葉はすでになくなり、モシの言葉を話します。ブルキナファソにイスラームを持ち込んだ民族として、現在まで宗教的にとても重要な位置を占めています。この村は、いわば、彼らのハートランドなのですが、ここのことを調べてやろうと思っています。今年、例の仕事が片付くとして、フィールドで過ごせる時間が今くらいのペースだとして、これから3年から5年かけることになるでしょう。


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あるNGOを辞めた話

3月に前職を退職し、4月から「無職」状態となったので、いろいろな会員ステイタスを整理することにした。学会もなんだかんだと6つも入っていたし、NGOも3団体に加入していた。これだけでも年間10万円近い会費を払っていたことになる。

多くは幽霊になっておいて、おカネが払えるようになったらまとめて…という作戦に出たが、一つのNGOに関しては積極的に辞めることにした。10年以上会費を払い続けた団体をなぜ辞めることにしたのか。もちろん、経済的にきつくなってきた、というのが大きくて、ほかにもいくつも理由があるのだが、それらを全体的に言えば、会の方針に納得がいかなかったためだ。NGOは、ともすれば素人に毛が生えた程度の設立者が自己顕示欲をむき出しにした独善的な組織になりやすいが、このNGOは多くの研究者を巻き込み、客観的な問題理解を目指していた。活発に活動も展開していた。

この会を辞めることを考え始めたのは2年前。すでに、関東を離れ、10年ほどが過ぎ、関東にいたころのようにNGO活動に関われなくなりずいぶん時間が過ぎていた。総会すら参加できず、とりあえずおカネを払い続ける、という状態が続いていたが、この会のリーダーだった方との個人的なご縁から、そのままにしておいた。しかし、そのリーダーが交代することとなり、少し僕の気分にも変化が生まれた。

昨年、会費の請求のメールをいただいた時に、「会費を払い続けるか悩んでいる」ということを、その理由を含めて書いて新しい事務局長宛てに送った。そこには「お返事無用」と付け加えておいた。何を書いたかと言えば、関東を離れてしまうとただただおカネを払い続けているだけになってしまうから、地方での活動を活発化させてほしい、ということ、このNGOの性質として特定の一分野に特化するのではなく、もっとオーガナイザー的な活動を強化すべきではないか、ということなどである。

「お返事無用」ということで、意見への回答はなかったが、とりあえず昨年は会費を納め、何か変わるかと思って会報誌などを眺めていたが、残念ながら、それらしい節は見当たらなかった。広島で何かある、ということもなかったし、それの呼びかけもなく、活動の見直しもない、総会もやはり委任状と報告が送られてくるだけ。従来の活動は活発だったようだが、オーガナイザーとしての役割を強化したようにも見えなかった。そういうことが…

オウム事件の終結と日本社会-1

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7月6日、前日から西日本を襲った雨の中を朝から名古屋から京都へと移動していた。スマホでTwitterを見ていると、そこには京都市内を流れる河川の増水の様子や大雨の様子に増して、麻原彰晃以下6名のオウム真理教幹部らの死刑執行「予告」のツイートで溢れていた。1995年の地下鉄サリン事件から23年。とうとうこの事件も歴史の一ページに落とし込まれた瞬間だった。

ツイートを見ていると、死刑が「執行された」という報告を受けているわけではなく、あくまで「これから執行されます」という「予告」であったこと、何かの間違いではないかと疑ったが、何人もの人がこれに違和感を表明していた。

どこかで書いたような気がするが、1995年3月20日の朝、僕は馬喰町に向かっていた。ようやく大学が決まり、一人暮らしをするための調理器具を買うためだった。とりあえず行先が決まった安ど感、でも行きたいところではなかった若干の寂寥感もあり、浮足立っているわけではなかった。馬喰町の駅を出ると、遠くで聞こえるサイレン。特に気にすることもなく、待ち合わせていた友人と会い、馬喰町で買い物をした。携帯がようやく出始めたころのこと、高校生風情ではそんなものは持っていない。飯でも食べたのだろうと思うが、少し遅い時間に帰宅すると、母が血相を変えて「無事でよかった」と。何のことやらわからず、テレビに目をやると、例の光景が目の前に広がった。

