奥田愛基さんの陳述(アーカイブ[メモ]用)

昨今世間を騒がせていた、大学生を中心とする団体、SEALDsの奥田愛基(おくだあき)さんが国会の参議院中央公聴会で陳述を行った。その前文を東京新聞のWeb版より拾ってきた。
もちろん誰かのアドバイスはあっただろうが、この陳述は本当によく出来ていると思う。問題点をシンプルに指摘しており、理知的。とても僕の出身校の学生が書く文章には見えない。少し安心したのが、問題点が、「民主主義の堅持であり」、9条の堅持に集約されていなかったところで、おそらくその辺りはずいぶん意識したのだろう。今回のデモの求心力となっているのが、安保関連法案のこれまでのプロセスに対するもので、一部の政党の主義主張に偏っていないことだとすると、この陳述は十分にそのことを言い表している。そして、その先にあるのが、政治「家」への批判であって、与野党を含め、この陳述には傾聴し、真摯に応えていくべきだと思う。選挙のみが政治家生命を決めるものではない、ということだ。
Twitterでブルキナファソの政変の話と比較してみたが、個人的には、SEALDsのメンバーが政治「家」にならないように、この陳述の中にあるように、一市民として政治を監視していく、という姿勢を崩さないことが(仮に安保関連法案が通ったとしても)重要。そうであれば、存在そのものが価値を持ってくると思う。
僕自身、この先もサイレントマジョリティであり続けるように思うが、この陳述を見る限りにおいて、彼らの運動は注目してみていこうと思っている。
■■■『東京新聞Tokyo web』(2015年9月16日閲覧)より□□□
大学生の奥田愛基と言います。シールズという学生団体で活動しています。こんなことを言うのは非常に申し訳ないが、先ほどから寝ている方がたくさんいるので、もしよろしければ話を聞いてほしい。僕も二日間くらい緊張して寝られなかったので。僕も帰って早く寝たいと思っているのでよろしくお願いします。

◆保守、革新、改憲、護憲の垣根を越えてつながっている

 シールズとは、日本語で言うと「自由と民主主義のための学生緊急行動」だ。私たちは特定の支持政党を持っていない。無党派の集まりで、保守、革新、改憲、護憲の垣根を越えてつながっている。最初はたった数十人で、立憲主義の危機や民主主義の問題を真剣に考え、五月に活動を開始した。その後、デモや勉強会、街宣活動などを通じて、私たちが考える国のあるべき姿、未来について社会に問い掛けてきたつもりだ。
 話したいことは三つある。一つは今、全国各地でどのようなことが起こっているか。人々がこの安保法制に対してどのように声を上げているか。二つ目は安保法制に関して、国会はまともな議論の運営をしているとは言い難く、あまりにも説明不足だということだ。このままでは、到底納得することができない。三つ目は政治家の皆さんへの私たちからのお願いだ。
 第一にお伝えしたいのは、私たち国民が感じている安保法制に対する大きな危機感だ。疑問や反対の声は、現在でも日本中でやまない。つい先日も、国会前では十万人を超える人々が集まった。東京の国会前だけではない。私たちが独自にインターネットや新聞で調査した結果、全国二千カ所以上、数千回を超える抗議が行われている。累計して百三十万人以上の人々が、路上で声を上げている。
 調査したものやメディアで流れているもの以外にもたくさんの集会が、あの町でもこの町でも行われている。全国各地で声が上がり、人々が立ち上がっている。声を上げずとも疑問に思っている人は、その数十倍もいるだろう。
 強調しておきたいことがある。私たちを含め、これまで政治的無関心と言われてきた若い世代が動き始めているということだ。誰かに言われたからとか、どこかの政治団体に所属しているからとか、いわゆる動員的な発想ではない。この国の民主主義のあり方について、この国の未来について主体的に一人一人、個人として考え立ち上がっているのです。
 シールズとして行動を始めてから誹謗(ひぼう)中傷に近いものを含め、さまざまな批判の声を投げかけられた。例えば、「騒ぎたいだけだ」とか、「若気の至りだ」とかいった声がある。「一般市民のくせに、おまえは何を一生懸命になっているのか」というものもある。つまり、専門家でもなく学生なのに、もしくは主婦なのに、サラリーマンなのに、フリーターなのになぜ声を上げるのか、ということだ。
 しかし、先ほども説明したように私たちは一人一人個人として声を上げている。「不断の努力」なくして、この国の憲法や民主主義が機能しないことを自覚しているからだ。
 「政治のことは選挙で選ばれた政治家に任せておけばいい」。この国にはどこかそのような空気感があったように思う。それに対し、私たちこそがこの国の当事者、つまり主権者であること、私たちが政治について考え、声を上げることは当たり前なのだと考えている。その当たり前のことを当たり前にするために、声を上げてきた。
 二〇一五年九月現在、今やデモなんてものは珍しいものではない。路上に出た人々が、社会の空気を変えていった。デモやいたる所で行われた集会こそが不断の努力だ。そうした行動の積み重ねが、基本的な人権の尊重、平和主義、国民主権といった、この国の憲法の理念を体現するものだと私は信じている。
 私は、私たち一人一人が思考し、何が正しいのかを判断し、声を上げることは間違っていないと確信している。それこそが民主主義だ。安保法制に賛成している議員も含めて、戦争を好んでしたい人など誰もいないはずだ。
 先日、予科練で特攻隊の通信兵だった方と会った。七十年前の夏、あの終戦の日、二十歳だった方々は今では九十歳だ。ちょうど今の私やシールズのメンバーの年齢で戦争を経験し、その後の混乱を生きてきた方々だ。そうした世代の方々もこの安保法制に対し、強い危惧を抱いている。その声をしっかり受け止めたいと思う。そして議員の方々も、そうした危惧や不安をしっかり受け止めてほしいと思う。
 これだけ不安や反対の声が広がり、説明不足が叫ばれる中での採決はそうした思いを軽んじるものではないか。七十年の不戦の誓いを裏切るものではないか。

