明けましておめでとうございます。

2010年になりました。


昨年お世話になった皆様、どうもありがとうございました。今年もひとつよろしくお願いいたします。


年越しはオヤジ氏の店にて、楽しい仲間たちと過ごし(途中であまりに眠くて離脱…)、初日の出を見に行き(やはり眠くてボーっとしている間に日の出)ました。帰宅後、持参した餅などで雑煮をみんなで食べ、かろうじて正月らしくなる。そして、爆睡…


年末年始で、調査もあまり動きがないことをいいことにちょっと飲みすぎの日々。すでにそろそろケツに火がついて来たので、元旦から始動することにした。今回のメイン調査ではないが、ワガドゥグのハウサの歴史の聞き取りを行っている。聞き取った内容を少しまとめてみる。

ワガドゥグの形成史を考えるとき、最大民族のモシを中心に考えるべきことは当然。すでに、1960年代からE.Skinner氏によって分厚い民族誌としてその研究成果が世に出ている。しかし、モシという単一がワガドゥグを形成したわけではない。現在の北ガーナのダコンバやマンプルシが北上して現在のモシ王国を形成したが、どうも彼らは農耕を主たる生業とし、また比較的戦闘的な民族だったようだ。

現在調査しているハウサは東側から、そして、西側からはマリンケがモシの領域に通商民として接触していたらしい。この人々は元々、ブルキナファソ北部のドリ、ジボ、ワヒグヤと言った地域で、マリンケとハウサの間の通商のためにコミュニティを形成していた。彼らが南下してくるのは、現在のガーナやコートジボアールから運ばれてくるコラの実の需要が高まったかららしい。

コラの実は、王やチーフへの貢物として、西アフリカ全体に通じている。現在でも、たとえば、マリのドゴンの村を訪れるときには、儀礼的に村のチーフにコラの実を渡して、入村を乞うことをする。ワガドゥグにもその名残はマーケットにあり、大モスクの裏には、コラの実のマーケットが存在する。しかし、現在のこのマーケットには、ハウサ商人は一人もいない、という。なぜか。1950年代までは、5人ほどのハウサ商人がいたが、これらはモシの商人にとって代わられた、という。まず、ハウサの通商をはためで見ていたモシの商人は、ハウサの商法をまねするべく、ハウサ商人についてコラの仕入れを覚え、コラの商売を始めた。そして、ワガドゥグ近辺のモシがハウサからもコラの実を仕入れる中で、前借り+未払いが横行して、ハウサはとうとうコラの商売から撤退した、という。

ハウサのワガドゥグでの貢献は、こうした経済的なものだけではない。一方で、イスラームを持ちこんだのもハウサである(マリンケも同様の働きをした)。

これまでも、モスクやコーラン学校への潜入を試みたが、一度たりとも入れず、文献も少ないため(勉強不足!!)、私の中ではブラックボックスだった。おそらくワガドゥグの研究をするには、一番大事な部分だったのだが…

ただ、この話から、ワガドゥグのイスラームの起源がぼんやりと見えてくる。ハウサ自体がフラニの支配を受けてイスラーム化している、フラニのイスラームはセネガルのイスラームの影響化にあり、これがさらに西下してブルキナファソの地域に広まったと考えるのが順当だろう。

そんなわけで、ワガドゥグの経済的、宗教的に大きな影響を及ぼしたハウサ。来週は今回の受け入れの先生と会い、今回の調査の打ち合わせを行い、そのままトラムダキュイのハウサの家を中心に調査をする予定。

そんなわけで。何とか元気にブルキナファソで新年を迎えることができ、さっそく調査に掛っている。

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