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3月, 2015の投稿を表示しています

パスポート書き換え完了!

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2014年度最後の日、9年半使ったパスポートの書き換えが完了しました。

最初にパスポートを作ったのが、20歳の時。2冊目のパスポートが残り期間半年ほどになることから、早目に書き換えをすることにしました。大学生時代には、スタンプラリーのつもりで、とにかくスタンプがほしかったように思いますが、最近は、できるだけ省スペースで、「何ページに押してください」という指示もだしていました。

新しいパスポートはICチップの入ったもの。今やめずらしくないですが、確か、この2冊目のパスポートを取った直後に変わったのではなかったでしょうか。

いやはや。約10年間、一度も事故に遭わずに過ごせました。お勤めご苦労さまでした。そして、新しいパスポートも安全な旅とエキサイティングなアドベンチャーの供で長くお願いしたいものです。

素晴らしい祝辞②[立教大学2015、立教新座中高等学校2011]

卒業シーズンも一段落。毎年、いくつかの学校の祝辞が注目されますが、今年も素晴らしいものが紹介されていました。 立教という学校には全く縁もゆかりもありませんが、たまたま2つの祝辞に接する機会があり、それらにいたく感銘を受けました。双方、それぞれのホームページから拝借してきました。是非ご一読ください。 立教新座中高の渡辺校長の「祝辞」は、実際には生徒の前に話されていないようです。2011年のものだからです。3.11後、多くの学校の卒業式が中止され、「祝辞」は「メッセージ」と呼び換えられたのが印象でしたが、こうした時期だからこそ新しい門出を迎える若者たちに言葉をかけたい先生たちの言葉はより鋭く、重いものになっていきます。以前、高橋源一郎さんの祝辞を紹介しましたが、これも大変すばらしいものでした。 渡辺校長は、大学に進むことを「海に出ること」にたとえ、「津波」に負けない強い人間になるように訴えています。 「真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。」 ちょっと熱すぎるか、そんな風にも思ってしまいますが、大災害で混乱した当時の社会でのこと、敢えてこうしたことを述べられたのだと思います。 このメッセージを受けた立教新座の高校生たちが進んだであろう、立教大学の吉岡総長は(大学院の卒業式でのものですが)、大学という、知の海で、「考える」ことの大切さを説きました。大きく首肯できる、今の時代にとても大切な言葉を紡がれたと思います。 「大学は「物事を根源にまで遡って徹底的に考える」場所です。 やや誇張した言い方をすれば、大学が存在しているのは社会の中で大学以外にそのように物事を徹底的に考える場所が他にないからです。もしもそのような場所が、社会の至る所にあるのであれば、大学は不要でしょう。 あるいは逆に、社会がもはや考えることを全く必要としないのであれば,(そのような社会が望ましい社会であるか、そもそも人間の社会と言えるかどうかは別として)、大学は存在意味を失うことになります。 立教大学は、今述べたような「徹底的に考える場所」であることを自らに課してきました。本日学位を取得された皆さんは、立教大学におけ…

待ち遠しい…

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http://dragons.jp/fan/livedragons/2010/

とうとうきました。やっときました。この日。

プロ野球開幕です。今年もあんまし強くないんだろうな…とは思うので、勝ちにはあんまり期待はせずに、でも、エキサイトさせてくれることには期待しながら、半年間楽しみたいと思います。

せっかく大阪でやるのに、見に行けないのが残念ですが、ナゴヤドームには足を運びたいもの。

名古屋の仕事が増えますように。

さぁ、帰ろ。

川田順造2014『<運ぶヒト>の人類学』岩波書店

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川田順造先生の最新作。今年で80歳になられるとは思えぬこの精力的な執筆欲…本当に感心しきりである。
書評などはできないし、多くの学ぶべきことがあるのだが、簡単にこの本のあらすじを意識しつつ、メモをつけておきたい。最後の部分は、結論じみたものはそれほど強く出されておらず、少々尻切れトンボのような印象を受けた。しかし、「運ぶ」ということを通しての人類史を書かれたかったと解釈して、「運ぶこと」を通しての照射できる現代社会のありよう、というところを主張されているのではないかと推察する(間違ってるかもしれないですが)。
そんなわけで、以下メモと目次を載せておきます。

