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ダイエットは失敗だったのか?

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  腰痛、肩こり。授業の時は歩き回るものの、座ってパソコンに向かっている時間の長い僕らの仕事の職業病のようなものですが、いよいよ50が見えてきた年齢的なものもあり、しばらくこれらの症状に見舞われてきました。 貴一朗が少し安定してきたこともあり、昨年4月に周囲に宣言をしたうえでダイエットを始めました。ブログを見ていたら、2009年に一度ダイエット宣言をしていた(すっかり忘却の彼方へ…)みたいなので、そもそも覚えていないのでこれは失敗。 今回は、自転車通勤、ジム、食事制限、食事の記録、と4つの要素を生活に取り入れました。元々体を動かすのは嫌いではないので、ジムは全く苦痛ではないのです。なので、入れるものを減らす、つまり、食欲を抑え込むのが一番の課題なわけです。で使ったのが、このアプリ。すべての食事を記入するので、ちょっと面倒。でも、いつでも「未来ちゃん」が励ましてくれたり、アドバイスをくれる(課金してしまった…)。ダイエットとはいえ、極度にカロリーを減らすとリバウンドしやすくなるとか、タンパク質をしっかり取らないと筋量が増えないから代謝が促進されないとか、非常に具体的な言葉で言われる。いや、申し訳ないけど、毎年の健康診断の医者のアドバイスよりはるかに具体性があり、せねばならないことが分かる。とにかく、毎食単位で調整ができるので、次の食事ももうひと踏ん張りとか、チートデーのコントロールなんかもしやすい。さらに、運動も入れられるので、いちいちメモしてみると、どれくらい運動しているのか、ということも分かる。 あすけんの回し者みたいになってしまいましたが、日記をつける習慣はないものの、フィールドワークで日々メモをとることを考えたら、だんだん面倒さは消えていきました。さらには、体重計に乗る習慣ができ、みるみる内に体重が減っていくのがわかると、やる気はずいぶん継続しました。結局、3か月で10㎏以上痩せられました(私の体重からすれば大した割合ではないのですが(笑))。 しかし、落とし穴は意外なところに。夏のセネガル→ブルキナ滞在の間はさすがに継続できず(メニューがない…)、ジムにも行けず、さらには、滞在中に体調が悪かったこともあり、すっかり習慣がなくなってしまったのです。帰国後は、「未来ちゃん」に怒られるのが(怒られるわけもないのですが…)怖くて、アプリを開くことも激減。忙しさもあい

ウトロ平和祈念館再訪(2024年4月20日)メモ

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写真.フィールドワーク?! 3月の ウトロ平和祈念館 訪問を踏まえ、4人の学生と同祈念館を再訪した。今回は、はじめに副館長の金秀煥(キムスファン)さんからウトロの歴史を中心に話を伺い、その後、展示の解説をしていただいた。その後、ウトロを一緒に歩いていただいた。ちょうど祈念館前を移動販売が通りかかり、市民住宅前でキムチ類を買い物(笑)(写真)。この時に、ウトロの人たちと少しお話しができたのはよかった。 前回、ゆっくり展示を見せていただきましたが、金さんのお話を伺い、新たな発見や疑問があった。いくつかを。 朝鮮半島に出自を持つ人をどのように呼ぶか?ずっと自分の中で統一できていなかったのですが、金さんに倣い、「在日コリアン」にすることにした。これが南北朝鮮全体を指すし、ニュートラルなニュアンスがあるような気がする。 ウトロ平和祈念館周辺の地図を紹介していただいた際、「南山城同報生活綜合センター」という文字が目に入った。ワーディング的には、朝鮮総連(北朝鮮)系?と思い金さんにどのようなセンターなのかを尋ねてみる。やはり、朝鮮総連系の施設とのことで、金さんから朝鮮総連と民団について解説してもらう。学生たちは双方の団体を知らなかったけれど、「コリアン」という括りで考えた時に、なにがしかの交渉があったはず。このあたりがどれほど重要なものなのか分からないが、少し勉強してみたいと思う。 こうした施設は、日本の歴史だけでなく、人間のアイデンティティをめぐる問題、差別の問題、そして、苦難の中を生きた人びとの力強さを理解する機会を与えてくれる大変意義深ものだ。この後、知ったが、神戸にも「生活資料館」というのもできるらしい。関西はこうした施設が多く、この後も、一つ一つ足を運んでみたい。 【参考】 ■在日コリアンの組織 朝鮮総連( 在日本朝鮮人総聯合会): 朝鮮総連ウェブサイト 、 Wikipedia 民団(在日本大韓民国民団): 民団ウェブサイト 、 Wikipedia ■金さん関連記事 朝日新聞(2022年12月11日)「 宇治・ウトロの歴史や人権語る 祈念館の金さん 」 滋賀県ウェブサイト( 「じんけん通信」令和5年(2023年)3月号 ) 奈良県ウェブサイト、 「ウトロの歴史を通じて人権を考える」 (「かがやき・なら」(No.257)) 【神戸の「生活資料館」】 朝日新聞デジタル(長田

