ブルキナファソのイスラーム過激派による不安定化-② カッザーフィー(カダフィ)と西アフリカ

Wikipedia「ムアンマル・アル=カッザーフィー」より

ずいぶん長い時間がかかってしまったが、現在の西アフリカの政治を理解する上で、どのあたりから考えればよいのか、ということを考えていました。もちろん、根源はイスラーム化や西アフリカの王権について踏まえておくことが重要なのですが、そこから書くことは私の能力を超えているので、歴史家の仕事に一任することとし、ここ20-30年の大きな出来事に思いをはせれば、おそらくマグレブの影響はとても大きかったにも関わらず、余り注目されてこなかったような気がしています。なので、ある一区切りの歴史を振り返る意味で、「アラブの春」と西アフリカについて、カッザーフィーを中心に見ていこうと思います。

2010年から2012年にかけ、「アラブの春」と呼ばれる、アラブ諸国の「民主化」の大きなうねりがマグレブ諸国を中心に起こる。発端は、2010年12月17日にチュニジア中部のシディ・ブジドで起こった露天商の青年の焼身自殺だった。モハメド・ブアジジというこの青年は、いつものように露店で果物や野菜の販売を始めたが、販売許可がないとして地元の役人が野菜と秤を没収したうえ、女性職員から暴行と侮辱を受ける。ブアジジは没収されたものの返還を求めて複数回役所を訪れるが、役人から賄賂を要求された。再三の申し出を断られたブアジジは、午前11時30分、県庁前で自分と商品を積んだ荷車にガソリンをかけて焼身自殺を図る。その様子を撮影したブアジジの従兄弟のアリ・ブアジジがFBに投稿すると、アルジャジーラがそれを取り上げ全国にこのことが知れ渡る。ブアジジと同じく就職できない若者を中心に、就業の権利、発言の自由化、政治行政の腐敗の改善を求め、ストライキやデモが起こるようになる(Wikipedia「ジャスミン革命」)。

こうした民主化運動にあったが、その流れは周辺国に及ぶ。この記事で述べるリビアにも「アラブの春」の波は押し寄せ、リビアの「独裁者」ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)もその動きの中で命を落とし、中東の現代史に大きな変化をもたらした。(APF)

「アフリカ屋」の私がなぜリビアなのかは、後々述べるとして、今少しカッザーフィーを中心としたリビア情勢を復習しておきたい。

1942年にリビアの砂漠地帯(スルト)に生を受けたカッザーフィー。中東、アフリカが次々と独立を勝ち取った時代を生き、ナセルのエジプト革命に魅せられて西欧、キリスト教圏に対抗してアラブの統一を志す。14歳の時、スエズ危機で反イスラエル運動に参加する。中学を卒業したカッザーフィーは、1961年にベンガジの陸軍士官学校に進学し、在学中から当時リビアを支配していた「サヌーシー朝」の王家を打倒することを計画し、自由将校団を組織する。1969年9月1日にトリポリで他の将校と共にクーデタを起こし、当時病気療養のためにトルコ滞在中のイドリース1世を廃位して王政は崩壊、カッザーフィーが政権を奪取する。カッザーフィーらは、共和制を宣言し、「リビア・アラブ共和国」を建国し、「革命評議会」を最高政治機関とした(翌年、カッザーフィーが議長に就任)。1973年には、「文化革命」が始められ、「ジャマーヒリーヤ」(直接民主制)という国家体制の建設が推進される。「ジャマーヒリーヤ」(イスラーム、アラブ民主主義、社会主義を融合したカッザーフィーによる政治体制)を構築。1977年には「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」、1986年「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」と国名を変えながらも、ジャマーヒリーヤ体制を整えていく。カッザーフィー自身は、79年に公職を退いた者の、「革命指導者」の称号の下、実質上のリビアを主導し続けた。