+++++++Note+++++++++++++

ヒトが直立二足歩行するようになって得られたもの
①大きな脳を支えることが可能になった
②口腔の構音器官が多様化して分節された発音が可能になったこと
③直立した歩行と、自由になった前肢とによって、相当の嵩と重さのものを、長い距離運べるようになった(ホモ・ポルターンス)

◇研究の方法
できるだけ異なって見える文化を三つ選んで比較するやりかた(文化の三角測量)
①歴史上関係があったことが明らかな文化を比較する
②地理的にも文化的にも著しくへだたり、相互に直接の影響関係がまったく、あるいはほとんどなかったような三つの文化を比較する

②のやり方を使って比較研究の事例を提示
-労働に対する考え方を、フランス、日本、モシ社会の労働を慰労する言葉から考える。
-女性の自己主張の強さを、親族システムから考える。
-道具も三角測量によって比較が可能
⇒こうした方法論を「身体技法」としての運び方に援用していく。

◇「身体技法」としての運び方
先行研究:モースの「身体技法」、ボアズの「運動習慣」(川田氏自身はボアズに近いと述べる)

「地域の文化に条件づけられた身体の使い方である身体技法」
「生きる営み全般にわたってほとんど意識されずに日々くりかえされている身体の使い方が…個人を超えてある範囲の人々に共有されている「おこない」を、成り立たせている」
「個人の身体の使い方は…意識するにせよしないにせよ、条件づけられていて、ある身体技法を生んでいる。」
「社会と個人は、身体技法の集合である「おこない」を媒介として、だが一方が常に他方を規定しているのではなく、互いのはたらきかけのうちに、かか…

ホームページ仮オープン

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ホームページ「SHIMIZU Takao's page」を仮オープンしました。

基本的に仕事用で、今の職場の契約が切れたあとも使えるように、業績リストと少しずつ業績の一部を公開する場として使っていきます。このブログもリンクを貼ってあります。

そして、たいして上手くない写真も少し上げてみようと思います(こちらは現在セレクト中)ので、見に来ていただけるとうれしいです。

"The Thomas Sankara The Upright man" 2006, Director: Robin Shuffield (映画)

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ずいぶん前に買ったDVDなのだけど、今書いている原稿に役立つだろうと思って、朝から視聴。

そういえば、サンカラ元大統領の声をしっかり聴いたのははじめてかもしれない、と思って、彼の声に耳をそばだてたのだけど、う~ん…普通だ…ゆっくり、はっきりしゃべるので、彼の演説はとても聞きやすかっただろうなとか、コミュニケーションをとる風景では、サンカラの話しかけ方もブルキナでよく見かけるような光景だなとか。今でもブルキナベが彼に共感するのは、彼が意外に普通なこと、そんな感覚を常に持ち続けた、「近い」大統領だったからなんだろう、と思った。

ともあれ、このDVDで紹介されている、サンカラの功績は
・女性の権利の向上
・パブリック・ヘルスの整備
・線路や道路など、インフラの整備
・内需拡大を狙った経済政策
・国民の政治への組み込み(民衆を軍事訓練に参加させた)
などなど。

サンカラに一貫していたのは、帝国主義、植民地主義に抵抗していくことで、それを国民の生活レベルで実践することを求めていったことだろう。フランスが彼を消そうとしたのは、ただ鬱陶しいハエを追い払うためではなく、彼がフランスのアフリカ支配の戦略の核心を突いていたからだろう。コンパオレ前大統領も多くの功績を残した立派な大統領だと思うが、なぜ、サンカラが神格化され続けるのか。それは、自分の思いを国民に、愚直なまでにダイレクトに伝え続けたからではなかったか。

などなど、こんなことを思った。英語のサブタイトルも着いていて、親切なDVDです。まま、お勧めです。


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フィールドぶらり1「岐阜」

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(關野さんのFacebookより拝借)
職場の研究員8人とこんな本をだしました。一応、ISBNなんかもついていて、期せずしてちゃんとした出版になりました。

