子ども研究に関する備忘録

昨日のブログに誤字があったのだけど、忙しさにかまけて適当な文章を残した自分への戒めのためにそのままにしておく。「視覚」は正しくは「資格」。

アフリカ子ども学、たぶん僕の一生のうちの仕事のかなり大きな割合を占めるテーマなのだけど、いまだに「子ども」がどう育つべきか、とか、どんなふうに過ごすべきか、といった、いわば子どもをめぐる終着点を描ききれずにいる。殊にストリート・チルドレンを、たくましく厳しい環境を切り抜けている存在として捉えることに重心をおくべきか、それともさまざまな意味での貧困状態にある彼らを慈しむことを中心に考えていくべきなのか、とか、まるっきり正反対な立ち位置の間を揺れ動いている。

この立ち位置を定められない背景には、「開発」のイシューや文化相対主義を構造的な平等主義の体現と見る古典的な「人類学」への憧憬といったものとか、ポストコロニアル的な論調に傾倒したことが絡み合っている。この混乱ぶりは、実際にアフリカの現場で過ごしているときに特に表面にでてきてしまう。きっと、あまりいいことではない。誰にも心からシンパシーを抱けないのだ。同じような悩みを共有しているであろう人たちが、JICAやNGOで懸命に汗をかいている姿に割りとつめたい視線を向けてしまう。

もちろん、「アフリカ子ども学」で言われる「子どもの目線から」ということの重要性は良くわかった。そして、これが実はなかなか実践できないこと、これは僕の子どもを対象とした人類学者としての資質のなさなのだけど、このことはこの前の調査での亀井先生の手法を見て痛感してしまった。これにチャレンジしなければならないことはわかっている。が、なんかこんなどっちつかずな立ち位置をどれくらい明確化していくか、ということはこんなことをしている限りずっと付きまといそうだ。

この忙しさで、自分が何をしようとしていて、どこでとまっているのかという意識が飛びそうだったので、思考の碇を下ろす意味での備忘録。

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