2018年7月7日土曜日

あるNGOを辞めた話

3月に前職を退職し、4月から「無職」状態となったので、いろいろな会員ステイタスを整理することにした。学会もなんだかんだと6つも入っていたし、NGOも3団体に加入していた。これだけでも年間10万円近い会費を払っていたことになる。

多くは幽霊になっておいて、おカネが払えるようになったらまとめて…という作戦に出たが、一つのNGOに関しては積極的に辞めることにした。10年以上会費を払い続けた団体をなぜ辞めることにしたのか。もちろん、経済的にきつくなってきた、というのが大きくて、ほかにもいくつも理由があるのだが、それらを全体的に言えば、会の方針に納得がいかなかったためだ。NGOは、ともすれば素人に毛が生えた程度の設立者が自己顕示欲をむき出しにした独善的な組織になりやすいが、このNGOは多くの研究者を巻き込み、客観的な問題理解を目指していた。活発に活動も展開していた。

この会を辞めることを考え始めたのは2年前。すでに、関東を離れ、10年ほどが過ぎ、関東にいたころのようにNGO活動に関われなくなりずいぶん時間が過ぎていた。総会すら参加できず、とりあえずおカネを払い続ける、という状態が続いていたが、この会のリーダーだった方との個人的なご縁から、そのままにしておいた。しかし、そのリーダーが交代することとなり、少し僕の気分にも変化が生まれた。

昨年、会費の請求のメールをいただいた時に、「会費を払い続けるか悩んでいる」ということを、その理由を含めて書いて新しい事務局長宛てに送った。そこには「お返事無用」と付け加えておいた。何を書いたかと言えば、関東を離れてしまうとただただおカネを払い続けているだけになってしまうから、地方での活動を活発化させてほしい、ということ、このNGOの性質として特定の一分野に特化するのではなく、もっとオーガナイザー的な活動を強化すべきではないか、ということなどである。

「お返事無用」ということで、意見への回答はなかったが、とりあえず昨年は会費を納め、何か変わるかと思って会報誌などを眺めていたが、残念ながら、それらしい節は見当たらなかった。広島で何かある、ということもなかったし、それの呼びかけもなく、活動の見直しもない、総会もやはり委任状と報告が送られてくるだけ。従来の活動は活発だったようだが、オーガナイザーとしての役割を強化したようにも見えなかった。そういうことが総会の議題にあがったかもしれない、と思えるフレーズはあったが、それがどんな風に扱われたことかは全く分からない。

確か400人近い会員を抱えているはずのこのNGO。一人くらい減ったところで会費収入としてはなんでもないのだろう。だから、というわけではないが、この団体の顔も見えなくなり、話もできないことに強い寂寥感を持ち、なけなしの1万円を払う気力は完全に失せた。そして、唯一個人的にこのNGOとやり取りをする会費請求のメールを今年も受け取り、退会の意思を伝えた。ここで書いたことは一切書かず、おカネが厳しい、ということだけを書いた。返事には「長い間お世話になりました」というお礼が書かれていた。

辞めてしまうと、当然のことながらメーリングリストも会報も手元に届かなくなる。縁のある方はいるが、日常的にやり取りをするわけでもなく、せいぜい学会で数分間挨拶をする程度。つまり、このNGOのことを知る手段はほぼ失われたことになる。あぁ、こうして大学生たちはNGOから遠ざかっていったのだな、ということを実感した。