内容はといえば、先日、記事12で紹介した岐阜での合宿の時に行った座談会をまとめたものです。僕の発言自体は結構適当だったように記憶していたのですが、何とかその後の校正の時に軌道修正して何とかみられるようになった。

僕はこの集まりで、こういう緩くディスカッションできる場を「タスク化してはいけない」と言い続けていたのだけど、このブックレットに関してはコンダクトしてくれた三村さんに感服。本当によくできています。相変わらず、これをタスク化していくことには少々懐疑的であり続けるのだけど、この手のブックレットが10冊、20冊と溜まっていったとき、かなり面白い資料になりそうだ。やっぱりタスクになっちゃうかな…



ドラゴンズ2015開幕直前 発想を転換してみては?

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野球好きにとってはそろそろ落ち着かなくなる季節。冬眠していた熱いハートがむくむくと…

しかし、今年のドラゴンズ、ほとんどの解説者が最下位予想。いちファンとしても、「優勝、いけるっしょ!」とは全くいえない。もう何年も言われているけど、今年も同じようなメンバーで行きそうな気がするからだ。確かに、これらの選手は実績もあって、すばらしい選手ばかりなのだけど、如何せん、「未来」への希望が見えない。去年は何とか平田選手あたりが芽を出し始めたが、それ以外は、若手の伸び悩み、首脳陣の勝ちへのプレッシャーから新たに意図的に使われた若手というのはほとんどいなかった(野手では)。まあ、多分投手は今年もそれほど問題ではない。去年よりも明らかに上積みがある。

各メディアの報道で、ドラゴンズの若手で最もよく出てきている野手は高橋周平、福田永将の2選手だろう。高橋周平選手は始めて生で見たときに、森野のようなシャープで強いスイングに「これは!」と思ったし、福田選手は打棒が評価されてはいたものの、如何せん守るところがなかった。しかし、今年の開幕直前で言えば、この二人に活躍してもらわねば今年のみならず来年以降もドラゴンズの上昇はありえない。

高橋周平選手 http://npb-news.blog.jp/archives/22751518.html
福田永将選手 http://dragons-official.at.webry.info/201402/article_21.html
そこで、なのだが、この二人を将来的に中心選手に育て上げるため、今のレギュラーをこの2人と平田、大島あたりを中心に組んでみてはどうか、と思う。ベテランはそこをサポートするような布陣とするのだ。去年の平田の使い方もいまいち覚悟を決めて使っていたようには思えないから、もう少し粘り強く。ファンがこんなことを言ったらどうしようもないけど、今のベテラン勢、荒木、森野、和田あたりはやはり衰えを隠せない。それぞれのキャリアハイは正に福田や平田くらいの年齢のときに出てきているし、それは、経験と体力がピークにあるこの世代だからこそ出てくるものでもあるように思う。彼らの成績に近いものは、福田や平田あたりは達成できるのではないだろうか。
特に、内野手のこの2人を出すためには、おそらく荒木のポジションがネックだ。荒木がショートを守れれば、セカンドや…

POPAFRICA再び@一橋大学

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2008年以来7年ごしで2回目のPOPAFRICAが開催されるそうです。いや、それにしてもすごいメンバーだ。

今回は、岡崎彰先生の退官記念も兼ねるそうです。

全部は出られないですが、少しでも伺おうかと思っています。

とりあえず宣伝。


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第15回アフリカ教育研究フォーラム 発表要旨

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先日アップした「アフリカ教育研究フォーラム」@広島のアブストラクト。まだ正式に要旨集は出ていませんが、まあ自分の分だけなので。

最後の段落が取ってつけた感じがしてしまうのですが、まあ、まだまとまってないと言うこと。今回は、主に文献研究で問題点の洗い出しをすることが目的なので、当日まで粘ってできるだけクリアな問題意識を作っていくことにする。

