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10月, 2014の投稿を表示しています

ほっかいどー!ぜったいさっぶいぞー

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明日より北海道行脚。まだこの前の学会運営で負ったダメージが残っていて、準備が思ったように進まないのだけど、今までのネタをかき集めて何とかせねば…です。

このポスターは11月1日のものですが、10月30日藤女子大(子どもネタ)、10月31日帯広畜産大学(これと同じネタ)です。

準備はしんどいですが、終わった後のご飯が楽しみ。うふ。


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14th アフリカ教育研究フォーラム要旨

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10月24日、25日に地球研で開催された発表の要旨。都合により、データは抜きましたが、全文を掲載します。このネタで二つ発表したし、論文にしないと。どこに投稿しようか…


ワガドゥグにおける「ストリート・チルドレン」の統計調査・調査結果報告 Result of statistic research of “Street-children” on Ouagadougou
清水 貴夫 (総合地球環境学研究所)
 本発表の目的は、2014年3月と7月にワガドゥグ市(ブルキナファソ)で行ったストリート・チルドレン総数および季節変動に関する統計調査の結果の一部を公表することである。本調査は科研費「西アフリカのクルアーン学校とタリベの動態と生活戦略に関する文化人類学的研究」(若手(B)25770312代表者:清水貴夫)の成果の一部である。  本研究のきっかけとなったのは、発表者が2009年の調査中に出会った18歳の少年、アルザック君が乾季にストリートで過ごし、雨季になると実家のある村落に戻るという、いわば出稼ぎのような生活パターンについての知見を得た時のことである。その後の調査の過程で、多くのNGOの職員は、こうした事例は珍しいものでなく、多くの少年がストリートと村落を往来していると述べる。NGOの発言が正しいものであるならば、この現象は特に次の3つの点において興味深く、この調査において明らかにしようと考えた。
①雨季と乾季でストリート・チルドレンの総数がどのように変遷するかを明らかにする ②ストリート・チルドレンは家族関係の悪化や児童労働の問題と関連付けて語られるが、こうした言説を再検討する ③2009年以来行われていない、ストリート・チルドレンの統計調査を行う
 調査は2014年3月5日(乾季)、7月

子ども研究に関する備忘録

昨日のブログに誤字があったのだけど、忙しさにかまけて適当な文章を残した自分への戒めのためにそのままにしておく。「視覚」は正しくは「資格」。

アフリカ子ども学、たぶん僕の一生のうちの仕事のかなり大きな割合を占めるテーマなのだけど、いまだに「子ども」がどう育つべきか、とか、どんなふうに過ごすべきか、といった、いわば子どもをめぐる終着点を描ききれずにいる。殊にストリート・チルドレンを、たくましく厳しい環境を切り抜けている存在として捉えることに重心をおくべきか、それともさまざまな意味での貧困状態にある彼らを慈しむことを中心に考えていくべきなのか、とか、まるっきり正反対な立ち位置の間を揺れ動いている。

この立ち位置を定められない背景には、「開発」のイシューや文化相対主義を構造的な平等主義の体現と見る古典的な「人類学」への憧憬といったものとか、ポストコロニアル的な論調に傾倒したことが絡み合っている。この混乱ぶりは、実際にアフリカの現場で過ごしているときに特に表面にでてきてしまう。きっと、あまりいいことではない。誰にも心からシンパシーを抱けないのだ。同じような悩みを共有しているであろう人たちが、JICAやNGOで懸命に汗をかいている姿に割りとつめたい視線を向けてしまう。

もちろん、「アフリカ子ども学」で言われる「子どもの目線から」ということの重要性は良くわかった。そして、これが実はなかなか実践できないこと、これは僕の子どもを対象とした人類学者としての資質のなさなのだけど、このことはこの前の調査での亀井先生の手法を見て痛感してしまった。これにチャレンジしなければならないことはわかっている。が、なんかこんなどっちつかずな立ち位置をどれくらい明確化していくか、ということはこんなことをしている限りずっと付きまといそうだ。

この忙しさで、自分が何をしようとしていて、どこでとまっているのかという意識が飛びそうだったので、思考の碇を下ろす意味での備忘録。

そんなことを言う視覚はない。

いろんなところで宣伝をしている「アフリカ教育研究フォーラム」。フォーラム本番まであと10日前後。そろそろ発表者の要旨の詰めをやったり、宿泊の手続きやら、当日の準備やら。いろいろと忙しくなってきている。

そんな中、やっぱりつまらん言い訳をしながら提出を遅らせる輩。ただでさえ忙しいのに益々忙しくなる。ブリブリしながら、ちょっと説教みたいなメールも送ってみる。まったくもう!