第3回「アフリカ納豆サミット」アフリカ納豆VSラオス納豆

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アフリカ納豆サミット、第3回目を開催します。おバカな企画で、最初はどれくらいの方が集まってくれるのかが不安でしたが、取り仕切ってくれる奥祐斉さんのお陰で、過去2回は満員御礼。述べ70名の口に「アフリカ納豆」を突っ込むことができました(笑)。 私の風貌を見て恐れをなしたためとは考えていませんが、「意外においしい」という感想をいただいています。 第3回目は、アフリカ納豆とラオス納豆の対決。彩り豊かなラオス料理は強敵ですが、アフリカ料理の力を見せたいと思います。 詳細とお申込みは こちら 。  

チルメンガを思う

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「緑のサヘル」から送っていただいた近影  3月のある日、長年かかわっている「 緑のサヘル 」から会報を受け取った。緑のサヘルの会報のトップページには、コラムが載っているのだが、そこには見慣れた名前が。 「ジュリアン・サワドゴ」。僕は彼を本名で呼んだことはない。懇意にしていた故Roch Nazaire SAWADOGOさん(ローカルNGO、AJPEE代表) に、 この地域の農業に精通している方 として、紹介を受けた。二人は小学校の同級生で、R.Sawadogoさんは、ニヤニヤしながらジュリアン・サワドゴさんを「チルメンガ(薬草師)」と呼び、あいつに聞け、と言い、会いに行く前に僕が尋ねていくことを話してくれていた。 彼の元を訪れると、10年の知己のようなに親しみを持って迎えられ、農業のことを話し出すと、畑を見せてくれて、あれこれと説明してくれる。苦手なフランス語も僕のために覚えてくれて、僕のモレよりもずいぶん早く上達した。生来の酒好きで、チルメンガのところを訪れるようになると、初日は予定を控えめにして、 朝からチャパロの歓待を受けた 。 ブルキナファソ中北部 彼等はこのブログでも何度か書いた「バム県」に住んでいる。残念ながら、R.サワドゴ氏は数年前に若くして亡くなられてしまったが、コングシでの調査の際には、二人のサワドゴさんを中心に動いていたように思う。拙著(2019)にも、このことは若干の紙幅を割いて記述している。毎回、ほんの少しでもコングシを訪れ、彼らの顔を見て一時を過ごすのがブルキナファソで最も好きな時間だった。しかし、北部のテロが益々激化した2021年を最後に、この地域には足を踏み入れられていない。最後の訪問はR.サワドゴさんの弔問で、チルメンガには一目会った程度。時折、思い出しては「元気かな…」と思いをはせていたが、緑のサヘルの記事に彼の名前を見つけ、彼の健在を喜ぶとともに、難民キャンプで暮らしていることに大きなショックを受けている。 何度か書いているように、この地域の情勢は情報が少なく、どのような状況なのか、どんな見通しが立っているのかを把握することが極めて難しい。特に、バム県やその北のジボDjoboのあたりはテロの多いところで、政府による統治が出来ていないと言われていた地域。「便りがないのは無事の証拠」であればよいのだが、そんなに楽観的な状況でもない。チル

【業績】「ムーリッドを中心とする在日セネガル人の 民族誌的研究序説」

去る5月21日に都市共生研究センター(MICCS)の研究会で発表したものが、同研究会の紀要『インターセクション』で活字になりました。 こちら からご覧になれます(無料)。 論考自体は、在日セネガル人の現在の動きについて書きました。5月までに調査できていたところからさらに進めた調査で分かってきたことなどを文字化しました。さすがに生活史までは書ききれませんが、年代ごとの傾向や新たな結節点の形成過程を示しましたが、まだ分析途上の試論ですが、一つ書けたのはよかったです。ご批判、ありがたく頂戴したいと思います。 編者の森先生、鈴木先生によるPreface「周縁から権力構造をとらえ返す ―MICCS『インターセクション』第 2 号の目指すところ― 」で、以下のように紹介していただきました。 「2023 年 5 月の公開研究会での講演にもとづく論考「ムーリッドを中心とする在日セネガル人の民族誌的研究序説」(清水)である。ここでは人類学者の和崎春日を中心とする在日アフリカ人研究に関わってきた著者が、その後の研究史を端的にまとめつつ、自身の在日セネガル人調査の現時点での成果を報告する。とりわけ、現地調査で発見した移民の世代論というアイディアを検討する筆致からは、自分のみてきたフィールドから現実描写と学術的議論を立ちあげていこうとする著者の信念が伝わってくる。在日外国人のなかでは比較的知られていない在日アフリカ人の生活についても、堅実な民族誌的研究が積み重ねられていることがわかる貴重な一本である。」(p1) ご笑覧いただけますと幸いです。

