2010年3月17日水曜日

「ストリート・チルドレン」発表@GCOE合宿

帰国後にすぐに研究合宿に参加。

「生存基盤維持型の発展を目指す地域研究拠点」
http://www.humanosphere.cseas.kyoto-u.ac.jp/article.php?story=20090123-25
(そのうち今回の合宿の報告もアップされると思います)

ずいぶん苦労(体力的に…ですが)したレジュメは何とか出来上がり(誤字がいくつかあったのですが、アフリカボケということで…)、無事に発表終了。多くの方に出会え、共に同じ釜の飯を喰い、酒を飲み、意見をぶつけ合いした。濃密で充実した3日間だった。

発表要旨は以下の通り。
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「少年の移動と「ストリート・チルドレン」:ワガドゥグの事例を中心に」

ブルキナファソの首都、ワガドゥグ市は推定150万人ほどの人口を擁するブルキナファソの政治経済の中心都市である。ワガドゥグ市には、アフリカの多くの大都市と同様に、路頭で生活する「ストリート・チルドレン」が存在する。
「ストリート・チルドレン」は都市の社会問題と同義で用いられることが多い。だが、本発表では、こうした少年たちのストリートへの出奔を、「社会問題」として扱う以前の、都市への「移動」の現象レベルに引き戻して捉え直すことを目的とする。
人々の都市への「移動」については、都市人類学を中心に多くの研究の蓄積がある。例えば、ガーナ北部から都市部への若年貧困男性の移動を扱ったHartの研究は、経済的な動機付けを持つ人々の「移動」が機能的な意味を持つことを指摘している。だが、本発表の事例に挙げる少年の「移動」は、機能主義的観点から説明することが困難な、目的の明らかでない移動である。
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2010年3月13日土曜日

帰国後の楽しみ

昨夕なんとか帰国した。飛行機の中でもほとんど寝られなかったが、意外に疲れていない。

今日は朝から何事もなかったかのように、こうして研究室に座っている。

帰国後の楽しみ…

主に飲食に集約されるが、ひそかな楽しみも…

PCエアダスター。PCに空気を吹き付けて埃を取るものだが、これがアフリカ帰りの楽しみの一つ。キーボード、通風孔あたりに吹き付けると、見事な砂埃が立つ。よくよく考えてみると、えらい環境でPCを遣っているな、とも思うのだが、それは仕方ない。早速一人の研究室で…ヒヒヒ…

2010年3月9日火曜日

終わらない…

いよいよ出国前日。

暑いし、もう帰りたい、と思い始めて数週間、サボっていたわけではないのに、最後の最後は毎回忙しい。あいさつに行こうと思っていた友人たちもほとんど電話で済ませてしまったし、土産物は今回は一切購入しなかったので、そちら関係も今回はもう会わないことにした。

帰国してすぐに研究会があり、準備をしなければならなかったのだが、調査データ(3,000枚近くデジカメで撮りました…)の整理と、数日前に受け入れ先の先生から言われたファイナルレポート(英語で書いてやった。ははは。)、後NGO関係の事務書類やらで、ここ数日間ほとんどホテルから外に出ていない。何とか、研究会のレジュメを残すのみとなり、少しは帰国ムードに浸ってみようかと…

しかし、終わるのか?あのレジュメは…

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2010年3月6日土曜日

もうひとつの最古のモスク~ワガドゥグ歴史の点~

昨日で今回の調査、最後の記事にしようと思ったのですが、もうひとつ。

先日のSagbotengaの時の写真を届けに、再び古老の元へ。相変わらず「カッカッカッ!」という笑い声と共に、いろいろなことを教えてくれる。「今日はワガドゥグの最古のモスクに行け!」と言う指令。以前、ハウサの古老からも話を聞いていたが、今までチャンスがなかった。

後にハッと気づくのだが、Sagbotengaのモスクを見てからここを見る必要性があったのであった。

ワガドゥグ最古のモスクは、ザングエテンという、今回の調査記事で何度か出てきた街が元々あった場所にある。現在は、この地区は鉄道駅になっている。ここに住んでいた人々がどこに行ったか、というのは、ちょいちょいと書いたので省略。

駅の裏側の保税倉庫のあたりからアミノゥ、ザカリア両氏と共にバイクで入り込む。端っこにバイクを止め、奥へと歩いて行くと、こんもりとした小山が…

「え、あれ?もしかして…」


近寄ってみると、崩れかけた建物の跡。

1920年ころに建てられたこのモスク。先に述べたように、ザングエテンという外国人(ハウサ)の街に建てられた。植民地時代、鉄道敷設、駅舎建設のためこの地域が選ばれた。モロ・ナーバの王宮も以前はこの近くにあり、どうもこの鉄道関係の工事のために現在のところに移設したらしい。本当にフランスという国は乱暴だ。

当時の人々も相当怒っていたに違いない。なぜなら、こんな話が伝わっている。

「駅を作ったのに、このモスクがこのままにされているのはなぜか。
もちろん、当時のフランス植民政府はこれをどかそうとした。しかし、ブルドーザーでこのモスクを壊そうとしたとき、ブルドーザーを運転していたフランス人4名、この作業を手伝っていたブルキナベが3名、その場で気が触れてしまった。その後、何度かモスクを壊そうとしたが、そのたびに事故があり、現在のようになっている」