◆70年 平和主義引き継ぎたい

 今の反対のうねりは世代を超えたものだ。七十年間、この国の平和主義の歩みを先の大戦の犠牲になった方々の思いを、引き継ぎ守りたい。その思いが私たちをつないでいる。私は今日、そのうちのたった一人として、ここで話をしている。国会前の巨大な群像の中の一人として国会に来ている。
 第二に、この法案の審議に関してだ。世論調査の平均値を見たとき、はじめから過半数近い人々は反対していた。月を追うごと、反対世論は拡大している。「理解してもらうためにきちんと説明していく」と政府の方はおっしゃっていた。しかし、説明した結果、内閣支持率が落ち、反対世論は盛り上がり、法案への賛成の意見は減った。
 選挙の時に集団的自衛権に関して「すでに説明した」という方々もいる。しかしながら、自民党が出している重要政策集では、アベノミクスは二十六ページ中八ページ近く説明されていたが、安保関連法案に関してはたった数行しか書かれていない。
 昨年の選挙でも、菅官房長官は「集団的自衛権は争点ではない」と言っている。さらに言えば、選挙の時に国民投票もせず、解釈で改憲するような、違憲で法的安定性もない、そして国会の答弁がきちっとできないような法案をつくるなど、私たちは聞かされていない。
 私には政府が、法的安定性の説明をすることを、途中から放棄してしまったようにも思える。憲法とは国民の権利であり、それを無視することは国民を無視することと同義だ。本当に与党の方々は、この法律が通ったらどのようなことが起こるのか、理解しているだろうか。想定しているだろうか。
 先日言っていた答弁とはまったく違う説明を翌日、平然とし、野党からの質問にも審議は何度も何度も速記が止まるような状況だ。一体どうやって国民は納得したらいいのか。
 シールズは確かに注目を集めているが、現在の安保法制に対して、国民的な世論を私たちが作り出したのではない。もしそう考えているのなら、残念ながら過大評価だと思う。この状況を作っているのは、紛れもなく与党の皆さんだ。安保法制に関する国会答弁を見て、首相のテレビでの理解しがたいたとえ話を見て、不安に感じた人が国会前に足を運び、また全国各地で声を上げ始めた。
 ある金沢の主婦の方がフェイスブックに書いた国会答弁の文字起こしは、またたく間に一万人以上の方にシェアされた。ただの国会答弁だ。普段なら見ないようなその書き起こしをみんなが読みたがった。不安だったからだ。今年の夏までに、武力行使の拡大や集団的自衛権の行使の容認をなぜしなければならなかったのか。それは、人の生き死にに関わる法案で、日本が七十年間行ってこなかったことでもある。
 一体なぜ十一本の法案を二つにまとめて審議したか、その理由もよく分からない。一つ一つ審議してはだめだったのか。全く納得がいかない。結局説明をした結果、しかも国会の審議としては異例の九月末まで延ばした結果、国民の理解を得られなかったのだから、もう結論は出ている。今国会での可決は無理だ。廃案にするしかない。
 私は毎週国会前に立ち、この安保法制に対して抗議活動をしてきた。そしてたくさんの人々に出会ってきた。その中には自分のおじいちゃん、おばあちゃん世代の人、親世代の人、そして最近では自分の妹や弟のような人たちもいる。確かに若者は政治的に無関心だと言われている。しかしながら現在の政治状況に対して、どうやって彼らが希望を持つことができるというのだろうか。関心が持てるというのだろうか。
 彼らがこれから生きていく世界は、相対的な貧困が五人に一人と言われる超格差社会だ。親の世代のような経済成長もこれからは期待できないだろう。今こそ政治の力が必要だ。これ以上、政治に絶望してしまうような仕方で議会を運営するのはやめてください。何も賛成からすべて反対に回れと言うのではない。私たちも安全保障上の議論が非常に大切なことを理解している。その点に異論はない。