金曜日、日曜日と今回使えそうな文献を集めたけど、思いのほかたくさんあって、逆にびっくり。少し読み直したりしたら、(簡単には目を通しているはずなのに)知らなかった箇所も多かった。研究と言うのは、こういうことの繰り返し。そして、できるだけ多く人様の目に触れるような、少し緊張感をもたねばならないところで発表することも大切。そのたびに資料や自分の知識を精査していくことで自分の研究も研ぎ澄まされていく…というごくごく当たり前のことを再認識したのでした。

今回は、アフリカの宗教(イスラーム)学校を「ライシテ」の話から切り込めるようにすることが目標。今まで、なんとなく、フィールドワークで得られた生活の中の伝統教育の重要性を語ってきたけど、こういう国民国家や共和制と宗教という関係性をなしには、どうも議論がぼんやりしてしまう。この辺を少しクリアに語れるようになりたいと思っています。

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西アフリカ・イスラーム圏におけるフランコ・アラブ学校についての予備的考察」

西アフリカは内陸部を中心として、19世紀のフルベのジハードが起こった時代に広くイスラーム化が完了し、現在に至るまでイスラームの宗教的な存在感は諸社会に高まりを見せている。発表者はこれまでの発表において、西アフリカにおいてインフォーマルな教育機関としての役割を担ったクルアーン学校の伝統教育的諸相や村落部における社会生活に埋め込まれた様子を明らかにしてきた( [第11回~第14回] AERF発表資料参照)。一方でこれらの地域の国家レベルに目を向けると、西アフリカ諸国家がフランスを模した「建前上」の共和制をとっている。共和制をとることは、すなわち、ライシテ[1])を原則とすることは、教育制度においては宗教を教育内容に含めないことを原則とする…

今更ながら挑戦しようと思います

今のプロジェクトも残り2年。先日自分の実績をまとめていて、自分の実績(大したものはないのだけど)をちゃんと公表してくれている、そういうシステムを用意してくれているので、ずいぶん助かっているな、ということを思った。

のだけど、あと2年したら、こういうサービスも基本的に受けられなくなる。う~ん。

もちろん、このブログもあるので、適当にやればいいのだけど、すでにタグはやたら多いし、実績は見にくいし。いろいろと不満もある。そこで、この際ということで、自分のHPを作ろうと思い立って、少しずつ構築を始めている。Facebook、Twitter、Blogとどうやってリンクさせていくか、とか、更新の頻度とか、考えないといけないことも多いな。

今年に入ってから、これは秘密だけど、イラストレーターも勉強し始め、ホームページが作れれば、今までのITリタレシーの低さを克服できるだろうか。

第15回アフリカ教育研究フォーラム@広島大学

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(https://sites.google.com/site/aerf1960/home)
またこちらのフォーラムで発表します。まだHPにはアップされていませんが、日程は4月10日(金)、11日(土)で、場所は広島大学。

学会は、初日の一番最初のコマがいいのです。発表が終わってしまえば、ほかの発表も集中できるし、懇親会もたっぷり楽しめるので。今回はその一番最初のコマで割とテンションがあがります。
発表タイトルは「西アフリカ・イスラーム圏におけるフランコ・アラブ学校についての予備的考察」で、短めの10分発表です。

アブストラクトが明後日締め切り。まだ読もうと思っていた資料の読み込みをしていないので、これから急いでやります。また学会直前にアップしましょう。


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2014年度の業績と2015年の展望

もう3日もブログをあげていなかった。なんもしていなかったわけでなくて、適当に忙しくしてました。

遅れに遅れている原稿を頑張っているのと、2015年度に向けた体制作りをしているのだけど、まあ、まずは恥(今年度の仕事)をさらしておくべきだろう、ということで2014年度の振り返り。

なにはともあれ、論文が「0」というまず酷い話がある。出した原稿がすべて2015年度にずれ込んだ、ということなんだけど、学会誌に投稿するはずだった原稿も間に合わず…これは激しく恥ずかしい。今、正に2,3本の見えている原稿に取り組んでいますが、これがなかなか大変。そんなこと行ってられないのですが。

今年度は4度の海外渡航があり、セネガル、カメルーンで成果発表をしました。ほかに、アフリカ教育研究フォーラムの大会委員長を務めました。あと前期は愛知県立大学での非常勤などもありました。かなり働いた実感はありますが、やはりペーパーがないので、今年度はダメです。