そして、真相が明らかになり、上九一色村のサティアンが解体され、麻原彰晃以下の幹部が逮捕され、オウム真理教自体もいったん解体された。多くの人が殺され、傷ついた。テロやカルトと言った、ずいぶん上の方で語られていた言葉が急に身近になり、「平和」とは何か、ということが一般的な会話の中に入り込み、時に、それはヒステリックに語られさえするようになった。

森達也さんの「A」、「A2」などのドキュメンタリーを見たり、テロやカルトについての理解を深めようとした。世の中が1995年3月20日に起こったことを理解できずに、もがいていたような時代だったのかもしれない。その年は1月に阪神淡路大震災があったこともあり、入った大学の中でも、知識人たちが様々なシンポジウムを開き、学生たちもとても熱心にそうした催しものに参加していた。その雰囲気は、68年の安保闘争などの時のような熱気だったのではないかと想像する。そして、僕…

アフリカ学会⇒文化人類学会⇒30th Society for the Advancement of Socio-Economics

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大変ご無沙汰してしまいました。2ヶ月放置です。

最後に更新してから、晴れて失業者として認定していただきました。ちゃんと就職活動も、就職するための業績づくりにも励んでいます。

毎年5-6個の学会に参加し、多い時には10近いところで発表してきたのですが、今年は思い切って絞り込み、3つ。文系の研究者としては、それでも多い感じがしますが、昨年上梓した本の出版記念の分科会発表、お世話になっている地球研関係の分科会発表、そして6月23日~25日に京都で開催されたSASEと、5月末から6月に隔週で開かれた学会ウィークは無事に終了しました。

簡単にタイトルだけ挙げておきます。
■アフリカ学会:「サハラ以南アフリカの人糞処理業者 の社会経済的役割の解明に向けた予 備的考察 ―ブルキナファソの事例より―」(中尾世治さんとの共同発表),フォーラム「「サハラ以南アフリカにおけるサニ テーション研究の現状と課題」( 代表者:山内太郎・中尾世治))
■文化人類学会:「​​ネガティブな子ども像を超えて ブルキナファソの「ストリート・チルドレン」の事例を起点に」, 分科会「アフリカ子ども学と文化人類学」(代表者:亀井伸孝), 日本文化人類学会 第52回学術大会, 弘前大学 
■SASE:'The Process for Co-Created Technology for Combat Desertificationè Collavoration of Afriacan Farmers and Japanese Scientist'(田中樹さんと共同発表), Session: Global Reordering and New Model of Development. Perspectives from Asia and Africa Part2 (B-12)

始めてのネタあり、焼き直しのネタありで、まあまあ準備にも時間がかかったので、ここ1,2日は少しゆっくり目のスケジュールにて。


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長い時を経て

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僕は7歳の時に父の転勤で三重県伊勢市から千葉県船橋市に移り住んだ。以来、高校を卒業し、予備校に通った20歳のころまで。その後も大学卒業からの4年間をすごしているので、合計すると17年ほどこの街に住んでいたことになる。そのあと、いくつかの街を転々として、今回13年ぶりにこの街に戻ってきた。

東京近郊のベッドタウンとして、人口減少時代の現在でもこの街の人口は増え続け、現在70万人に迫ろうとしているらしい。だけど、僕らが住む地区は、年寄の姿が目立ち、とてもこんな勢いのある場所には見えない。近くの商店街もずいぶん前にシャッター商店街になっているし、代わりにできたいくつかの小さなスーパーも高いうえに、それほど品物もよくなく、そして、僕がいたころからコンビニすらできては潰れる(その後の話では、近くの若干荒れた高校生が屯うので、小学校のPTAが閉店に追い込んだということ…)と言った状態で、そういう意味では、あまり生活しやすい街ではない。