 しかし、指摘されたこともまともに答えることができない、その態度に強い不信感を抱いている。政治生命をかけた争いだというが、政治生命と国民一人一人の生命を比べてはならない。与野党の皆さん、どうか若者に希望を与えるような政治家でいてください。国民の声に耳を傾けてください。まさに「義を見てせざるは勇なきなり」。政治のことをまともに考えるのがばからしいことだと思わせないでください。
 現在の国会の状況を冷静に把握し、今国会での成立を断念することはできないか。世論の過半数は、明確にこの法案に対し、今国会中の成立に反対している。自由と民主主義のために、この国の未来のために、どうかもう一度考え直してはいただけないか。
 私は単なる学生であり、政治家の先生方に比べて、このようなところで話すような立派な人間ではない。正直に言うと、この場でスピーチすることも、昨日から寝られないくらい緊張して来た。政治家の先生方が、毎回このようなプレッシャーに立ち向かっているのだと思うと、本当に頭が下がる思いだ。
 一票、一票から国民の思いを受けそれを代表し、国会という場所で毎回答弁し、最後に投票により法案を審議する。ホントにホントに大事なことであり、誰にでもできることではない。それはあなたたちにしかできないことだ。
 では、なぜ私はここで話しているのか。どうしても勇気を振り絞り、ここに来なくてはならないと思ったのか。それには理由がある。参考人としてここに来てもいい人材かどうか分からないが、参考にしてほしいことがある。
 一つ、この法案が強硬に採決されるようなことになれば、全国各地でこれまで以上に声が上がるだろう。連日国会前は人であふれかえるだろう。次の選挙にももちろん影響を与えるだろう。当然、この法案に関する野党の方々の態度も見ている。本当にできることはすべてやったのだろうか。私たちは決して今の政治家の方の発言や態度を忘れない。
 三連休を挟めば忘れるだなんて国民をバカにしないでください。むしろそこからまた始まっていく。新しい時代はもう始まっている。もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっているのです。
 私は学び、働き、食べて、寝て、そしてまた路上で声を上げる。できる範囲でできることを日常の中で。私にとって政治のことを考えるのは仕事ではない。この国に生きる個人としての不断の、そして当たり前の努力だ。私は困難なこの四カ月の中で、そのことを実感することができた。それが私にとっての希望だ。
 最後に私からのお願いだ。シールズの一員ではなく個人としての、一人の人間としてのお願いだ。どうか、どうか政治家の先生たちも個人でいてください。政治家である前に、派閥に属する前に、グループに属する前に、たった一人の個であってください。自分の信じる正しさに向かい、勇気を出して孤独に思考し、判断し、行動してください。
 皆さんには一人一人考える力がある。権利がある。政治家になった動機は人それぞれ、さまざまあるだろうが、政治家とはどうあるべきかを考え、この国の民の意見を聞いてください。勇気を振り絞り、ある種、賭けかもしれない、あなたにしかできない、その尊い行動をとってください。
 日本国憲法はそれを保障し、何より、日本国に生きる民一人一人、そして私はそのことを支持します。困難な時代にこそ希望があることを信じて、私は自由で民主的な社会を望み、この安全保障関連法案に反対します。
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