『福田村事件』森達也監督(ピカンテサーカス/137分)/ちょいネタバレ

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昨年来、少しずつ在日韓国人のことを勉強し始めているのは、何度かこのブログでも書いてきました。最近も ウトロ平和祈念館 に行ってきて、その前にも 東京の高麗博物館、ニュースパーク に行ってきたのですが、そこでしばしば見たのが、『福田村事件』のチラシ。タイミングとしても、これは見ておかねば、と思っていたのですが、残念ながら公開中には間に合わず、DVDを購入することにしました。 「福田村事件」は、関東大震災が発災した数日後に、薬売りの行商人たちが朝鮮人と間違われて自警団により虐殺された、という事件。「朝鮮人が井戸に毒を盛る」など、あらぬ噂を流されて暴力を加えられた多くの事件、「デマ」や「フェイクニュース」の問題など、様々な問題群をはらんでいる。ちなみに、ニュースパークの展示でも新聞が流言を報じた報道やそれを打ち消す記事などが展示されており、メディアの問題としても考えることができる。 一昨日DVDが届き、早速視聴した。 森達也 さんが監督、井浦新、田中麗奈、東出昌大、柄本明やら、出演陣も豪華でなかなか期待させる配役だ。戦前の軍国主義と張りぼてのような「大正デモクラシー」の相克の中、日本の「村社会」の閉鎖性がよく描かれ、ほんの少しずつ当時の女性蔑視的な雰囲気が引き金として、群集心理に働きかけ、さらに、災害の中で自衛への心情が絡みついていく。しかし、この辺の描写は後半70分程度で描いたものだけで十分。最初の45分程度は、どこかロマンポルノを思わせるようなちょいと艶っぽいシーンが続く。この描写がどこで回収されるのだろう…とみていると、襲撃された村のドロドロした雰囲気を描いたこと、また、不倫により信用を失った人たちが実は一番冷静だった、という、アンビバレントな人間心理を描く、というこの「福田村事件」という、在日韓国人への風評の二次被害という側面を若干弱めている。私個人としては、『A』などを描いた硬派なドキュメンタリー作家のイメージで見ていたので、若干残念な作品だと感じた。  

町内会について② 町内会の存在意義について

現在の住処に住み始めて3年半が経ちました。小さな住処ですが、交通の便も悪くなく、買い物も便利で、下賀茂神社も近くて、とても気に入っています。 子どもの学校が若干遠くはありますが、それも子どもの足で15分程度。まあ悪くはないでしょう。 近所には、お年寄りが多く、朝はしっかり挨拶してくれるし、同じ通りに面しているお宅は対外顔と名前が一致するようになりました。子どもが道路で遊んでいると、時々覗いてくれて、時々声をかけてくれるし、少し前のコミュニティがあるような感じもします。 民俗学とか文化人類学では、人と人の繋がりを「縁」という言葉で言い表すことがあります。もう少し細かく分けると、「血縁」「地縁」「社縁」という3つが中心ですが、それ以外にも「学縁」と「趣縁」という「縁」もあるとされるといわれています(社縁に入っていると考えておくのがよいでしょう)。「血縁」は「血縁関係」など親戚・姻戚関係を示す人の繋がりですし、「地縁」は空間的に近い人たちとのつながり、そして、職場や学校、飲み屋や喫茶店、スポーツ・クラブなどの趣味の世界での人の繋がりというのが「社縁」です。 こうした「縁」を全く持たない人が増えてきた、というのが「無縁社会」で、単純に考えれば、地方から出てきた人たちが働きづめで地域の人たちとも関係を持たず、引退して最も太かった社縁を失ったとき、この人たちには「縁」は残されない、どことも「縁」のない「無縁」の人が出てくるという構図ではないかと思います。高度成長期に20代前半の人たちが引退する2000年代になると、こうした人たちが増えてくるのは当然で、これが社会問題としてクローズアップされたのが、2009年に放映された「 NHKスペシャル 無縁社会~”無縁死”3万2千人の衝撃~ 」なのだそうですが、90年代後半に学生生活を送った私の周りにもこうした人が多かったことを考えると、おそらく、現在でも同じような構造が残っているのではないかと思います。野中氏の記事でインタビューに答えた石田光規さんによれば、「血縁、地縁、会社縁といった伝統的紐帯からの解放は、戦後日本の目標の1つだった。しがらみから逃れるために、一人になれる社会を志向した時代もあった」と述べます(野中2022)。つまり、こうした無縁社会が望むべくしてなった、ということだということでしょう。 実は、私のいるところの町内会、と