都内の中高に通い、会社も都内だった僕にとっては、自分で行動するようになってからは寝るだけの街で、興味を持ってこの街を眺めたことはなかった。免許を持たない僕は、基本的に駅間を移動するだけだし、その駅の回りは歩いたことがあったが、街の中の風景は父の運転する車の助手席からだけ。加えて、中学校から都内に通い始めた僕は、地元の友達がいない。そのため、人とのご縁も非常に薄い。

約20年住んでいたものの、そんなわけだから、この街のこと、僕はほとんど知らない。こちらに移り住んで3週間。今まで東広島の田舎道しか走ってこなかった連れ合いに、道を覚えてもらうことも含め、週に何度かは車を走らせて東西南北に行ってみることにしている。すると、見たことのない景色、幹線道路から垣間見える街の発展の様子、様々なものことが目の前を過ぎ去る。薄れた記憶が蘇る、懐かしい、というよりも、また新たな街にやってきたような気分になっている。


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Bye Bye 広島

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年が明け、2月は逃げ去り、3月も半分を過ぎた。あまり何をやっていた、という実感もないまま、ぬるりと滑り落ちてしまったようなこの2か月半、敢えて思い出せば、ずいぶん長い間、本を整理しながら箱詰めをして、これまでに集めた資料をスキャンしていた。

3月16日に2年間住んだ官舎から荷物を搬出して、しばらく住所不定状態となった。連れ合いの仕事の都合で、2日間は西条駅近くのホテルで過ごし、千葉に向けて出発した。移動ルートは高松⇒徳島⇒東京というもの。義父の勧めもあり、徳島⇒東京はフェリーだ。フェリーのスケジュールの都合で高松で2泊し、官舎を出てから合計5日間の旅となった。節目としては若干冗長だったが、とても楽しい家族旅行になった。
都合2泊した香川では、うどんをすすり、高松市内を回り、連れ合いが留学時代に懇意にしていたムワンギ先生にも会った。自分の足で歩くことが好きな貴一朗を追いかけまわし、もちろん連れ合いと喧嘩したりもした。

気持ちはクサクサと荒み、縮こまっていたこの数か月間の滓が少しずつ落ち、いくつかのとても楽しかった思い出、新たにやってくる不安や古くて新しい環境になることへの期待…いろんなことが目くるめく風景の中で思い出された。
いつもの年よりもずいぶん早く咲いた桜は、僕らを迎えるように千葉でもすぐに満開になった。去年、連れ合いと貴一朗と鏡山公園で見た桜もきれいだったけど、千葉の桜も負けていない。


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松坂大輔の生き方を重ねてみる:ご報告

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ドラゴンズのことなんて何年かいていないだろう。広島にやってきて、そして、貴一朗が生まれてから、野球からはますます遠ざかり、たまに広島選があるときにテレビで見る程度で、普段はスマホでニュースを追いかける程度になってしまった。

例年、ペナントレースが始まる直前のこの時期は、希望的観測が飛び交い、「お!今年こそは!」と思うことしばしばで、ゲームが早く始まらないかと心浮き立つ時期だ。去年も高橋周平やら福田と言った、若いスラッガーたちが泥まみれになる姿が載った記事を見るに、その年の秋口の結果を想像したりもした。

僕は専門家でもないから、現実的に見たらどうなのか、ということはよくわからない。順位予想もそれほどよくなかったわけだし、シーズン中に覚醒した選手がそれほどいたわけではないので、まあ、そういう順位なのだろう。

これも例年思うことだが、今年は違う。1月に入団が決まった松坂大輔の存在である。各誌松坂のゲームそのものへの貢献よりも、チームに与える影響の大きさを報じ、なんだか僕もそんなことを感じている。感じさせられている、のかもしれないけど。

一時代を作った野球選手が、彼の最晩年を応援するドラゴンズで過ごしてくれるのは、ファンとしてはとてもうれしいことだ。そして、各誌がこぞって報じる松坂の一挙手一投足は、僕にとってもとても含蓄がある。