とやっていたら、他所からメールが来て、「早くタイトル出してくださいね」…僕もそんな輩だったことに気が付き、反省。ブログを書いている場合ではない。

遠藤哲夫(2013)『大衆めし 激動の戦後史-「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』筑摩書房

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いつか食文化がしっかり語れるようになりたい、と思って少しずつ集め出した「食」に関する本は、20冊に達しようとしています。人間の生活の最も基礎的なものでありながら、あまりにも生活に密着しすぎているためだろうか、なぜか語りにくい話題であったりもする。
【目次 細目はのぞく】 まえがき 「いいモノ」食ってりゃ幸せか 第1章 激動の七〇年台初頭、いとしの魚肉ソーセージは 第2章 クックレスの激動 第3章 米とパン、ワインとチーズの激動 第4章 激動のなか「日本料理」はどうだったのか 第5章 さらに日本料理、食文化本とグルメと生活 第6章 生活料理と「野菜炒め」考 第7章 激動する世界と生活料理の位置 あとがき 大衆食堂のめしはなぜうまいか
この人の言うことはいちいち鋭い。遠藤氏が指摘する「日本料理」が「創られた料理」であることは重々承知。でも、なんとなく、日本酒を飲りながらチミチミつまむあのスタイルには落ち着きを感じてしまう。いわゆる「日本料理」は「料理」(加工)することよりも、素材の持つ味をいかにダイレクトに伝えるか、むしろ、素材をいじらずにいかにそのまま出せるようにするか、というところに美徳があると遠藤氏は指摘する。たしかに。小皿がチミチミあって、なんか食べた気はするけど、なんか「めし」な感じはしない。食事マナーまで含めて、どこか、形式論的な感じがして、「食事」本来の意味を再考させられる。

こういう、形式的なものがどこまで重要か。学問の世界でも、形式を文化と捉える動きがあった一方で、その反動として、生活の中にある顕在化しない形式を抽出しようとする動きがあった。歴史学のアナール学派がその代表だろうし、文化人類学では、そもそも社会の構造をあぶりだそうとしたわけだから、何か形式的なものを懐疑的に見る、という思考性では共通していると思う。この著者には、こういう反骨精神を感じる。

この本で一貫しているのは、ずいぶん長く続くグルメブームへの批判的なまなざしと、「めし」(この響きはとても好きだ)を食うという人間の根幹をなす営みを再考せよ、というメッセージだろう。そして、雑学的にも面白い情報がたくさん載っているのもよい。

統計調査の集計作業中①

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何度かこのブログにも書いた、ストリート・チルドレンの統計調査。7月末(雨季)に2度目を行い、乾季と雨季に統計調査を行う、というのは終了。早速…データ処理を行いたかったのだけど、所内イベントやらに振り回されて全く手がつかず、ようやく、数日前から入力を始めている。

正直、思っていたほど子どもの数は多くなかったし、2009年に同じような方法で行われたときに、数千人という数はどこから出てきたのか、というあたりも疑問だし、NGOは最近あまり現場に出てないな、ということも思った。いろいろ思うところはあるものの、それでも2度の調査で取れたデータは600近い。毎日すべての時間をこれに費やすわけにはいかなくて、合間合間に打ち込んでいく、という作業だ。

僕もこの調査の現場にはいたのだけど、5つのチームに分かれて行ったこの調査。すべてを見ているなど、そんなことはまずなくて、協力者が取ってきてくれた調査票をデータ化しているのだけど、そこからいろんな光景が見えてくる。殊に、街にやってくる彼らの動機に最も多く語られるのが、「仕事を探しにきた」というもので、時々書かれている「仕事を探しに来たのだから帰るわけがないだろ」という彼らのコメントを見るにつけ、「子ども」に付与されたイメージがかく乱される。

歴史上、子どもが創造されたものであるという議論はとても有名だけど、僕らの世界の子ども観とは全く違う。かと言って、西欧の近代以前のようか、というとそれも違う。決して親も子どもも教育機会をあきらめていないし、むしろ、「学校とか塾に行かしときゃ教育はOK」と思っている日本の親よりもよほど教育にかける希望や要望の度合いは強い。子ども達の中にも、ヴァカンスの間に物乞いをして、そのおカネで学校に行くという子もいるほどだ(本当かどうかは知らないけど)。

またこのことは機会を見て書こうと思っているけど、まずはデータ。しっかりまとめねば。


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日本子ども学会 第11回子ども学会議 シンポジウムB「文化的・社会的環境で育つ子ども-アフリカ子ども学の試み」