【業績】神代ちひろ(編著)大石高典、武内進一、小松謙一郎、椎野若菜(著)『学部生の安全なアフリカ留学に向けて』

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年度末にいくつか業績がでました。 一つ目です。神代ちひろ(編著)大石高典、武内進一、小松謙一郎、椎野若菜(著)『 学部生の安全なアフリカ留学に向けて 』 現職に就いてすぐに日本とアフリカの大学を結ぶネットワークの会議に参加させていただいています。京都精華大学はオブザーバー参加ではありますが、「大学の世界展開力強化事業(アフリカ)」の成果物として『学部生の安全なアフリカ留学に向けて』という冊子が公刊されました(無料です)。ハンドブック的なものですが、執筆陣の豊富な経験を踏まえた安全対策が記されています。私も上智大学の山﨑さんと編者の神代さんとの対談に参加していています。 アフリカと日本をつなぐ一つの懸け橋となりますように。

セネガル新大統領(2024年大統領選挙)と西アフリカ情勢

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  バシル・ジョマイ・フェイ新大統領(Mali jet 20260326 より) 2024年3月26日、セネガルに新大統領が誕生した。バシル・ジョマイ・フェイ氏だ。日本の報道各社も小さく、論調も似たようなものではあるが速報を流している。選挙が行われた当日は気が抜けるほどあっさりと勝利宣言が出たが、ここにいたるまで、かなりの混乱を経ていた。昨年学生がセネガルに滞在していた5月ー6月ころから、マッキ・サル大統領が憲法で禁じられている三選を目指す、という話が出始め、ダカール市内で市民蜂起があったりした。2月3日には、2月25日に予定されていた選挙を延期すると発表されると、市民はデモを組織し、治安部隊との小競り合いが各地で起こった(武内20240206)。こうした動きの背景には、マッキ・サル大統領による野党候補の(乱暴とも思える)抑え込みがあり、さらには、100歳になろうとしているアブドゥライ・ワッド元大統領、その息子のカリム・ワッドなどの動きが複雑に絡まりあっている。対立候補が絞り込まれていく過程で、最大の対立候補のウスマン・ソンコ氏はジョマイ氏の指示に回り、3月6日の憲法評議会で投獄されていたソンコ、今回当選したジョマイ氏ともに恩赦法により14日に釈放、24日に選挙実施案が承認された(武内20240316)。結果は報道されている通りである。 アフリカ・アジア現代文化研究センター主催の 緊急シンポジウム「西アフリカ諸国で何が起きているのか―セネガル、ギニア、マリ、ブルキナファソとニジェールの政治危機を考える」 (2024年2月21日)の開催趣旨で、次のように書いた。 「2024年2月3日、月末に予定されていたセネガルの大統領選挙が無期限に延期となったニュースは耳新しい。多くのアフリカの国々で大統領選挙が近づくと、任期延長や「三選問題」が浮上するが、セネガルでは現サル大統領の一期目の選挙以降、「民主的」な選挙が行われていたこともあり、このニュースは一抹の不安と驚きをもって受け入れられた。アフリカの多くの国々が大統領権力の長期化による腐敗を防ぐため、憲法で三選禁止規定が明記されているが、これまでも、ブルキナファソ(2014年)、南スーダン(2018年)、コートジボアール(2020年)、ソマリア(2021年)、ブルンジ(2023年)、中央アフリカ(2023年)など、三選禁止規定

ウトロ平和祈念資料館を訪問する

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ウトロ平和祈念館を裏側から…なぜ表側の写真じゃないんだろ…   3月某日、京都府宇治市にある ウトロ平和祈念資料館 を同僚の米原先生と共に訪問した。在日アフリカ人の研究をする上で日本に住む外国人の一般的な知識をつけたいと思っていたのと、前にアップした「 【調査】関東大震災100年と在日朝鮮人 」からの流れで、日本に住む朝鮮半島出身者のことをもう少しちゃんと知っておきたいと思ったのがきっかけなのだが、そもそも、自分が住む京都のことを知るという意味でも、一度は行っておこうと思った。 ウトロ平和祈念資料館のウェブサイトを基に、ウトロの歴史についてまとめてみる。 ウトロ、もしかすると京都、関西以外の人には馴染みのない名前かもしれない。正直なところ、私も京都に住むようになって初めて耳にした名前だ。ウトロ平和祈念館によれば、「 京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。この地区は1940年から日本政府が推進した「京都飛行場建設」に集められた在日朝鮮人労働者たちの飯場跡に形成された集落」とある。 戦時下ということも相まってその生活は困窮していたが、1945年の終戦戦後もウトロに住む人びとの苦難は続く。終戦後、植民地から解放され、民族学校「朝鮮久世分校」を建設するが、1949年にGHQと日本政府により閉鎖に追い込まれれ、長年にわたり上下水道が整備されず、井戸水を生活用水とし、雨が続くと洪水が起きたという。この地域は、現在では埋め立てられてしまった巨椋池の近くにあり、大変水はけの悪い地域ということもあり、水にはずいぶん悩まされたようである。 1986年より、こうした劣悪な生活環境の改善、また、何より「深刻な人権問題」の回復を求め、ウトロ地区の住民と日本の市民の働きかけが始まった。1988年に上下水道が整ったものの、戦後この土地の所有した日産車体が西日本殖産にウトロの土地を転売、土地の明け渡しをめぐる訴訟へと発展し、結果敗訴。その後、ウトロの人びとは政府と自治体に対して請願を繰り返すが、返答すら得ることはなかった。 1986年の上下水道の整備をめぐる請願のころから、日本人がウトロの人びとの支援を始め、「地上げ反対!ウトロを守る会」を結成し、今日までウトロ支援活動を続けている。裁判敗訴後も日本人支援者たちは「まちづくりプラン」を提案し、海外にもウトロ問題を発信していく。2001年には国連社会権