来年度はペーパーのラッシュにします。予定の方にも海外渡航を最低限にして(それでも、なんやかんや3回は渡航しますが)、デスクで落ち着いて仕事をすることに集中したいと思います。今書いているブルキナファソの政変に関するもの、篤農家の論文を4月頭までに、その後は、学会で何度か発表したストリート・チルドレンの統計調査の成果報告、あとは、眠っているストリート・チルドレンの論考をもう一本出し切る、これはマストの仕事なので、公表して、自分にプレッシャーをかけます。

一応、2014年の実績一覧は以下の通り。(通算の実績は、地球研のホームページ参照。http://archives.chikyu.ac.jp/archives/AnnualReport/Viewer.do?prkbn=R&jekbn=J&id=482)

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【口頭発表】
・Takao SHIMIZU, Ueru TANAKA and Hiroshi NAKAMURA The technology co-designed with 'Studying Farmers (Tokuno-ka 篤農家) in Burkina Faso and Niger . Joint seminar on …

ブルキナファソの政変②-b デモ行進当日

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この記事もずいぶん遅くなってしまった。2か月くらい前にメモをつけはじめて、途中に再度調査をはさんだのだけど、先日の調査では革命成立の高揚感はすでに過去のモノ。こういう仕事、集中して早いところ済ませないと、と思った次第。しかし過ぎた時間は取り戻せないので、とにかく少しずつでも書いていきます。

今回は、デモ行進当日です。12月の調査の際には、すでにいくつもの媒体がこの当時の様子を時系列的に伝えており、聞き取りをしなくてもかなりの情報量があります。ただ、今回は主にJeune Afriqueの記事を元に書きます。

10月28日(火)
8:00 第2の都市、ボボ・ディウラッソで反対派の呼びかけにより数千人規模のデモが起こる。(前日27日夕方、すでに一部の若者たちが街中の商人、労働者に対してデモのことを喧伝していた)。M21運動、Balai citoyen、UPC、MPPと言ったNGOは反対派の動員数の優位性を発表。
(http://burkina24.com/2014/10/28/bobo-une-maree-humaine-contre-la-modificaation-de-la-constitution-burkinabe, 2015年1月5日閲覧)

10月29日(水)

(http://burkina24.com/2014/10/29/)

9:00
ブルキナファソ各地で多くのデモ隊が議決回避を求めて出動。しかし、その多くは非武装。ボボ・ディウラッソでは2000人ほどの市民が出動。
Jeune Afrique (http://www.jeuneafrique.com/Articleimp_JA2809p020.xml0_burkina-le-r-cit-de-la-chute-de-compaor-heure-par-heure.html, 2014年12月30日閲覧)

15:30
コンパオレ大統領はフランス、アメリカ、EUからの退任勧告をKosyam(大統領官邸)で受け取る。その間にBalai citoyen(市民団体)を中心に市民反乱がそれぞれの街区で組織され、夕方には、Place de Nationを埋め始める。また野党連合が権力奪還のための会合を行う。さらに、5500人の若者たちと2011年(騒乱の際)に軍隊を退役した元軍人たちを雇い入れる。人によっては、25,0…

曾野綾子さんのコラムとその反応:「差別」の構造を考える

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2月11日の産経新聞に曾野綾子さんが書いたコラムが話題を呼んでいる。曾野氏のコラムを要約すると、バイアスがかかるので、上の記事をご覧いただくとして、抗議は「アパルトヘイトを擁護、日本にも導入しようとしている」というもの。
昨日(3月6日)付けの産経新聞にもペコ南ア大使のコメントとして、
「 また、ペコ大使と編集幹部らとの面談の席でも同様の内容を伝え、大使からは 「日本国内で移民の論議が行われるのは大切ですが、南アの悪い過去 が、例として使われたので、発言せざるを得ませんでした。ただ、今回のことは日本と南
アが理解しあうためのよい機会となります。これをきっかけに 両国の理解を深
めていきたい」という話がありました。」

