南出和余2015『「子ども域」の人類学 バングラデシュ農村社会の子どもたち』昭和堂



亀井伸孝先生の『森の小さな<ハンター>たち 狩猟採集民の子どもの民族誌』に続く「子ども」の民族誌。以前、学会でご発表をお伺いして、非常に興味のある研究だったのですが、なぜか購入するのが遅くなってしまいました。

目次は以下の通りです。人類学の研究では、通時的研究(時間軸に焦点を当てた)と共時的研究(同時代の空間や観念に焦点を当てた)というわけ方をします。多くの場合、通時的研究は、ある社会を歴史的に見ることで、その社会の基層文化を明らかにしようとする考え方ですが、人間のある「期間」の捉え方、これを通時的と理解するのは少々乱暴ですが、「子ども」という期間と、その期間に起こる変容を「域」という南出さんの独自の視点で捉えているのがこの本の特徴ではないでしょうか。

この本のキーワード、「子ども域」は次のように捉えられています。

「子どもたちは日常生活のなかで、成長にともなって社会での位置や役割を次第に確立し、ずらしていく。それらは、彼らが他者との間で展開する相互行為を通じて築かれていくものであるが、そのプロセス自体は行為者である子どもによるものである。この交渉を経て、子どもは「子ども文化」を築きながら同時に社会の成員として社会に「参加」していく。ある部分はおとなになるにつれて失われ、ある部分は個人のなかに内在化される。この交渉領域では、子どもたちは「子ども」という社会的制約にありながらも自由な実践を展開する。制約は、子どもがいずれ子どもでなくなるという現実に支えられた一過性のもので、個にとっては常に可変的で不連続である。また、社会が「子ども」をどう認識しているかによっても大きく異なる。「子ども域」とは、この領域を指すと同時に、その実態を捉えるための概念である」(23、強調は清水)

この定義の部分だけを読んでいると、「子ども」の期間に起こる「子ども」の主体的な変容とそのプロセスと読めて、どちらかというと、変容に重きが置かれるのですが、終章では、次のように述べられます。

「バングラディッシュの子どもたちに見られる「子ども域」という領域は、いわば、ねじの「あそび(ゆとり)」のようなものではないだろうか。ぶらぶら(ぐらぐら)していても「ブジナイ(わからない)から仕方がない」として許される。子どもたちには「ねじを締めない」という選択はゆるされないけれど、どのくらいのペースで、どのように締めるかは、子どもたち自身に委ねられている。子どもたちは、家庭での手伝いや、集団遊びを介した子ども同士の関係を通じて、自らそのねじを締めてゆく。そして、通過儀礼の社会的意義は、ねじが締まっていることを示す「カチッ」という音のように、社会にそのことを知らせることにある。「あそび」があることは、そのねじ(社会の構成員としての子ども)が機能する上では障害になるが、物体そのもの(社会)においては軋轢摩擦を吸収する上で、ときに有効不可欠なものである。」(194)

「「子ども」という期間と、その期間に起こる変容」と書いたのは、やはり時間軸も含みこんだ分析概念なのだ、ということが浮かび上がってきているように読めます。あえて「子ども時代」とか、「子ども期間」と呼ばずに、「域」として示すのは、(多少ぼんやりしたイメージを持ってしまいましたが)次元を広く持つためだったのではないでしょうか。

この本はとても豊かな内容の本で、南アジア地域研究や発達心理学、教育学その他いろいろなテーマが盛り込まれています。なので、すべてをまとめることはできませんが、最後に一つだけ。

この本を読んで、僕はとても強い嫉妬心に駆られました。購入したのが遅くなったのも、実はそのため。何に嫉妬したか、というと、南出さんのフィールドワークに対してです。この本のいくつかあるテーマの一つは、「子ども」研究への貢献にあると思うのですが、僕自身、いろいろな方法を試してみるけど、これが実はとても難しいのです。風貌やそれ以前のそこでの立場もありますが、なかなか子どもの世界には入り込めない。多分、一番大きいのは「演技力」のように思うのですが、子どもと同じ行動をとることはとてもとても難しいのです。これは、亀井先生と一緒にフィールドに入ったときに思ったのですが、亀井先生は子どもと同じように大人に怒られるんですね。僕は多分大概の人には叱れない。僕の場合は、NGOなどにいたために、どうしても大人よりも大人な立場に規定されてしまう。でも、南出さんは、たぶんもう少し中間的な位置にいたのではないかと思わせる記述が多かった。そうか、これくらいのポジショニングにいると、ずいぶんやりやすいだろうと、また、そういう位置を確保できたフィールドワーカーとしての能力をうらやましく思ったのです。

これまでに文化人類学の「子ども」研究は細々とですが、でも脈々とその実績を出し続けています。僕は子ども研究とあそび研究があまりにも近すぎるというところに疑問を持っているのですが(それは僕の幼少時代の体験があるからかもしれません)、それでもこの本には儀礼の話や、家庭と学校を横断する子どもの空間世界が豊かに描かれていて、おそらく日本における子どもの民族誌的研究書では最初の亀井先生の著書とは違う子ども研究の側面を見せてくれているように見えました。

【目次】
序章 「子ども域」という視点
第1節 子どもの変化と多様性
第2節 「子ども」の文化人類学
第3節 「子ども域」議論の経緯
第4節 「子どもの視点」のフィールドワーク
第5節 調査地の概況-バングラデシュ農村社会の社会構造と現状-
第6節 本書の構成

第1章 「子ども」とは誰か-バングラデシュ農村社会の「子ども観」-
第1節 意味的存在としての「子ども」
第2節 開発と子ども-「バングラデシュの『かわいそうな』子どもたち」言説-
第3節 「子ども」認識
第4節 「ブジナイ」子どもたち

第2章 日常生活の「子ども域」
第1節 子どもの日常実践を捉える
第2節 日常生活二四時間の記録
第3節 行動の変化
第4節 生活空間の変化
第5節 広がる人間関係

第3章 「子ども域」の子どもたち
第1節 「子ども社会」
第2節 遊びのなかの調査
第3節 集団遊びの段階的変化
第4節 男女別集団形成-「一緒に遊ばない」という意識-
第5節 「正しい行為」の認識-「わかっているわたし」-
第6節 遊び仲間の関係

第4章 通過儀礼と「子ども域」
第1節 通過儀礼
第2節 男子割礼とは
第3節 二人の男子の割礼儀礼
第4節 儀礼の現代的変化
第5節 子供たちの積極的受容と認識
第6節 女子の成長の文化的規定

第5章 社会変容期の「子ども域」-教育第一世代の子どもたち-
第1節 初等教育の普及
第2節 教育第一世代の子どもたち
第3節 複線的な学校普及
第4章 用幸の学校環境
第5章 学校選択の背景と学校イメージ
第6章 子どもたちの学校選択

終章
第1節 「あそび」としての「子ども域」
第2節 「子ども域」の条件
第3節 文化装置としての「ブジ」「ブジナイ」
第4節 「子ども域」という視点がもたらすもの

エピローグ




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