科学研究費「西アフリカのライシテと宗教性の連続性の文化人類学的研究」(基盤B/21H00651)② 学会報告(2023年度)

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  2023年5月に千葉で行われた日本アフリカ学会第60回学術大会で本科研研究の進捗を発表しました。昨年の学会では、科研費の中間発表を行いました。「西アフリカのライシテ研究の可能性と課題」と題し、科研費のメンバーの 和崎春日先生 、 ウスビ・サコ先生 、 伊東未来先生 、 阿毛香絵先生 と私の5名でフォーラムを組みました。 【本フォーラムの趣旨】   本フォーラムでは、科研費「現代西アフリカにおけるライシテと宗教性の連続性の文化人類学的研究」(21H00651/代表者:清水貴夫)の途中経過を提示し、本課題の妥当性や方向性、新たな視点を募り、本研究の進捗を発展的に検証することを目的とする。この研究課題の対象となる西アフリカは、ここ10 年ほどの間に多発したイスラーム過激派のものとされるテロ、社会保障を補完する信仰NGO、私学として国家が正式に認可する初等中等教育と言った、公共空間における宗教組織の存在が前景化し、その影響は到底無視できるものではなくなった。 これらは、政治―宗教、公共空間―宗教、宗教-社会福祉と言った、様々な関係性の中に重層的に観察できる問題群であり、これらを束ねる概念として「ライシテ」に着目し、こうした関係をどのように捉えるべきか、という点に着目した本研究の問題意識である。さらに突き詰めれば、西アフリカにおいて考えられるラ イシテの概念は、必ずしもフランス的なライシテ概念には収まらないということであり、 西アフリカ的な宗教と公共空間、政治の関係性を、公共空間―宗教性―日常―政治の連続性にあるという点にある。 本フォーラムでは、いわば「西アフリカ的なライシテ」を検討することの可能性と課題を提示し、フロアと議論したい。ライシテ概念とは、共和政体としてのフランス近代国家の成立を裏付けた、宗教性から自律した世俗性を定めた近代国家の成立条件である。旧フランス領アフリカは、1960 年 前後の独立に際し、その憲法に、フランスに倣いライシテの原則を書き込んだ。しかし、ライシテが生まれたフランスでもその綻びはさらに顕在化し、宗教と世俗社会の間のアプリオリとなっている。いわんや、外来の概念として「上から」課せられた西アフリカにおけるライシテは、この地域の社会形成の上で上滑りしてきており、こうした現象は、様々な政治・社会問題において散見される。その都度、西アフリカ社会に

町内会について.① 役員になった

コロナ禍真っ盛りの2020年。僕は、不動産が動かず、きっと急ぎで売りたい人がいても買い手がつかず、かなり安いはずと勝手に思い、週末のたびに不動産屋に出かけるようになりました。何とかその年中に新居を見つけて引っ越しを済ませたのですが、 コロナ中ということもあり、しばらくはとても静かな日常を送っていました。 生活も少しずつ落ち着いてきたある日、町内会長さんの男性が自宅にやってきて、「×組の組長をお願いしたい」という依頼を受けました。そこに引っ越してきて間もない私は何度か固辞したのですが、組長さんの人懐っこい人柄や、地域社会について知るよい機会と思ったものもあり、思い切ってお引き受けすることとしました。仕事は、と言えば、町内会や京都市のお知らせを回したりするようなことで、家族の手助けもあり、何とか最初の1年間を乗り切りました。 またしばらくしてから、会長さんから、今度は町内会の理事を…という依頼。いやいや、さすがに…と思い、やはり何度か固辞したのですが、こうしたことをお願いできる人すら少なくなってしまったから…という再三のお願いがあり、とうとう引き受けることにしました。その地域に住み始めて2年ほどで理事…いいのだろうか、と思いつつ、月1度の集まりに顔を出すことにしました。 約1年が経ち、広報を引き受けることにしました。前任の方がご高齢(なんと83歳!)で、そろそろ…ということでした。出張先でもある程度作業できる仕事のつもりだったのですが、引継ぎ書類の中には、なんと157号もの町内会誌が。パラッと見させてもらったら、面白そうなものがたくさん。どんなふうにするか、ちょっと考えないといけませんが、面白そうな仕事をお引き受けしました。 この話題も少しずつアップしていこうと思います。

