ネイションを感じるとき

僕ら人類学徒はネイションとかネイションステイツという言葉に敏感であるはずだ。間違いなく、例えば開発途上「国」と言ったときに、この概念が発動されるし、この概念がこれらの国/地域に住む人たちの生活を脅かしてきたと考えるからだ。

しかし、おそらく身体化されたネイションはふとした時に自らに最も近しいものとして感じられることがある。

本日の調査にて…

相変わらずクルアーン学校の巡検を続けているのだけど、調査助手のお宅で食事をとっていた時のこと、一人の男性が入ってきて、彼に何かを伝える。聞けば、以前調査に行ったマラブーが呼んでいるとのこと。食事をしたのち、そのマラブーは僕に見てほしいものがあると言って、書類の束を渡す。その書類は大使館の「草の根無償援助」の申請書だった。

このマラブーはフランコ・アラブという私立のイスラーム教育とフランス語教育を行う学校の校長先生で、地域のイマーム(礼拝を先導する人)でもあり、さらに孤児院の経営まで手掛けている人で、孤児院の方で書類を書きたいという。まだ施設は見たことがないのだけど、日本の援助資金は非常にとりにくい。実際、僕自身一度かかわったことがあるけど、その書類の多さは尋常ではない。おそらく、かなり難しいだろうと思う。

難しさについては少し説明して、でも何度も出さないとダメですよ、絶対あきらめないで、ということは伝えてみる。少し僕に対する期待は感じたけど、さすがにそこまで抱え込めないので、申し訳ないけどエールを送るだけにした。

別れ際、いつものごとく、長い演説調でいろいろなことを言われるのだけど、今回、「草の根」に応募しようと思ったのは、あなたがここに訪れてくれたからだ、と。お世辞でも嬉しいことを言ってくれる。でもきっと初めて訪れた日本人の僕のことは、きっとその時に本当に思い出したことだろう。僕はその嬉しさを感じた時、これがネイションの感覚なのだ、と実感した。そして、ここの所世界に迷惑をかけている日本というネイションを背負った人間として、何かしたいと、ものすごく青臭い気分になった。今更でちょっと恥ずかしいけど。

ナショナリズムに没入することで排他的になること、たとえば、最近の「ネトウヨ」なんかの気分はよくわからないけど、こんな少し元気になるようなナショナルなら歓迎だ。そもそもどこにも属さない人間などいないのだし。

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