2015年12月26日土曜日

Wazota:Papa de Burkina, Lion de desert, Djembe master歿す

ブルキナファソ滞在4日目。ご一緒している宮嵜さんの仕事も僕の仕事もとりあえず一段落。今日はそんなわけで、少し街を散策しながら、僕が修論を書いたエリアを見てもらいながら、お土産を買うことにした。Kwame Nkruma通りの旧友たちを紹介しながら、思い出話をしたり、民芸品を見せてもらったりした。2005年~2007年にかけて、いろんな意味でお世話になった友人たち、顔を見ると、やっぱりおっさんになってきているが、なんか味も出てきた気もする。

それにしても、ここ何年かはブルキナにいてもこうしてパソコンの前で作業をしていることが増え、ワガドゥグにいる間は、よほどのことがないと街をふらつくこともなくなってしまった。まだまだちゃんとフィールドワークもしなければならないのだけど、押し寄せる発表の資料作りや原稿を抱えながらで、致し方ない。そんなわけで、あの辺りをフラフラすること自体が少し感動的ですらあった。

そうやってラミン(僕の修論の主役)と話していると、NAYACという音楽集団のメンバー、ボストンに会う。「たまには寄れよ」というので、5年ぶりくらいだろうか、彼についていくことにした。この話はまた後日にしたいが、ボストンから、とても悲しいニュースを聞く。

2008年ころにワガドゥグを去り、クブリのアーティストのアソシエーションで暮らしていたワゾタWazotaが去年亡くなったと。話を聞いていると、アルコール性の肝硬変あたりだったのだろう。ワガドゥグにいるころから酒浸りだったが、田舎に引っ込んで、酒をやめて、メシを食べるようになったと聞いていて、おそらく最後に会ったときには、ずいぶんふっくらしたイメージがあった。


この写真が在りし日のワゾタ。やんちゃそうな表情のまま、とてもワイルドなおっさんだった。街中でも有名で、いわばトリックスター。

もともとは腕のいい仕立て屋で、彼の店はずいぶん売れていて、かなり儲かっていたとも聞く。しかし、ここはアフリカ。カネが入れば親戚や親友が増えて、彼の周りには人が群がる。そもそも人のいいワゾタは、どれだけ稼げど、右から左へ。何やらばかばかしくなったのだろうか、もうその時のことは本人に聞けないが、仕立て屋を辞め、自称ミュージシャンになる。僕が彼に会ったのは、それから何年か後のこと。時折ライブハウスでジェンベをたたいていたが、普段はしょっちゅう酒を飲んでフラフラ、ゲットーと呼ばれたたまり場に行ってはジェンベをたたいていた。


練習中というか、日常的な彼のプレーは、何度も見ていた。今日、訪れたNAYACで、そして道端で。とにかくキャラの立つワゾタのプレーはアグレッシブでワイルド。一打一打がとにかく強い。そして、彼の手は象の皮のように固かった。そのため、彼のたたくジェンベはきれいな高音だったのが印象的だ。

それから何年か。CDを出したりしたと言っていたから、それなりにミュージシャンとしては成功したのだろうけど、まあ、たいして儲かってはいないだろう。村でミュージシャン仲間たちと楽しく暮らしていたらしい。

音楽のことはともかくも。彼が印象的なのは、この写真のようなシーン。僕らがキオスクでコーヒーを飲んでいると、突然やってきて、演説をぶつ。フルベの血を引くワゾタは、こういう演説はフルベ語。ブルキナファソの第三の言語とはいえ、ほとんどの人がわからない。つまり誰も聞いていないのに、激烈に演説する。大っぴらに笑うと怒られるので、みんな下を向いて。

こんな都市の中で孤高の咆哮をあげるワゾタをみんなは親しみを込めて、「砂漠のライオンLion de desert」と呼んだ。

外国人の僕は彼にずいぶんたかられた。僕より10歳くらい年上のワゾタは、「お前のブルキナの父」と言い、子が父を養うのは当然だ、とかなんとか言いながら、メシ代(酒代)をせびられ、何にもなくても、100Fcfa、200Fcfa。タバコも我がもののように勝手に吸われた。

一度、メシ代をせびられたとき、「一緒に食おうよ」というと、ワゾタは渋々承諾。もちろん、酒が飲みたいのもわかっていて、彼が腹にたまるものが好きでないのもわかっていたが、遭えてスマ(バンバラ豆)を炊いたものを頼み、彼の前に出して「一緒に食おうよ」というと、烈火のごとく怒り、例のごとく、演説を始める。この時は回りも大爆笑。

いい思い出だな。

ブルキナの父よ、安らかに!

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