このころ、すでにカッザーフィーの汎アラブ的な思想は十分に醸成されており、核兵器の購入を目指すなど、対西欧の体制を整えていた。これは外交政策にも反映され、パレスチナ解放機構を強く支持したり、サヘル地域のアフリカ諸国の自由貿易地域「サヘル・サハラ諸国共同体(CEN-SAD)」(下図)を創設した。CEN-SADには、ブルキナファソ、マリ、チャド、ニジェール、マリなどが初期メンバーとして参加しており、リビアの西アフリカでのパトロンとしての位置づけが鮮明となった。



冷戦期のカッザーフィーは欧米諸国に対立的で、1984年の駐英リビア大使館員による英国警官射殺事件、1986年の西ベルリン・ディスコ爆破事件等々、欧米やイスラエルに対する攻撃を強める。その反面で、アメリカはカッザーフィーの自宅を狙って空爆するなど、カッザーフィーの暗殺を試みるようになった。そして、1988年、パンナム機爆破事件が起こり、当時のアメリカ大統領のレーガンはカッザーフィーを「テロリスト」「狂犬」などと呼び批判し、アメリカから経済制裁を受けるようになる。

西側世界に激しく闘争を展開したカッザーフィーであったが、冷戦以降はその態度を若干軟化させる。パンナム機爆破事件に対する国家としての賠償、「9・11」後にはアル=カイーダ批判の急先鋒に立ち、2003年には核査察団を受け入れるなど、アメリカとの距離を縮め、2009年にはオバマ大統領と握手を交わし、アメリカーリビアの国交正常化に向けた流れができていた。

外務省2009(chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/af_data/pdfs/sokan.pdf)



(西)アフリカとの関係性はこのあたりがターニングポイントのようだ。Wikipediaによれば、「カッザーフィーの政治的関心が、各国間の対立が激しくて進展を見せない「汎アラブ主義」から、欧米との利害対立が比較的少ないといわれている「汎アフリカ主義」に移行しつつ」(Wikipedia「ムアンマル・アル=カッザーフィーの死」)あったとされる。2000年のアフリカ統一機構首脳会議では、カッザーフィーは地域統合の必要性を訴え、2002年にはアフリカ連合の改組ではリビアが主導的な役割を果たすなど、「狂犬」と呼ばれた西側諸国への態度を軟化させ、次第に「南」という枠組みでの連帯を目指していくようになる(上図)。

最初に述べた「アラブの春」。チュニジアのジャスミン革命はマグレブ諸国にも広がっていく。ジャスミン革命から3か月すると、カッザーフィーの退陣を求める欧州の影響を受け、反政府デモが発生し、間もなく欧州に支援を受けた旧王党派等、反カッザーフィー派の勢力が拡大した。同時期には国際的なカッザーフィーの政権からの追放の動きが強まる。2月26日には、国連安保理は全会一致で「国際連合安全保障理事会決議1970(リビアに内戦の即時停戦を要求した)」を採択し、6月27日には、国際刑事裁判所で人道に対する罪を犯したとしてカッザーフィーに逮捕状を請求、国際手配を行った。そして、2011年8月24日にカッザーフィーは自身の居住区から撤退し事実上政権が崩壊する。

反カッザーフィーの評議会軍は9月21日に南部サブハ、10月17日にバニワリドを制圧し、10月20日にカッザーフィー最後の拠点であった、スルトを制圧し最後は、NATO軍(フランスのミラージュ2000とアメリカの無人攻撃機)によりカッザーフィーが逃亡する車列を航空攻撃して破壊、近郊の下水排水溝に逃げ込んだカッザーフィーは反カッザーフィー派部隊に拘束されてその場で「死亡」した。カッザーフィー殺害の具体的なプロセスでは、国際法上の責任論(身柄拘束が原則だったのに、その場で殺害したこと、NATOの関与の度合い)など、様々な議論が噴出する。

一連の「アラブの春」の民主化の嵐の結果、アラブ世界の政治的風景は大きく変わった。AFPが以下のようにまとめてくれているが、何人もの独裁者が政治の表舞台から姿を消し、西欧的な「民主主義」への道を歩み始めたように見える。こうした動きは民主主義というイデオロギーの世界を広める、という意味では正しいことだったのかもしれないが、それが人びとを幸せにしたか、と問われるとそこにはたくさんの疑問符が付く。