【参考】
NGO とは何ですか。」
貧困、飢餓、環境など、世界的な問題に対して、政府や国際機関とは違う”民間”の立場から、国境や民族、宗教の壁を越え、利益を目的とせずにこれらの問題に取り組む団体のことです。
NGO(エヌ・ジー・オー)とは、英語の Non-governmental Organization の頭文字を取った略称で、日本では「非政府組織」と訳されています。 NGO という用語は国連の経済社会理事会から生まれてきたという背景があり、各国政府代表者と区別する意味で、「 Non-governmental (政府でない)」が使われました。
NGO には、途上国の貧困問題に取り組む国際協力 NGO や地球環境問題に取り組む環境 NGO 、他にも平和協力や人権問題に関わる NGO など関わる問題ごとに役割が異なります。
NGOとは、Non Governmental Organization(非政府組織)の略です。
もともとは国際連合が国際会議に出席する政府以外の民間団体を指す用語として使い始めました。 この中には営利団体(企業など)と政治団体(政党など)を除いた様々な民間の非営利団体 (経営者団体、宗教団体、消費者団体、女性団体、労働組合、協同組合など)が含まれています。
今日では、もっと幅広く、地球的規模の課題(開発・環境・人権・平和など)を解決するために 非政府かつ非営利の立場で活動している団体を指して用いられています。 これらの団体を宗教団体や消費者団体など他の非政府組織と区別して「国際協力NGO」と呼びます。

オウム事件の終結と日本社会-1


7月6日、前日から西日本を襲った雨の中を朝から名古屋から京都へと移動していた。スマホでTwitterを見ていると、そこには京都市内を流れる河川の増水の様子や大雨の様子に増して、麻原彰晃以下6名のオウム真理教幹部らの死刑執行「予告」のツイートで溢れていた。1995年の地下鉄サリン事件から23年。とうとうこの事件も歴史の一ページに落とし込まれた瞬間だった。

ツイートを見ていると、死刑が「執行された」という報告を受けているわけではなく、あくまで「これから執行されます」という「予告」であったこと、何かの間違いではないかと疑ったが、何人もの人がこれに違和感を表明していた。

どこかで書いたような気がするが、1995年3月20日の朝、僕は馬喰町に向かっていた。ようやく大学が決まり、一人暮らしをするための調理器具を買うためだった。とりあえず行先が決まった安ど感、でも行きたいところではなかった若干の寂寥感もあり、浮足立っているわけではなかった。馬喰町の駅を出ると、遠くで聞こえるサイレン。特に気にすることもなく、待ち合わせていた友人と会い、馬喰町で買い物をした。携帯がようやく出始めたころのこと、高校生風情ではそんなものは持っていない。飯でも食べたのだろうと思うが、少し遅い時間に帰宅すると、母が血相を変えて「無事でよかった」と。何のことやらわからず、テレビに目をやると、例の光景が目の前に広がった。

そして、真相が明らかになり、上九一色村のサティアンが解体され、麻原彰晃以下の幹部が逮捕され、オウム真理教自体もいったん解体された。多くの人が殺され、傷ついた。テロやカルトと言った、ずいぶん上の方で語られていた言葉が急に身近になり、「平和」とは何か、ということが一般的な会話の中に入り込み、時に、それはヒステリックに語られさえするようになった。

森達也さんの「A」、「A2」などのドキュメンタリーを見たり、テロやカルトについての理解を深めようとした。世の中が1995年3月20日に起こったことを理解できずに、もがいていたような時代だったのかもしれない。その年は1月に阪神淡路大震災があったこともあり、入った大学の中でも、知識人たちが様々なシンポジウムを開き、学生たちもとても熱心にそうした催しものに参加していた。その雰囲気は、68年の安保闘争などの時のような熱気だったのではないかと想像する。そして、僕もそういう空気に飲み込まれ、若干オウム真理教や宗教というものに対する危うさや信仰の原理、そして、「一般市民」と信者の違いというところに関心を持つようになった。

事件も終盤を迎えることになった(であろう)昨日。上に貼り付けたツイートを見て、まったく違うオウムの姿を思い出した。麻原彰晃氏は確かにコメディアンたちとテレビに出ていて、ちょっと理解できないことを口走り、コメディアンたちはそれを面白おかしく伝えていたし、そうした雰囲気が手伝って、高校の友人たちと新宿西口で選挙活動をしていたオウム真理教の麻原彰晃人形にいたずらをしに行ったこともあった。そんなことをしても許される人たちに見えていたのである。こういうことをすっかり忘れてしまっていた。