突然だが、あと10日ほどすると広島を後にすることになっている。このブログでも何度も「書く」と宣言した博論を書くためが第一、そして、もう一つ今の所属先には何の貢献もできなかったと評価されたことが第二の理由だ。かっこつけても仕方ないので、こう書いておく。

僕自身の研究者人生はこの後うまく行けば、あと現役時代は20年、そのあとも続けられるようであれば、25年かそこいらはあるだろう。でも、こんなことができるのは1年だけ。だから、松坂のようにあと1,2年、という感覚は今回はとてもよくわかる。

「周りにどう見られようが、どう思われようが、自分でまだやり切った悔いのない野球人生だったとは思えない。そう思えるようになるまでは、自分を信じて進んでいきたい」
(日刊スポーツ0302https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180301-00136701-nksports-base&pos=1)

僕はこの記事を読んだとき、たとえ僕の研…

「アフリカのストリートの子どもたち」@子ども大学横浜

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2月24日、「子ども大学横浜」で講義を行いました。

初めての小学生相手の講義(「大学」なので)で、資料の言葉遣いや文字数、すごく気を使ったつもりだったのだが、最初にできたものを見て愕然…

学会発表縮小版やないか!!

何度か推敲しても、やはりそれほど変わっていないように見えてしまう。味見をするなら3度まで、そのうち舌がバカになって、どの辺に合わせようとしたのかわからなくなってしまう(そんなようなものだ)。小学生がどれくらい話を理解してくれるのかがわからないのだから、あんまり考える材料もない。そもそも時間的にももうギリギリ。もうこれで行ってしまえ、と思って資料をお送りする。こんな経緯を経て、講義前に読み原稿も作ったのに、直前まで不安で不安で仕方がない。

とにかく、ポイントは①アフリカの子どもの生活について知り、関心を持ってもらうこと、②多様な側面から人を知ることが、人を理解する上で大切なこと、この2点を伝えることを考えて話をするようにした。もう一つ、テクストとお話しだけでは、宇宙や深海のこと(前の講義でこんなテーマのものもあった)よりもニュースが少ない西アフリカのこと。澤崎さんにブルキナファソで撮ってもらった映像を借り、ここ一番のスンバラのにおいを嗅がせる、と言った、ほかの感覚に訴えるような方法も使った。

蓋をあけてみると、ちゃんと話を聞いてくれて、中には前のめりになって聞いてくれている子も何人かいるほど。休憩時間に話をしにくる子もいて、質問もたくさん、しかも、大学生あたりよりもちゃんとした質問をしてくる。さらに、時間配分が、本当に珍しく完璧。そして、この「子ども大学横浜」のサポート体制も細部に気が利いた、快適な授業環境を作っていただけたことへの謝意も加えておきたい。


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二月は逃げる

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原稿が溜まっていたり、出前講義があったり、プライベートでも変化があるので、多少バタついているものの、まったくブログが開けなかったわけではない。気が付いたらほぼ一か月間、未更新でした。ほかで書くことは書いているので、ブログまで書く力が回らなかっただけかもしれないですが。

年が明けて、少し作業を進めていたら、もう2月中旬。光陰矢の如し、二月は逃げると言われるわけです。

月末には、3つか4つの小さい原稿が上がっているはず。ということは、2月後半戦も一気に過ぎてしまうでしょう。

生存確認でした。


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子ども学と子育て Vol.23 アッカンベー

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1月に福岡の実家から広島へ、そしてその週末には千葉の実家に帰郷した。貴一朗はいろんな乗り物に乗れてウキウキだったけど、千葉から広島に帰る前夜、突然の嘔吐。生ものを食べたし、ちょっとしたお腹のカゼか…と思っていたら、まさかのノロ。上からも下からもドンドン出てしまう。本人はケロッとしているのだけど、手洗いや掃除にいつも以上に気を付け、水分を補充するようにした。聞きしに勝るノロの脅威。とにかく再発させないよう、そして、1か月ほどはウィルスを保有し続けるらしいので、もう少し気を付けたいと思います。