トルコ①:「オキシデント」担当者

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  今さらですが、私はアフリカ地域研究を専門としています。現職に着任した際も、ゴリゴリのアフリカ担当として、他の地域のことは知らない、という色がついていて、学生の海外フィールドワークの担当もセネガルのみが私のテリトリー。なかなか心地よいものでした。 ところが、同僚の異動のことなどがあり、2023年よりトルコも私の担当に。担当できる人を消去法的に選んでいくと、イスラームのことだったり、西の方だったりという理由で私しかいなかった。ほかにもヨーロッパをご専門にされているお二人も共同担当ということになってはいるのですが。 とにかく担当になってしまったので、後付けでも勉強するしかありません。まずは、学生の興味関心を聞きながら、私も勉強する、というスタンスで一緒になって本を読んだり、人の話を聞いたり、ということをしていくつもりです。さすがに、今から専門家になるのは難しいとしても、ある程度の知識は蓄えていこうと思います。 まずは、ブログ上で少しずつノートを作っていこうと思います。長い間、世界の中心にあり、地理的にもアフリカに近いところ。さらには、イスラームの地域でもあり、これまでのアフリカ研究に厚みが出るのは間違いないありません。

【ブルキナファソ調査】国旗の意味するもの

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  【3月27日一部修正・追加】 2024年2月27日~3月4日までブルキナファソに滞在しました。前の投稿でビザのことを書きましたが、観光ビザの発給停止がどのようなことを意味しているのか、もしかすると、政治的な意味も含まれているのではないかと勘繰っています。 ワガドゥグの一部の店舗には国旗が据えられていることがあります。多くがブルキナファソの国旗なのですが、アメリカファッションの洋服屋には星条旗、フランスのトリコロールがかかっているところもしばしばみることがありました。 こうした国旗事情、2023年9月の前回滞在の時に大きな変化に気が付きました。星条旗やトリコロールが掲げられていた店の国旗の多くが、ロシア国旗に代わっていました。昨年時点では、「トリコロールを90度回転させたらロシア国旗になるだろ?」という冗談が通じたのですが、今回、一切のトリコロールが姿を消しました。NHKの報道でも、このことは言われています(関連記事にURLあります)。そして、ほとんどの交差点(ラウンドバウト)の中心には、マリ、ニジェール、ロシア、時に北朝鮮の国旗がはためいていました。 友人によれば、こうした交差点では、夕方になると若者たちがお茶を飲んでいるとか。確かに、炭の後やらお茶の箱やらがちらほらと見える。こんなところで何をしているのだろう…もしかしたら、新たな友好国の国旗に囲まれながら熱く政治を語っているのでしょうか。 街中からなくなったフランス、新たに増えるロシア、この流れは政治的なものだけでなく、私が調査をする人たちからもよく聞こえてきたものを象徴しているように思います。歴史的なフランスの所業、独立後も続いた支配への恨みや怒りは、普段穏やかな民衆の生活の中でもしばしば見え隠れするものでした。 現地滞在中に調査協力者はこんな話をしていました。昨年、クーデタ直後より、エールフランスの就航が取りやめとなりました。この解釈について、調査協力者は、事態が落ち着き、エールフランスから再開の「通達」があると、ブルキナファソ側からフランスの非礼を理由にそれを拒否(勝手に出ていって自分の都合で戻って来る。フランスのそういう態度が我われをいらだたせる、ということらしい)。よって現政権の方針を指示すると。 ただ、ここで注意しておかねばならないのが、交差点に掲げられている国旗に交じり、現トラオレ大統領の写真と

【ブルキナファソ調査】ブルキナファソのビザ(失敗談)

私の申請が遅かった…間違いないのだけど、Expressで申請したのにビザが、手元に送られてきたのは、それから1週間後のことでした。 出発前日、祝日、週末が続いたこともあり、ビザ未取得のままの出発が決定しました。 長年お世話になっている道祖神さんの担当者にアドバイスを仰ぎ、On arrivalでの取得を目指すことになりました。関門は日本でチケットが出るか、ブルキナファソでビザ発給されるか、と思われました。 第一関門は、「お金払ってるし、今まででちゃんと取れてるから大丈夫」と言ってなんとかごまかして通過してトルコに到着。 トランジットを終え、出国カウンターを通過して搭乗口に到着し、次の関門でのシュミレーションをしていました。 ところが… 搭乗口の係員からビザの有無を問われ、持っていない、というと、係員が確認を始める。嫌な雰囲気が漂い始める。事前に教えていただいていた Timatic を確認し始めたので、日本でもそれを確認してもらって、申請は完了しているので、入国時に入手できると聞いている、とちょっとブラフを入れてみても、最終的に確認が取れないため、「搭乗不可」という結論になりました。 そこから、ブルキナファソにいる大使館勤めの知人を通して、事情を説明し、サポートをお願いする。というのは、元々、ブルキナファソのビザは、大使館の領事の業務でしたが、2023年2月から申請方法が変わりE-Visaのみとなったためで、つまり、本国の警察の管轄となったので、現地での調整が必要なわけです。ビザ情報を書いておきますが、前回渡航の際に大使館にも問い合わせたところ、書類に不備があると、申請料は返還されない…とか、2023年2月から 「観光ビザ」の発給 を停止しているとか、治安上の問題があるとは言え、旅行しにくくなりました。 閑話休題。その日はトルコ再入国も許されず、空港内のホテルに宿泊(×万円やられました…ものすごく高い)することにしました。ちょうど締め切りを過ぎた原稿があったので、そちらを仕上げる時間に充てることとし、ブルキナファソの友人づてで、大使館から警察に問い合わせてもらい(こうしたことは大変助かります)、朗報を待ちます。 翌日、チェックアウトの時間ギリギリまで空港ホテルで過ごし、死ぬほど飯を食べ、最後の最後までメールをチェックしても、結局E-Visaは届かず、鬱々としながらサポー