まるで清正の首塚である。この話をしてくれたのは、例の古老。イスラームはフランス植民地政府に負けっぱなしではないのである。



なぜ、このモスクを今日見に行かねばならなかったか。このモスクの建立者こそ、Sagbotengaのモスクの建立者の末裔であり、ワガドゥグの最初のイマーム。泥作りで、おそらく、Sagbotengaのモスクを模倣したような作りと大きさ…

ハウサはヤルセの創った街を頼りにキャラバンを滞在させ、ヤルセはハウサと共にワガドゥグの宗教、商業を先導した。西(マリ)から東(ブルキナファソ)へ、東(ナイジェリア)から西(ブルキナファソ)へ、北(ジボ、ヤコ)から南(サガボテンガ)へ、さらに南(サガボテンガ)から北(ワガドゥグ)へ。目的地のない旅をした二つの民族がモシ王権と絡み合った後に生まれたこの古びたモスクは、ごく最近の乱暴なフランス人に踏みにじられ、今はだれも知られずにひっそりと朽ちるのを待っているよう…
「アフリカには歴史がない」
一応人類学を学ぶ私たちにとっては、すでにそんなことがあり得ないことを知っているが、ワガドゥグ、ブルキナファソの人々は、まさにそんな風に思っているようにも感じてしまう。こんなにダイナミックでリッチな歴史があるのに…スキナーというアメリカの人類学者がワガドゥグ市民を「フランス人になりたい人々」と書いたが、もしフランス人になることが、自分たちがなぜそこにいるのか、を考えることをエポケーすることだったりするなら、もう一度立ち止まってよく自分たちの足元を見てほしい、そんな風に感じさせる光景だった。きっと、一寒村だったワガドゥグが、インターエスニックな人々の結節点として機能し始めたまさにその時、このモスクが建てられ、このモスクこそ、イスラームがここに根付くきっかけになった、そのモニュメントなのだろうから。
このモスクを見た後、アミノゥのバイクの後ろに乗っていると、アミノゥが尋ねてきた。
「あのモスク、復元した方がいいのかな?」
彼自身、その地域に住んでいたことがあるが、実際に見たのは初めてだという。きっと、自分たちのルーツに触れ、それなりの感銘を受けての問いだと思う。しかし、僕は、
「それは不可能だと思う。それより、今の状態を残した方がいいのではないか、と思う。十分にブルキナファソの歴史の一ページになっているし、しかも、鉄道駅はもう動かせんでしょ?」
と答えた。アミノゥも「そうか…」と言ったが、自身、正しいかどうかは分からない。ただ、時間がたつことで、あのモスクの存在意義も大きく変化しているように思う。
まあ、早いうちに書いてみるか。たぶんできること、もしくはやらねばならないのは、それだけだし…

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ブルキナファソ最古のモスク~Sagbotenga~

今回の調査で最後の大物。今回の調査を始めた時からしばしば名前を耳にして、必ず行こう、と思っていたSagbotenga(Sagbo=tôブルキナファソの主食, tenga=village "トの街")。ワガドゥグから70kmほどの距離に位置している。

ドライバーは、前回の調査でたまたま乗ったタクシーで知り合ったキェーバ。グルマンシェで、Iまやさんの調査にもいろいろ協力してもらった楽しい35歳(同い年)。
実は、最後の最後、少々調査費も苦しくなってきて、燃料代やらドライバー代諸々を考えるととても厳しかったのだが、今回の調査、長老級に話を聞くことが多く(80歳を過ぎると次回お会いできない可能性もあるので…)、できるだけ今回できることはやってしまいたいと思い、少し無理をした(おかげでVISAカードが意外に使えることが判明。)


舗装道路を走ること約60km。こんな看板が見える。

そう。今回の目的は、ハウサ、ヤルセというブルキナファソにイスラームを持ちこんだとされる人々のルーツを探る旅。アミノゥ、タル、ザカリアさんに、イマームの息子、そして、ドライバーのキェーバの6人で訪れた。

El hadj Seafouという前ブルキナファソイスラーム協会の会長から、ブルキナファソで最も古いモスクがあると言われ、これを見てみたい、と思った。きっとモスクの形状からイスラームの伝わった経路がある程度はっきりするはずで、自分の将来の研究のことを考えても、重要な起点になることが予想される。