さて、今までの貴一朗の記事を見返してみると、物事を覚えるスピードにただただ驚くのみなのが分かります。日々複雑なコミュニケーションができるようになっていく。昨日、今日あたりは、「ゴメン」が言えるようになった。「アリガトウ」、「イタダキマス」、「ゴチソウサマ」はなんとなく言えるので、また基本的なコミュニケーションのボキャが増えたということです。

今日、とても面白かったのが、「アッカンベー」ができるようになったこと。まだどんな場面で使うのかはよくわかっておらず、ニコニコしながら「アッカンベー」とか言っていたけど、そういう場面が分かるようになるのもそんなに時間がかからないでしょう。本当に生意気になったときに使われて張り倒さないように気をつけねば(笑)。



子ども学と子育て Vol.19 貴一朗のカゼ その2

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Vol.19が下書きのままでした。ちょうど大変なことがあったので、そのまま追記します。
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4月に保育園に行き始めてすぐにもらったカゼはGW中に何とか終息したかに思ったけど、そこでは収まらなかった。

今年は学会参加の数も、調査の数もだいぶ減らした「つもり」で、「つもり」だったことを十分に自覚して、学会参加も必要最低限で帰る、というようにしている。特に発表もない、義理で参加せねばならないアフリカ学会は長野で開催だった。広島から長野へは、いったん東京に出て、そのあと、長野新幹線に乗らねばならず、やたらと遠い。朝4時半おきの予定だった。

明け方3時。授乳していた淳子から「熱が40度ある」と言われ、座薬をいれる。土曜日は淳子も稼ぎ時。僕ももろもろの前払いもあって、学会に行かねばそれが返ってこない…座薬を入れたし、様子をみるかどうするか…二人でいろいろ話をした結果、福岡の実家からお母さんに来てもらうことに。何とか都合をつけていただき、これで一安心。僕はのんきに学会に参加し、旧交を温め…しかし、落ち着いていられるわけもなく、2日目は学会をほぼキャンセルの状態で、広島に帰ることにした。長野から新幹線を待つ間、超高級りんごジュースを貴一朗のために買い、僕は意気揚々と広島に向かった。

ジュースのせいでやたら重くなった荷物をエッチラオッチラしながら、バス停からの坂を上がる。宿舎の入り口に下の階の奥さんがいる。僕は能天気に「こんにちは」なんて挨拶をすると、

「清水さん、大変です。お子さんが…」

「え?」

「けいれんを起こしたみたいで、今救急車を誘導するところなんです!」

たいした距離ではないけど、飛んで帰ると、多少容体の落ち着いた貴一朗を抱える連れ合い。義母さんから事情を聴く。熱が続いたあと、ぐったりして、急にけいれんしたとか…
病院に運ばれた貴一朗は2時間ほどして家に帰ってきたが、いつもの元気はなく、ぐったり。連れ合いも、義母さんもぐったり。もちろん僕も…

翌日、病院にいくと、突発性の熱性けいれん、とのこと。一度起きると二度目、三度目があることや、後遺症が残る可能性があること…

なんでのんきに学会なんて行ってたんだろ…かなり後悔して、大いに反省。
子育てをしながら仕事をする、というのがいかに難しいことか…





「ストリート・チルドレン」調査から Vol. 2 NGO-① 調査を始める 

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2008年。ある縁からワガドゥグ市内のいくつかのNGOと懇意にさせてもらうようになった。その中でその後もっとも世話になるのが、KEOOGOというNGOだった。このNGOは、元々「国境なき医師団(ベルギー)」のストリート・チルドレンのケアを行うプロジェクトが、同団体の撤退のタイミングで独立、現地NGO化した団体である。

Ousmane Sawadogoさん、Zampou Lassinaさん、Issa Ouedraogoさんらが当時からの中心メンバーで、KEOOGO立ち上げも彼らによって行われる。Sawadogoさん、Ouedraogoさんは看護師、Lassinaさんは社会学の修士を持つ、ブルキナファソでは相当なエリートである。