【調査】関東大震災100年と在日朝鮮人

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ちょっと時間が経ってしまいましたが、昨年11月2日、3日と東京に出張した時の話を書きます。めでたいはずのお正月に起こった能登半島の大地震。今も多くの方が厳冬期の厳しい避難生活を送られています。避難生活を強いられている方の命を守ることが最優先されることをお祈りしています。 地震大国である日本は、21世紀に入る前後で見ても震度7以上の地震は、阪神淡路大震災(1995)、十勝沖地震(2003)、新潟中越地震(2004)、東日本大震災(2011)、熊本地震(2016)、北海道胆振東部自身(2019)そして、年始の能登半島地震と非常に頻繁に発生しています。 東日本大震災以来の激甚大災害となった能登半島地震、僕は久しぶりに日本で過ごした年始の多くをTwitterを見ていました。年末からの芸能人の話題や裏金事件の話題、そして、震災に対する現政権の対応の遅さを指摘するコメントが混在している中、気になったのは、特定のクラスタによる、「デマ」でした。外国人が暗躍し、日本社会を壊滅させようとしている、というニュアンスのものが、早速炎上していくわけですが、こうした「デマ」が湧いてくること自体が問題です。 100年前、関東大震災が起こった際には、多くの朝鮮半島出身者がこうしたデマにより、虐殺されました。今回訪れたのは二つのイベント。 まず、高麗博物館について。 新大久保というか、歌舞伎町にあるこの施設。10代後半~20代にかけてこの辺をうろうろしていましたが、こんな博物館があるなど、思いもよりませんでした。ビルのいちフロアにこの博物館はありますが、常設の朝鮮半島の展示がありますが、この日は「関東大震災100年―隠蔽された朝鮮人虐殺」の特設展が開催されていました。いつまでリンクが見られるのかわかりませんが、この展示は、 淇谷が描いた 「関東大震災絵巻」の初公開が目玉展示。当時の現場を見た画家が描く絵には、「日本人」と朝鮮人に対する、人びとの接し方の違いが克明に描かれていました。ほかにも、文献資料や写真、絵画資料から、当時の日本における朝鮮人の位置づけを示されていました。 翌日は、横浜の日本新聞博物館へ。「そのとき新聞は、記者は、情報は―関東大震災100年」という企画展が開催されていました。この展示は、関東大震災発災の際の新聞報道に関するもので、発災当時、多くの新聞社屋が崩壊したものの、地方の記

第2回アフリカ納豆サミット「〜五感で比べてみよう、京都と西アフリカの納豆〜 in 藤原食品 × ムトーヨータドー〜」 (3月19日)

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  納豆。日本固有の食文化と思われがちだが、世界の各地で食され、アフリカに至っては、納豆の一大消費地だ。遠く離れた地で育まれた事象が、文化的共通点として浮き上がることは大変興味深い。「アフリカ納豆サミット」では、アフリカで展開される豊かな納豆文化を紹介し、アフリカと日本の納豆文化の類似点やアフリカ納豆の文化について考えます。今回は、京都に拠点を構える藤原食品さんと今日納豆についてお話をお伺います。 また、トークの後には、アフリカ納豆と京納豆の食べ比べがあります。   ◎予定メニュー ・鯉のスンバラ焼き浸し ・スンバラ飯 ・スンバラの料理 ・鴨川納豆の料理 ・京納豆の料理   日時:2024.03.19(火) 18:30 - 21:00(18:15開場)  場所: 藤原食品×ムトーヨータドー 参加費 4,000 円 / 学生 2,500 円(食事代込 / 日本とアフリカ納豆の豆お土産付き) お申込み:https://africanattousummit.peatix.com/view?fbclid=IwAR0JfJnubfyNzOu6QqUbeBGvNOLwlHH3fmJ2tGtjW8Q3awCCmISpJAXNKdM お問合せ:株式会社bona 担当者 奥祐斉 info@bona.world