こんな文章が載っている。ここで、「日本国内の移民の議論」が曾野さんの論点だとしたら、それを説明しようと考えて提示した事例がまずかった。都市ではいわゆる「ジェントリフィケイション」という現象(貧困層が住むエリアに富裕層が流入してそこに貧困層が住めなくなってしまう現象)が起きて、階層による棲み分けがおこることはよく知られている。やはり人為的に、肌の色と習慣を結びつけた時点で、アウトなのである。
特に検討はしないが、このコラムに対しては、アフリカ学会やNGOから抗議文が寄せられ、掲載元の産経新聞は対応に追われている。


僕もFacebookにちょろっと記事を挙げたりコメントをしたのだけど、「産経(保守)だから…」とか「曾根(保守)だから…」という、産経、曾根さんのみならず、僕まで暗に反保守的な枠組みに当てはめようとするレスが多かった。自分自身が保守であるか、進歩的(保守の反対はこれでいいのか?)なのかどうか、僕自身、よくわからないのだけど、少なくとも、この枠組みは好きではない。仲間意識をもってくれるのはいいのだが、この枠組みを取ってくる時点で僕とは全く相いれない。

そもそも、アパルトヘイトの原点には、肌の白い植民者と未開なアフリカの黒人という存在の二項対立があった。ナチスもユダヤ人という仮想敵を設定して、二項対立をつくりだし、戦後のアメリカも時に対イスラームという図式をつくりだすことで、罪もない人びとを被害者にしてしまった。こうした誰でも知っている歴史と、保守と反保守、という図式は、僕にはどこか似たものを感じさせてしまう。だから、僕は、産経新聞が議論のアリーナを築…

田中直2012『適正技術と代替社会-インドネシアでの実践から-』岩波書店

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この本は今のプロジェクトの仕事に役に立つだろうと思って購入した。

「適正技術」というのは、シューマッハの『スモール・イズ・ビューティフル』に出てくる「中間技術」の概念を発展的に特に途上国開発の文脈で作られた用語だ。つまり、いわゆる「ハイテク」は途上国では維持管理できないから、もっと易しくて安価な技術を用いてそれに代替するような効果を狙おう、という理解でいいと思う。

この本、もっと技術屋がしたり顔で語り出すのかと思いきや、「はじめに」で上のような「適正技術」
論を批判的に切り出すではないですか。うれしい驚きの気持ちを持ちつつ本を読み進めることができた。そして、剋目すべきは、適正技術を、近代科学批判、田中さんが用いた例を簡単に示せば、「公害や再生不可能な資源の浪費、人間疎外などの、近代科学技術がもたらしたさまざまな問題」を解決するための分析概念として捉えていたことだ。この本は、この「適正技術」の二重性を、ご自身のインドネシアでのバイオガス工場の事例と絡めつつ解きほぐすという書き方をしている。

そして、本書の面白さは、田中さんの経歴も大きく影響する。企業、NGO、(おそらく理系サイエンティスト)としての視座が交差しながら話が進む。勝手に読み込んでしまえば、経済性(企業の経験)、理想(NGO)、合理性(サイエンティスト)という側面をもっていることになり、読んでいて、援助系の本でよくあるような青臭く浮ついたところがない。

もし援助関係の分野に進みたい、という大学生がいれば、本書はお勧めしたい。


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今村仁司1996『群衆-モンスターの誕生』筑摩書房

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僕は修士論文で「ワガドゥグのラスタマン」について書いたのだけど、実は論理的な背景に「社会運動論」を使った。サブカルや若者論というよりも、どちらかと言うと、何が人と人を結び付けているのか、というところに興味があったからだ。たぶんNGOでの経験も大きくこの問題意識に強く結びついていて、なぜ人がある共通の趣向を持ち、同じ方向に動くことに同意するのだろう、NGOの場合、何が共有されているのだろう、ということをいつも考えていた気がする。

今村仁司さんのこの本の最初に「近代の歴史は、とりわけ19世紀以降の歴史は、群衆の歴史と言っても言い過ぎではない」と述べるが、今村さんが指摘するように、カネッティ、タルド、さらにマルクス、ニーチェなどに至るまで、確かに、得体の知れない人の集合を扱っている。きっと僕が扱っていたようなローカルだけどグローバルな運動体も、現代的な意味では群衆のひとつのあり方なのだろうと思った。