前回書いたラスタマンたちとのかかわりから、なんとなく「子ども」に焦点を絞って調査を行おうとしていたが、残念ながら自分一人で調査を行うことは難しかった。というのが、子どもたちが使うヌッシというストリート言語は100%理解できない。もちろん彼らとしても、物乞いをしなければならないので、フランス語ができる子はいるのだが、多くが片言でコミュニケーションというわけにはいかない。そして、ラスタマンたちに手伝いをお願いしても、少々危険なにおいのするこの作業、なかなか一緒にやってくれようという人がいなかったこともなかなか調査が進まなかったことの一つの理由だ。

そのようなわけで、僕はNGOに救いの手を求めた。

KEOOGOに行って事情を話すと、インターンとして受け入れてくれるという。何とか調査が始められることになった。


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子ども学と子育て Vol.22 コミュニケーション

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貴一朗のことを書くのも久しぶりです。

11月中旬から12月末までの断続的な出張で、ほとんど貴一朗とも顔を合わせることなく、ただただ、連れ合いから送られてくる写真や映像を見て、貴一朗を思い出していました。
12月末に福岡で再会すると、この約1か月半の時間に貴一朗がまた一気に成長していたことを実感しました。

今回の一番の驚きは、使える単語の数が一気に増えたこと、そして言葉と意味、行動が相当数一致するようになったことでした。

出張前から「パパ」「ママ」「キイチャン」はわかっていたように思いますが、このくらいはもう朝飯前で、「イヤ」などの意思を示す言葉をどう使えば僕らに伝わるか、動物の名前や、色の名前もかなりはっきり分かるようになっていました。そして、「カーズ(アニメ)」や電車もよく観察していて、キャラクターや電車の名前(「シンカンセン」、「フミキリ」などなど)も。

外にいたり、Youtubeを見ていて、「これはxxxっていうんだよ」というと、「xxx」とまねできるようにも。そして、ここ数日間では、「クスリを飲んだら、xxxしてあげるね」という、条件法の意味がわかるようになって、またさらにステップアップ。乾いたスポンジが水を吸い込むように毎日、というより、一瞬一瞬成長しています。

親バカ日誌第22弾でした。


「ストリート・チルドレン」の調査から Vol.1 きっかけ

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2008年に博士課程後期に進学し、西アフリカのラスタ研究に一段落をつけ、僕は新たな研究テーマを探していた。たまたまいただいた調査費で、渡航したブルキナファソでフラフラとしていた。「フラフラ」という表現が悪ければ、もがいていた、と言ったほうがよいかもしれない。

新たな研究テーマ、まともに勉強もしなかった僕にはとても難しいことで、頼るは直観のみ。自分がちゃんと興味が持てるか、学問として成立するか、また、長くかかわることができるのか。これくらいのことを考えてテーマを探した。

それまでにいくつかのNGOと関わりを持っていた僕は、いくつかのNGOを訪れ、また、時間があると旧知のラスタの元を訪れて思案に暮れていた。そして…その地域のラスタの世話役にあたるラミンとその友人たちとコーヒーを飲みながら話をしていた時のこと、何人かの物乞いをする子どもたちが僕らの前を通りかかり、案の定、「白人」の僕を見つけておカネをせびりだした。

ラスタたちは「オン ナレ(やるものはない)」と言って追い払うと、「ああいう子どもたちは盗みをする。」と言い、僕に彼らには近づかないように言った。僕の調査では、ラスタの兄ちゃんたちの多くは、10代のころからストリートで商売をしたり、時に、ストリートで寝たり、メシを喰ったりしていて、僕からすれば、同じ属性の人たちだったのだけど、実はこの両者は全く異なったステージにいたのだ。外在的に類似した属性の両者がいかに異なるのか、これがストリート・チルドレンの問題との出会いである。

突然こんな話を書き出してみた。ずっとメシの話やら子どもの話やら、割と他愛もない(研究の種にはなっているのだけど)話題を書いてきたし、書くように努めてきた。それは、研究テーマはどうせ論文やらで書くことになるし、少し幅を広げる意味で、そして、日本語を書く習慣づけという意味でなのだけど、そろそろ研究の話も書いておいたほうがよいような気がして、少しずつ書いていきたいと思う。