AFP20201217「【図解】「アラブの春」支配者たちのその後」(https://www.afpbb.com/articles/-/3321416)

ベルベルのカッザーフィーがバランスを取っていた、と言われる西アフリカ情勢。カッザーフィーが殺害されて間もなく、2012年にはマリでの戦闘が始まる。リビアと西アフリカの関係を指摘した記事は枚挙に暇がないが、いくつか紹介しておく。

イスラム武装勢力が南部に進軍するきっかけとなったのは昨年12月に採択された国連安全保障理事会決議第2085号。暫定政府に北部を奪還させるアフリカ主導による国際マリ支援部隊(AFISMA、期間1年)の派遣を承認したためだ。それに武装勢力側が反発した。」(EU MAG20130315)

「情勢を変える引き金を引いたのは、カダフィ独裁政権打倒で終結した2011年のリビア内戦だ。石油マネーにモノを言わせてカダフィ大佐が買いあさった近代兵器が内戦のどさくさで大量に国外に流出、マリ北部の反政府組織の手にも流れ込んだ。傭兵としてカダフィ政権側に参加していた遊牧民トゥアレグ族民兵も帰還し、状況は流動化した。

マリ北部はトゥアレグ族住民の自治や独立を求める運動が強い地域。昨年3月に一部国軍兵士による軍事クーデタが発生し国内が混乱する間に、反政府勢力が北部主要都市を制圧。直後の4月にはトゥアレグ族武装勢力「アザワド地方解放国民運動」(MNLA)がマリ北部の独立を宣言した。大統領が辞任し、暫定政府に移行するなど中央政府の混乱に乗じる形で、「マグレブ諸国のアルカイダ」(AQMI)などアルカイダ系武装勢力がMNLAを排除し、北部の実権を握った。(EU MAG20130315)

西アフリカはその後10年以上にわたり、こうしたテロとの戦いの渦中に放り込まれた。人間には寿命があり、カッザーフィーがその時殺害されなくとも、いつかこうした時が訪れたのかもしれない。しかし、私には軟着陸する可能性もあったのではないかと思っている。

【参考資料】

NHK「中東解体新書」, 20210324, 「アラブの春は「挫折」したのか」https://www3.nhk.or.jp/news/special/new-middle-east/10years-after-arab-spring/

EU MAG, 20130315,「マリ情勢をめぐるEUの対応」 https://eumag.jp/behind/d0313/

Wikipedia「ムアンマル・アル=カッザーフィーの死」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AD%BB

東京新聞ウェブ2021年10月27日「リビア・カダフィ大佐殺害から10年 懐かしまれる「独裁者」の功罪とは」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/139192)

東京新聞ウェブ2021年10月22日「カダフィ大佐殺害から10年 リビア民主化いまだ実現できず 外国勢力介入で混迷」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/138349)

https://www.foreignaffairsj.co.jp/articles/201504_kuperman/

朝日新聞 「ISやアルカイダに忠誠 西アフリカで武装勢力が過激化」

https://www.asahi.com/articles/ASM5H20RJM5HUHBI00L.html

https://vovworld.vn/ja-JP/%E8%A7%A3%E8%AA%AC/%E8%A5%BF%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%81%AE%E6%83%85%E5%8B%A2-77429.vov

https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM12010_S1A910C1EB1000/

https://www.asahi.com/articles/ASS2X4GM0S2TUHBI013.html

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37011

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC

ムアンマル・アル=カッザーフィー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC#%E5%AE%B6%E6%97%8F

佐藤章 https://www.jstage.jst.go.jp/article/africareport/55/0/55_1/_html/-char/ja

佐藤章 イスラーム主義武装勢力と西アフリカ 

吉田敦2017「西アフリカにおける麻薬密輸ネットワーク 」




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