「アフリカ子ども学」研究会は毎年何度か研究会や学会での発表を行っています。今年は、IUEAS(国際人類学民俗学連合)での発表、ブルキナファソ大使館で勉強会、そして、この子ども学会での発表を行いました。
9月27日、28日に行われた日本子ども学会に「アフリカ子ども学」研究会の面々がご招待を受けました。シンポジウム(28日)をお任せいただきました。
発表者とタイトルは…
亀井伸孝(愛知県立大学)「アフリカ子ども学のねらい:私たちがアフリカから学べること」 竹ノ下祐二(中部学院大学)「ガボンの村の小学校で動物界がコンクールをやってみた」、 山田肖子(名古屋大学)「アフリカ子ども学の経緯とねらい」、 清水貴夫(地球研)「ストリート・チルドレンから「アフリカ子ども学」を考える」. 安藤寿康(慶応大学・座長) 
私の分だけですが、アブストラクト(掲載済み)を。 ********************************************************** 「アフリカ子ども学」研究会では、①アフリカの子どもに付与された(主にネガティブな)イメージからいかに解放させるか、②多様な環境に置かれるアフリカの子どもを学ぶことにより、日本で語られる「子ども」のあり方を照射する、という二つの大きな問題意識を共有している。本発表で提示するのは、西アフリカの内陸イスラーム文化圏に属するブルキナファソの都市部の、いわゆるストリート・チルドレンの事例である。特にテーゼ①に関連した事例を通して、付与されたイメージと子どもたちの生活の間の乖離を明らかにして、ネガティブ・イメージのもつ危険性について主張していきたい。 一般的に、ストリート・チルドレンは、都市部を徘徊する大人の保護や教育を受けていない子どもたちのことを指す。先回りしていえば、重層的な弱者性が付与された子どもであることが付け加わる。重層的な弱者性とは、子どもという弱者性、おとなの庇護から逸脱した状態にあるという弱者性、さらに、貧困や野性などアフリカの未開性に通ずる弱者性など、いわばアフリカ子ども学が解放を目指すネガティブ・イメージがいくつも重なったものだという意味である。しかし、そもそも生まれついてのストリート・チルドレンなど存在しないのは自明だが、こう呼ばれる子どもたちには生育環境の共通性があり、このことと彼らの見た目や行動を外部者がラベ…

第14回アフリカ教育研究フォーラム

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かれこれ4回ほど発表させていただいた「アフリカ教育研究フォーラム」。
今回は、地球研にお迎えして開催します。合宿形式で、懇親会はBBQ。発表件数23件です。聴講希望者はまだ受け付けていますので、ご希望の方がいらしたらお問い合わせください(メールアドレスをお忘れなく)。

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西条セミナー①

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もう10日ほど過ぎてしまったが、所内のイベントで愛媛県西条市に1週間ほど滞在した。当初はいくつかの大学に声をかけて大学生を中心として、地球研や愛媛大学などの知見をシェアしようという(たぶんそんな)企画。
数年前から尾道に伺うようになって、急に瀬戸内とのつながりが出てきたのだけど、今回の西条訪問も瀬戸内探索の一ページになった。
宿泊をしたのは、西条自然の家。山本さんという、元学芸員の方が責任者を務めている。伊予西条の駅を降り、車で山道を約30分ほど走ったところにある。途中には加茂川が流れ、その川沿いに黒瀬ダムがある。

9月とは言え、まだまだ緑は濃い。そして、(写真では出ていないが)清流は蒼い。川の水の蒼さは、後の聞くところによると、この付近の銅山に関係しているという。緑青というやつだ。なので、水は澄んでいるが、「飲まない方がよい」とのこと。


自然の家は石鎚に続く山間部の小さな集落の中にある。100数十年前にできた小学校、昭和63年に閉校になってそこに行政が介入してできた。建物もロケーションもとても雰囲気がある。建物の横には実に美しい清流が流れ、岸から見ても魚影が見えるほど。一緒に行ったボスによれば、アユやらイワナやらが獲れるらしい。


そして、夜は毎日のようにたき火を起こす。みんなで一杯やりながら静かに語る。大学生2人がいじられ、研究の話や将来の話を、寒くなるまで語り合う。

その他のアクティビティもいろいろ。地球研グループはいくつかの高校に分かれて講演会をこなしたが、その間、大学生や空いているメンバーはコンニャクを作ったり、竹細工を作ったり。失ってしまった僕らの祖先の業を学んだ。

まだまだ写真があるので、また機会があればこの続きを。