この本では、カネッティを引いて、迫害群衆、逃走群衆、禁止群衆、顚覆群衆、祝祭群衆という5つの群衆のモデルを用いて、その後の群衆の捉えられ方を考えていくのだが、共通認識はどのように醸成されるのか、というプロセスの話が少々乏しいように感じた。カネッティを未読なので、ここは要勉強なのだけど。

マルクスやニーチェのくだりもとても示唆に富んでいる。経済学や哲学の巨人の目の先にあるものが、群衆であり、これをいかに制御するか、また、統治するか、処遇するか、ということが近代の最大の課題であったこと、実に目からうろこ。そう読まねばならなかったか、と思わされた。

きっと、僕が見てきたラスタマンは群衆には当てはまらないだろう。ただ、今、書いているブルキナファソの政変のときの市民蜂起は間違いなく、群衆の仕業だ。さすがにこれを組み込む時間はないが、今後のためにも少しずつ勉強したい領域だ。

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【目次】
プロローグ 群衆への問い
第1部 群衆の本質
1 群衆への視点
2 群衆一般
3 群衆の累計
4 近代の群衆
5 都市と群衆
6 群衆と理性
第2部 群衆の分析
1 恐怖と魅惑-『フランケンシュタイン』
2 多数者の専制


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岐阜合宿(20150114-15)② 山川醸造

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あぁ、なんかずいぶん時間が経ってしまった…下書きにずっとあったのだけど、なんか手がつかず放置してしまったのだけど、早いところ書いてしまわねば忘れてしまいそうなので、午後の仕事を始める前に書いてしまうことにしよう。
岐阜合宿の初日のメインイベント(と僕は思ってる)は山川醸造訪問。「ん?醤油?味噌でなくて?」と少し不思議な感じをもちながらだったのですが。
そして、醸造所は意外に街の中にある。でも、近づくとほんのりと漂う醤油の香り。


こんな店構え。道をはさんで工場がある。中は↓こんな風景で、多くの醤油樽が並んでいる。


社長の山川晃生さんからしょうゆのレクチャーを受ける。以下、その時にとったメモです。

◇日本のしょうゆの8割がたが「こいくち」。野田(キッコーマンがありますね)が有名。「こいくち」以外に「うすくち」(タツノ)、たまり(東海地方)、白しょうゆ(碧南)、再仕込み(山口、麹をしょうゆにつけたもの)などの種類がある。意外だったのが、東海地方でより多くのしょうゆがある、ということでした。

◇しょうゆの香りには、300種類ほどある。

◇「しょうゆ」は大豆から、というのは有名ですが、そのほかに小麦が主な原料。原料に大豆が多いほどに色が濃くなる。よく、関西人が関東のそばつゆの色が濃くて文句を言うが、それが色の問題としたら、それは間違い。関西でよく使う「うすくち」が塩分が薄いわけではなく、原料に小麦が多いから。山川さん曰く、「うすくちの方がむしろ塩分が強い」とのこと。東海地方生まれ、関東育ちの僕としては少し勝ち誇った気分になる。

◇上の写真のような「木桶」は現在では作成が難しくなっている。以前は、酒樽をしょうゆ、みそ工場が貰い受け、さらに、最後は漬物を漬ける桶になったそうで、日本酒を金属の樽でつけるようになり、樽の業者が激減、現在は作れる人が非常にすくなくなったといいます。日本酒が金属樽になったのは、酒税法の問題。つまり、酒を仕込んだ時の量に対して税金がかかり、目減りする木樽は損をすること。もう一つは衛星管理が難しいという問題もあるのだそうな。山川さんのところで使用している樽は杉材で、戦前から100年ほど前のものが多いそうで、樽の寿命は200年ほどとか。タイムスパンの長いことに驚きました。