村は、上の看板から約12kmのところにある。ダートの道をメルセデスで疾走し、村に入る。イマームのところに通される。皺の深い、とても優しそうな老人だ。
この地域は中部モシ王国の中心からほど近い。現在、利用可能な井戸は4本しかないが、この時期に貯水池に水が枯れず、水場の回りに菜園が広がる。そして何より、この村に入って印象的だったのは、マンゴーの木の多さである。マンゴーの木は、葉が濃く、薄暗い日陰をもたらす。その木陰で女性が穀物を粉にしていたり、コットンの糸を縁っていたり。憩いの場なのがよくわかる。よく知らないが、あれだけみずみずしい果実をつける木だから、それなりに水があるところでないと密集させるは難しいのではないだろうか。
そして、いよいよ、長老たちに誘われてブルキナファソ最古のモスクへ。
約3,000人の村に16のモスクがあるというSagbotenga。みな敬虔なムスリムである。彼らが大切に守り抜いてきたモスクが上のモスク。こんな言い方をすると申し訳ないが、とても可愛らしい。とても小さい…
しかし、それにしても、このモスク、やっぱりマリの泥モスクの系統をひいているのがはっきりわかる。ジェンネの偉容漂う泥モスクとはいささか趣が違うが、屋根の形、泥作りのモスク…後に聞くと、このモスクを立てた現イマームの祖先はやはりジェンネでコーランを学んでいた。そして、イマームに誘われていざモスクの中へ。
小さなモスクだが、約20cmから30cmの厚みのある土壁の中は外気と比較にならないほど涼しい。一言目に「ここで昼寝をしたい」と言ったら、イマームが「ホッホッ」と笑い、「後で寝て行ったらいいよ」と…お恥ずかしい…というのはどうでもよいが、この小さなモスク、中はらせん状構造で、2層、屋上がある。私のようなデブは想定がいらしく、泥作りの階段、出入り口はほとんど這うような形で入らねばならない。まるで日本の茶室である。
しっかりモスクを堪能すると、モスクの影で質問を聞いてくれることに。
村の歴史を尋ねる。これまでの話通り、モシの王様との関係が深い。そして、植民地支配をしたフランス人との関係、イスラームを中心とした村の構造、この地域ではなかなか見られないような他民族構造…実に豊かな歴史を持った村であることが古老の口から語られた。約2時間に渡る説明でこちらがヘトヘトになっても、「この話はいいのか?」と言い、時間一杯まで話をしてくれた。
「ここで調査できたら…」などと、あらんことを思ってしまったが、それだけこの村がモシに与えた影響は強い感じを受けた。そして、たくさんのおかしなところも…
手前みそだが、インタビューの後に供されたト=Sagbo。バーベンダソースと共に滋味の強い、Djibo以来の美味しいトだった。いろんな意味でおなかいっぱいな一日だった。

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2010年3月5日金曜日

お疲れ様でした。

実は自称ラガーマンです。これだけ頻繁にアフリカに来るようになってからほとんど練習に顔を出すことはしなくなったが、つい2年前まで週末と言えば朝からラグビー。10何年、週明けは生傷が絶えず、会社勤めをしていた時も、ずいぶん上司にたしなめられた。「ただでさえガラが悪いのに、それじゃまるでケンカしたみたいだよ…」。目を腫らして会社に行ったときの言葉だ。

今日のナンバーに神戸製鋼の元木という選手の引退の記事を見つけた。

http://number.bunshun.jp/other/news/view/2010030501000458/2

平尾、大八木、林、と言った神鋼の黄金期の次の世代の立役者だった。パワー型のプレースタイルのCTB、確か背番号は12だった。一度、ファン交流イベントを実家の近くでやった時、一瞬体を合わせたことがある。私の方がはるかにデカイのだが、鉄板に当たったような、体の芯を揺らすような、そんな感じ。「この人と同じフィールドに立ってはいけない」と一瞬で感じ取ったように思う。

僕が大学生になる前からブリブリ言わせていたから、それなりの年だろう、と思っていたら、もう38歳。ラグビー選手としては、相当な長寿。ここまで持ちこたえられたのは、この強靭な体と、精神力(目つきに出てますよね…)のおかげなのだろうけど、何よりも、ここまで情熱を持ち続けられたこと(しんどいし、痛いし、怖いし…)に敬意を表したい。

というか、ちょっと思い出したら、もう一回やりたくなってきた。

2010年3月4日木曜日

いつの間にやら…時間が早い理由。

暑い…くらいしか、最近の生活の感想はない。いくらなんでも、ここまで暑くなるのは早すぎる。連日の40度超、夜も冷気が降りてくるのが次第に遅くなったような…

とかなんとかでいつの間にやら3月。月の短い2月は本当にあっという間に過ぎ、頭の中にあった「あれをやって…これをやって…」と言うのが全く追いつかない。9日に帰国だから、後6日、いや正味5日。明日は調査で村の方に行き、夕方には今回の受け入れの先生のお宅に行く。週末は何としてでも調査地の地図と家庭調査をなんとかすると、その辺までかな…というところ。やはり3月もあっという間に過ぎて行く。

この時間の早さは書類の多さにも比例する。おかげさまをもって、今回も貴重な税金で来させていただいているし、次回も公営ギャンブルの収益で来させてもらえることになった。本当に貴重な貴重な機会。透明な会計と、自分で決めた目標くらいの成果を、人に分かるように書く、ということは意外に時間も神経も使うもの。これをやっていると、時間があっという間に過ぎてしまう。

そして、帰国すると、研究合宿、東京の方に用事、そして、卒業式(勝手にお父さん役)とイベント満載。気がついたらまた桜の下でてんぷらでも揚げていることでしょう。光陰矢のごとし。