高度経済成長からバブル時代にかけての右肩上がりの世の中が停止し、日本社会のモードが変わり始めた1995年は間違いなくエポックメイキングな年代だ。時代のひずみが生じ、そこに落ち込んだ人たちの象徴としてのオウム真理教、抑圧へのルサンチマンが生み出した一連のサリン事件…言っていることはわかるのだが、とすると、コメディアンと戯れ、政治の世界に打って出たのは、どんな風に理解すればよいのか。その時代にできたことは何だったのか。時代のモードが完全にシフトした現在、新自由主義的な風潮は間違いなく進み、プラグマティックな風潮はそうなってはいけない領域にも入り込んできている。そこにあるひずみは、1995年のときよりもさらに広く、深いものになっているような気がしないでもない。この時代の流れについていけない人は間違いなく少なくなく、ひずみに落ち込む者はより多いような気がする。道化師だった/を演じていたオウムの信者たちが社会に牙をむいたような出来事は、今、僕らがまったくわからないところで進行しているのかもしれない。



2018年6月26日火曜日

アフリカ学会⇒文化人類学会⇒30th Society for the Advancement of Socio-Economics

Dr.Ladoの発表

久しぶりの鞍馬山。大会の合間にちょっと気分転換

大変ご無沙汰してしまいました。2ヶ月放置です。

最後に更新してから、晴れて失業者として認定していただきました。ちゃんと就職活動も、就職するための業績づくりにも励んでいます。

毎年5-6個の学会に参加し、多い時には10近いところで発表してきたのですが、今年は思い切って絞り込み、3つ。文系の研究者としては、それでも多い感じがしますが、昨年上梓した本の出版記念の分科会発表、お世話になっている地球研関係の分科会発表、そして6月23日~25日に京都で開催されたSASEと、5月末から6月に隔週で開かれた学会ウィークは無事に終了しました。

簡単にタイトルだけ挙げておきます。
■アフリカ学会:「サハラ以南アフリカの人糞処理業者 の社会経済的役割の解明に向けた予 備的考察 ―ブルキナファソの事例より―」(中尾世治さんとの共同発表),フォーラム「「サハラ以南アフリカにおけるサニ テーション研究の現状と課題」( 代表者:山内太郎・中尾世治))
■文化人類学会:​​ネガティブな子ども像を超えて ブルキナファソの「ストリート・チルドレン」の事例を起点に」, 分科会「アフリカ子ども学と文化人類学」(代表者:亀井伸孝), 日本文化人類学会 第52回学術大会, 弘前大学 
■SASE:'The Process for Co-Created Technology for Combat Desertificationè Collavoration of Afriacan Farmers and Japanese Scientist'(田中樹さんと共同発表), Session: Global Reordering and New Model of Development. Perspectives from Asia and Africa Part2 (B-12)

始めてのネタあり、焼き直しのネタありで、まあまあ準備にも時間がかかったので、ここ1,2日は少しゆっくり目のスケジュールにて。

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2018年4月14日土曜日

長い時を経て

船橋東郵便局近くの桜並木
僕は7歳の時に父の転勤で三重県伊勢市から千葉県船橋市に移り住んだ。以来、高校を卒業し、予備校に通った20歳のころまで。その後も大学卒業からの4年間をすごしているので、合計すると17年ほどこの街に住んでいたことになる。そのあと、いくつかの街を転々として、今回13年ぶりにこの街に戻ってきた。

東京近郊のベッドタウンとして、人口減少時代の現在でもこの街の人口は増え続け、現在70万人に迫ろうとしているらしい。だけど、僕らが住む地区は、年寄の姿が目立ち、とてもこんな勢いのある場所には見えない。近くの商店街もずいぶん前にシャッター商店街になっているし、代わりにできたいくつかの小さなスーパーも高いうえに、それほど品物もよくなく、そして、僕がいたころからコンビニすらできては潰れる(その後の話では、近くの若干荒れた高校生が屯うので、小学校のPTAが閉店に追い込んだということ…)と言った状態で、そういう意味では、あまり生活しやすい街ではない。