15年ぶりに訪れたゴレ島の砲台

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2007年3月@ゴレ島にて 2023年9月ゴレ島にて 書きかけの記事が昨年11月のもので、こちらの記事が昨年9月のものです。時間が前後してしまいますが、気にせずに書きたいところから進めます。 毎年恒例のセネガルプログラム。毎年、10日前後のプログラムを考えてスケジューリングをします。中に絶対に外せない訪問地があるわけですが、ゴレ島はアフリカの植民地の歴史を考える上でその筆頭格と言えるでしょう。 僕がゴレ島を訪れたのは、2007年3月(2月だったかも…)のこと。1泊でゴレ島を訪れたのですが、世界的な観光地ということもあり、瀟洒なホテルやオーベルジュはなかなかの値段がしていたので、とにかく安いところを探し、たどり着いたのが島の一番奥、小高い丘の海側の裾野にあるオーベルジュでした。丘の上にはオランダが作った砲台が残っており、オーベルジュは塹壕の跡地を利用したものだった。確か12,000Fcfa。格安でした。 実は、このオーベルジュ、当時私が研究していた「ラスタマン」の親分Ras Mahaが経営していると聞きつけたこともあり、値段だけでなく、大変ラッキーな宿泊となりました。この話はどこかで書いたので、この辺にて。 それから15年経った昨年9月。学生を連れて何度目になるかわからないゴレ島訪問となりました。ガイドに雇った青年が連れて行ってくれたのが、この場所でした。ガイドにここに来るのが10数年ぶりで、オーナーのRas Mahaはその時に会っている。彼は元気か?と尋ねると、相変わらずオーベルジュをやっているというので、ぜひ会いたいという旨を伝えると、少し年を取ったが、元気そうな姿をみせてくれました。ラスタ思想に傾倒していたこともあり、元々ナチュラリストでしたが、15年ぶりのRas Mahaは健康的なナチュラリストに変貌していました。オーベルジュも大きく、きれいになっていて、来年度のプログラムでは、こちらでお世話になることにし、短い再開を果たしました。 僕も等しく15年の歳月が流れたわけで、昔、当時ご一緒したバックパッカーに撮ってもらった写真があるのを思い出し、同じアングルで写真を撮ってもらいました。15年前に僕は精悍で、大胸筋あたりの盛り上がりがわかりますが、今の僕は、といったら、大胸筋どころか腹が出てる…撮らなければよかった、などと一瞬思いましたが、これも15年の歳月の結果。

明けましておめでとうございます

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2024年の新年は、北陸の大地震や羽田のJALと海保航空機の事故という、「おめでとう」という新年の挨拶を憚られるニュースから始まりました。両件の犠牲者に哀悼の意を表し、特に北陸の大地震の被災者のより多くの方が救出され、より早い時期に日常を取り戻せますことを切に祈っております。 さて、2023年を少し振り返ります。 仕事面では、本務校の新学部設立から3年目となり、今年度ですべての授業が出そろい、この後の年間スケジュールのベースができた一年でした。新しいこともたくさんありましたが、役職を外れたこともあり、少し気持ちに余裕を持つことができ(それでも追いつかないことが多かったですが…)、淡々と過ぎていった一年でした。淡々と…ではあったのですが、昨年の大きな出来事としては、5月頃からジム通いを復活させ、食事制限を合わせた結果、10㎏ほどのダイエットに成功しました。最近一進一退状態ですが(笑)。体力的な衰えは不可逆的なものですが、腰痛やらなんやら、ちょっとした不調が解消できたように思います。 貴一朗は元気にスクスクと。まだまだかわいい盛りで、甘えん坊は変わらずも、少しずつ一人で行動することも増えてきました。ウィークデイは朝いやいやおきながらも、毎日学校に通い、週に一度の水泳と習字を続けています。あんまり成績は良くないみたいですが、みんなそれほど気にしていません。10月頃からは、お小遣い帖をつけ始めました。簡単な家計簿を作り、お手伝いをすると50円渡し、少したまると自分のお金で何かを買う、ということができるようになりました。 迎えた2024年。今年50を迎えるにあたり(あんまり関係ないですが)、一つ大きな仕事に取り組んでいきます。 とりあえず年度内は、2月にイベントが4件あり、若干バタつきますが、必要なタスクをこなします。4月以降のことは科研費の状況もあるので、修正は必要ですが、一つの科研費が終了し、新規のプロジェクトが2つ始まるのではないかと思っています。今年度は私が代表者を務める科研費プロジェクトが最終年度を迎えるほか、もう一つも最後の年になり、成果物の準備に若干時間を取られるはずです。この辺の作業と重ねたりしながら、博士論文を仕上げたいと思っています。何回も「書く宣言」をしていますので、「まだ?」と言われます。ずっと心のどこかに引っかかりを持っています。こんな気持ち悪さだけ