そして、もう一つ、研究の話を書こうと思った大きな理由がある。ストリート・チルドレンの問題にかかわり始めて今年で10年目だ。これまでの研究でずいぶんいろんなことを汁に至ったのだけど、今度は僕が応答しなければならないモーメントがすぐそこに来ていることを感じるし、それは、きっと悠長に構えていてはいけないことなのだとも思っている。来る日に…

ご恵投いただきました(高野秀行「謎の未確認納豆を追え!」『小説新潮』)

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これもお知らせが遅くなりました。この前の記事の関連です。

10月に研究会をご一緒した高野秀行さんが『小説新潮』に「謎の未確認納豆を追え!」という連載をされています。毎号、ご恵投いただき、とても興味深く読ませていただいています。この連載は、一昨年ナイジェリア北部(僕らは入れない…)、セネガル南部の風間ンス(こちらも推奨されていない)での取材をもとにしたもの。僕がひたすらブルキナファソだけをやっていたので、周囲の発酵調味料類の状況がよくわかります。

高野さん、突然この発酵調味料をやり始めたわけではなく、少し前には『謎のアジア納豆』という本に東南アジアの納豆について書かれています。東南アジアの納豆は、小泉武夫さんや石毛直道さん、さらに最近では、横山智さんがしっかりとまとめられていますが、アフリカとなると、高野さんがトップランナー。成分や薬効に関する論文はたくさんあるのですが、日本語で書かれたものなら、最も広く網羅されているように思います。

作家と研究者という呼び名の差はありますが、やっていることは同じ。「なんぜこんなところに納豆が」という驚きも共有しています。これからどんなものが生まれるのか、楽しみなところです。


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第1回「アフリカの発酵食品と文化」研究会(どんだけ遅い報告だ…)

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ずいぶん前の話になってしまいましたが、こんな研究会をやりました。

2012年あたりから少しずつネタを探し、調べてきた「西アフリカの食文化」研究の第一弾と言ったところ。発酵食品を調べているのですが、高野秀行さんが『小説新潮』に「謎のアフリカ納豆を追え!」という連載を始められるということで、まずはスンバラに焦点を当てました。

今回は初回ということで、顔合わせとそれぞれの興味関心の共有、あとはこれが大切だったのですが、基本的な知識の共有。スンバラがどんな広がりを持っているかとか、原料となる「ネレ」の学名(Parkia Biglobosa)の同定など、こういうところから始めました。

これはきっと面白い研究会になるはず…そんな期待を込めて、今年も第2回研究会を開催したいと思います。


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明けましておめでとうございます(2018年)

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明けましておめでとうございます。

何とか松の内に更新できました。案の定、というか、昨年の後半も本務の忙しさと圧力により、ブログを更新する余裕がまったくなく、ようやくそれから解放された年末にチロチロとできた程度。ようやく少し態勢を立て直すことができてきました。

ともあれ、年も明けましたので、まずはご挨拶を。

今更ですが去年は年始にどんなことを言っていたのだろう、と思ってブログを見返してみました。

一年の計は元旦にあり。だけど、もう1年を振り返った時点で計など立てるような状態ではなく、押し寄せる締め切りを何とかしてやり切らねばならないだけなので、特に「今年は…!」ということを考えられるような状態ではありません。強いて言えば、身の丈に合った予定を立てよう、それくらいでしょうか。

相当弱気です…

研究成果は今までで最も多く出た年だったのですが、決して身の丈に合ったものではありませんでした。年が明けて改めて思うと、相当に消耗した一年でした。

今年は一気にいろんなことを変えていきます。まだここでお話しできないことがいくつかはありますが、「博論」だけは来年度中にめどをつけます。これは絶対です(超強気!)。

少々鼻息が荒いですが、ここまで言えば、恥ずかしくもなるだろう、ということにて。

奇特にもこのブログをご覧になられた方のご健勝と益々おかしなことになってきている世の中が少しはよくなることを祈念して、新年のご挨拶とさせていただきます。