都内の中高に通い、会社も都内だった僕にとっては、自分で行動するようになってからは寝るだけの街で、興味を持ってこの街を眺めたことはなかった。免許を持たない僕は、基本的に駅間を移動するだけだし、その駅の回りは歩いたことがあったが、街の中の風景は父の運転する車の助手席からだけ。加えて、中学校から都内に通い始めた僕は、地元の友達がいない。そのため、人とのご縁も非常に薄い。

約20年住んでいたものの、そんなわけだから、この街のこと、僕はほとんど知らない。こちらに移り住んで3週間。今まで東広島の田舎道しか走ってこなかった連れ合いに、道を覚えてもらうことも含め、週に何度かは車を走らせて東西南北に行ってみることにしている。すると、見たことのない景色、幹線道路から垣間見える街の発展の様子、様々なものことが目の前を過ぎ去る。薄れた記憶が蘇る、懐かしい、というよりも、また新たな街にやってきたような気分になっている。

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2018年4月8日日曜日

Bye Bye 広島


このトンネルを抜ければ岡山

年が明け、2月は逃げ去り、3月も半分を過ぎた。あまり何をやっていた、という実感もないまま、ぬるりと滑り落ちてしまったようなこの2か月半、敢えて思い出せば、ずいぶん長い間、本を整理しながら箱詰めをして、これまでに集めた資料をスキャンしていた。

貴一朗と最後の広島電車旅@三次
瀬戸大橋を渡る
3月16日に2年間住んだ官舎から荷物を搬出して、しばらく住所不定状態となった。連れ合いの仕事の都合で、2日間は西条駅近くのホテルで過ごし、千葉に向けて出発した。移動ルートは高松⇒徳島⇒東京というもの。義父の勧めもあり、徳島⇒東京はフェリーだ。フェリーのスケジュールの都合で高松で2泊し、官舎を出てから合計5日間の旅となった。節目としては若干冗長だったが、とても楽しい家族旅行になった。
香川では定番のうどんを。
都合2泊した香川では、うどんをすすり、高松市内を回り、連れ合いが留学時代に懇意にしていたムワンギ先生にも会った。自分の足で歩くことが好きな貴一朗を追いかけまわし、もちろん連れ合いと喧嘩したりもした。

徳島から乗ったフェリーが有明ふ頭に着岸する
気持ちはクサクサと荒み、縮こまっていたこの数か月間の滓が少しずつ落ち、いくつかのとても楽しかった思い出、新たにやってくる不安や古くて新しい環境になることへの期待…いろんなことが目くるめく風景の中で思い出された。
千葉の桜も美しい
いつもの年よりもずいぶん早く咲いた桜は、僕らを迎えるように千葉でもすぐに満開になった。去年、連れ合いと貴一朗と鏡山公園で見た桜もきれいだったけど、千葉の桜も負けていない。

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2018年3月5日月曜日

松坂大輔の生き方を重ねてみる:ご報告

ドラゴンズのことなんて何年かいていないだろう。広島にやってきて、そして、貴一朗が生まれてから、野球からはますます遠ざかり、たまに広島選があるときにテレビで見る程度で、普段はスマホでニュースを追いかける程度になってしまった。

例年、ペナントレースが始まる直前のこの時期は、希望的観測が飛び交い、「お!今年こそは!」と思うことしばしばで、ゲームが早く始まらないかと心浮き立つ時期だ。去年も高橋周平やら福田と言った、若いスラッガーたちが泥まみれになる姿が載った記事を見るに、その年の秋口の結果を想像したりもした。