◇しょうゆ会社は現在全国で1300社ほど(うち自社製造しているのは400~500社)…

保坂俊司2006『宗教の経済思想』光文社

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2010年ころから「宗教組織の経営」という研究会に参加している。最初は、藏本龍介さん、中尾世治さんと3人で南山大学や名古屋大学の一角で細々とやっていたのだが、昨年からメンバーを増やして、さらに少しおカネのめどが立ったので、「研究会」として堂々としたものになった。この間、藏本さんはミャンマーの僧院の経営をテーマとした博論を書き、『世俗を生きる出家者たち 上座仏教とミャンマー社会における出家生活の民族誌』という著作を出された。研究会は今年も続ける予定で、僕自身も少しずつ勉強している。

そんなわけで、「宗教」、「経済」といったキーワードを持つ本はなるべく目を通すようにしていて、この本はそんな中の一冊。構成上、とても興味深かったのは、所謂三大宗教それぞれの経済思想を比較(羅列)しようとしているところだ。ただ、これはこのような小さな本ではなかなか難しかったことが想像される。

特にイスラームの箇所は、労働や勤労には多少言及されているものの、経済思想と銘打つほどの記述はない。タウヒード(聖俗一元)というキーワードが出てくるのだが、タウヒードがどんなものかはあまり説明されていない。そもそもタウヒードは「聖俗一元」という訳出しでいいのだろうか…「神の唯一性」とか、訳すのだと思うのだけど。

タウヒードからイスラームの労働観に話が移るのだけど、「イスラームにおいては、同じセム系の伝統を持ったキリスト教の中から生まれた、近代ヨーロッパ(キリスト教)文明におけるような一種の宗教的な救済行に労働が代替されるというようなことはない。つまり、ルターやカルヴァンの労働(職業)観のように、世俗的な労働を宗教的に価値づけるという積極的な意味づけは行っていない」(64)とする。これも少々怪しい。イスラームが労働を伴わない蓄財を禁じていることは有名で、イスラーム銀行が利子をとらないこともよく知られている。確かに、経済が宗教に優先することはない(他の宗教でもあるか?)が、つまり、勤労意識はある程度宗教的に規定されているのだと思うのだが。

自らの浅学をさらしているようで怖いのだが、イスラームのところが本当によくわからん。筆者がイスラーム関係の著作も多い保坂先生なのに…

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【目次】
はじ…

『もうひとりの息子』

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帰国後2日目で映画…時差ボケで爆睡…わかりやすい成り行きだけど、敢えて挑戦。昨日はこの映画を見るために民博に行ってきました。

鈴木紀さん、菅瀬晶子さんの解説付き。映画の舞台となる地域の専門家を解説につける、というのは民博ならでは。とてもいい企画だと思う。

一昨年、福山雅治主演の『そして父となる』という映画があった。子どもを取り違えて、生物学上の両親の元に戻そうとするが…という内容でこの作品と背景が似ている。しかし、この『もうひとりの息子』は同じく病院で取り違えが起こるが、その背景は、さらに複雑だ。それは、パレスチナ、イスラエルという、20世紀から21世紀にかけての世界的な政治問題を背負う。生物学上の親と育ての親、生まれと同等かそれ以上に育ての親の価値が強調される、言い換えれば、人間の人格が後天的につくられていく、という原則は両作に共通している。これは一つ面白いところで、どこか、人間の天賦の才を認めることを忌避しているような…

ただ、この作品は、どちらかといえば、パレスチナ-イスラエルの関係の方により重きが置かれているように見えた。上のような親子関係の話だけであれば、実に平板な面白くない話、ともいえるが…ユダヤ教とイスラーム、聖典の民であるにも拘わらず、この地域においては、特に激しく忌避し合う。宗教、歴史を乗り越えるのか、このあたりでは怪しい枠組みになってしまう国民国家のレベルで考えるのは難しい。ただ、それが個人のレベルだったら…というと、これは菅瀬さんも指摘していたように、実はこれも難しいのではないか、と思う。周囲との関係性や習慣の違い、さらにこの作品では、フランス語話者であるという奇妙な共通性があるのだが、こうした偶然がなければ、もっと難しい話となっただろう。

その他、フランス系のユダヤ人が数多くイスラエルに帰還している、ということやら、近々のイスラエル状況も興味深かった。