『街場のメディア論』内田樹 光文社新書 2010②

この本、もう少し。

先日、教育論を少し紹介したところで、2章以降のメディア論に移る。内田氏は以下のような論点を提示する。


論点1. 「マスメディアの凋落」
論点2. マスメディアが没落してゆくのだとしたら、いったいそれに代わって、どのようなメディアモデルが登場してくるのか。
論点3. 「インターネットとメディア」
論点4. 「コピーライト」の問題。
論点5. 「書物」は存続するのかという問い。


こうした論点の中で、特にテレビが批判される。たとえば、「ジャーナリストの知的な劣化」がITの
発達によって顕在化したことが指摘される(p.38) 。そして、日本のテレビ局と新聞社の企業の構造がテレビの存在意義を損なう根本原因だという。


個人的には、二つ目の話はよくわからないのでコメントしないが、前者に関しては日々実感させられる。ジャーナリズムが批判的でなくなったら、それこそ存在意義はないわけだけど、批判と中傷は違う。ジャーナリズムの劣化は、彼らが学んでいないから、しゃべることがなくて、敵(権力)を作り上げて、大したことのないことを揚げ足をとるだけしかできなくなっていることに見られる。


たとえば、今日の「報道ステーション」でもそうだ。二本松のマンションから放射能が検出された。その原因は、セメントに使った砂利が原因だったわけだけど、古館氏はまあおいておいて、解説者氏は、この犯人を捜し始めたのだ。ほかの方はどのように思っているかわからないけど、少なくとも、小市民たる僕の気持ちは、古舘氏も解説者氏も全く代弁していない。別に東電をつぶしてもまったく面白くない。



「「世界の成り立ち」について情報を伝えることがメディアの第一の社会的責務」だとすれば、「こんなことが許されていいんでしょうか」と言って、メディアが違う次元に逃げたうえでものを語る、内田氏流にいえば、「こんなことが起きるなんて信じられない」という顔つきはまったく恥ずべきものだと思う(p.56-58)。

とりあえず『弱者』(に見える方)の味方をしてみる、「クレーマー」化したメディア…「政治=権力」が悪で、「民衆=大衆」が善。たぶん、メディアリタレシーという言葉(最近聞かなくなったな)があるけど、こんなテレビメディアをリタレイトしようと思ったら、彼らが報道することを全部疑ってかからないといけないから、メディアを受容するのはずいぶん骨の折れる作業になるな。

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