僕は専門家でもないから、現実的に見たらどうなのか、ということはよくわからない。順位予想もそれほどよくなかったわけだし、シーズン中に覚醒した選手がそれほどいたわけではないので、まあ、そういう順位なのだろう。

これも例年思うことだが、今年は違う。1月に入団が決まった松坂大輔の存在である。各誌松坂のゲームそのものへの貢献よりも、チームに与える影響の大きさを報じ、なんだか僕もそんなことを感じている。感じさせられている、のかもしれないけど。

一時代を作った野球選手が、彼の最晩年を応援するドラゴンズで過ごしてくれるのは、ファンとしてはとてもうれしいことだ。そして、各誌がこぞって報じる松坂の一挙手一投足は、僕にとってもとても含蓄がある。

突然だが、あと10日ほどすると広島を後にすることになっている。このブログでも何度も「書く」と宣言した博論を書くためが第一、そして、もう一つ今の所属先には何の貢献もできなかったと評価されたことが第二の理由だ。かっこつけても仕方ないので、こう書いておく。

僕自身の研究者人生はこの後うまく行けば、あと現役時代は20年、そのあとも続けられるようであれば、25年かそこいらはあるだろう。でも、こんなことができるのは1年だけ。だから、松坂のようにあと1,2年、という感覚は今回はとてもよくわかる。

「周りにどう見られようが、どう思われようが、自分でまだやり切った悔いのない野球人生だったとは思えない。そう思えるようになるまでは、自分を信じて進んでいきたい」
(日刊スポーツ0302https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180301-00136701-nksports-base&pos=1)

僕はこの記事を読んだとき、たとえ僕の研究者人生があと1年しか残っていなくても、こんな気持ちなんだろうと思った。松坂を自己投影するのはおこがましいが、まだフィールドワークをやっていて、いつもワクワクするし、仲間から刺激をうけて頑張ろう、とも思える。論文を書いたり、学会で発表すれば、いつも反省や後悔ばかりが先に立つ。やり残したことも、やりたいことも山のようにあるのだ。

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2018年2月27日火曜日

「アフリカのストリートの子どもたち」@子ども大学横浜

アフリカも日本も子どもたちの写真を載せると問題なので私のもので失礼します
2月24日、「子ども大学横浜」で講義を行いました。

初めての小学生相手の講義(「大学」なので)で、資料の言葉遣いや文字数、すごく気を使ったつもりだったのだが、最初にできたものを見て愕然…

学会発表縮小版やないか!!

何度か推敲しても、やはりそれほど変わっていないように見えてしまう。味見をするなら3度まで、そのうち舌がバカになって、どの辺に合わせようとしたのかわからなくなってしまう(そんなようなものだ)。小学生がどれくらい話を理解してくれるのかがわからないのだから、あんまり考える材料もない。そもそも時間的にももうギリギリ。もうこれで行ってしまえ、と思って資料をお送りする。こんな経緯を経て、講義前に読み原稿も作ったのに、直前まで不安で不安で仕方がない。

とにかく、ポイントは①アフリカの子どもの生活について知り、関心を持ってもらうこと、②多様な側面から人を知ることが、人を理解する上で大切なこと、この2点を伝えることを考えて話をするようにした。もう一つ、テクストとお話しだけでは、宇宙や深海のこと(前の講義でこんなテーマのものもあった)よりもニュースが少ない西アフリカのこと。澤崎さんにブルキナファソで撮ってもらった映像を借り、ここ一番のスンバラのにおいを嗅がせる、と言った、ほかの感覚に訴えるような方法も使った。

蓋をあけてみると、ちゃんと話を聞いてくれて、中には前のめりになって聞いてくれている子も何人かいるほど。休憩時間に話をしにくる子もいて、質問もたくさん、しかも、大学生あたりよりもちゃんとした質問をしてくる。さらに、時間配分が、本当に珍しく完璧。そして、この「子ども大学横浜」のサポート体制も細部に気が利いた、快適な授業環境を作っていただけたことへの謝意も加えておきたい。

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