2014年11月10日月曜日

ハラールと日本の文化的障害について

近年のムスリムの増加に伴って、日本でもかなりハラール食品が買えるようになってきたし、大学の学食でもハラール・メニューを置いてあることが珍しくなくなってきた。もちろん、まだまだこうした動きは鈍いとする向きはあろうが、この辺に批判を加えても努力している方に悪いので、「がんばれ」というにとどめて、ちょっと違う話を。

これから書く話をふと思い出したので、こんなことを書こうと思ったわけなのだけど、日本という国はあまりに便利すぎてつまらない、ということをいうヒトは少なくないだろう。ハラールフードについても、いずれ、不便がなくなるのだと思うけど、少し不自由なときには、いろいろな話が出てくる。人が死んだりしない限りは後々笑い話にできるから、少し不自由な時代、それはそれで面白いものだ。まじめにやっている方には申し訳ないのだけど、僕はこれくらいの方が好きだ。

思い出した話というのは、勤務先の向かいにある大学にお勤めのマリ人の先生から聴いたものだ。この先生、ウスビ・サコ先生と言って、建築学を中国、日本で修められた方。日本在住ははや10年を超える。先日研究会にいらしていただいた後の懇親会でのこと。日本にいらしたばかりの頃のことを聞いた。

サコ先生は、日本では豚をたくさん食べることを知る。イスラームの多いマリから来た方にとって、ここはちゃんと気をつけなければならない。豚を「ブタ」を呼ぶことは覚え、外で食べるときは、お店の人に「ブタ」がはいっていないものを食べていた、という。そして、同じマリ人の知人から、「トンコツ」ラーメンの美味しい店を紹介され、それからしばらくこれにはまってしまう。が、「ブタ」の入っていない「トンコツ」などあるわけもなく、ある日、このことを知る。「豚」を「トン」と呼ぶことを教えてくれよ!(笑)。「トンカツ」も好きだったのに(という話だったと思う)。

書いてしまうと別に面白くもないが、日本で用いる漢字には音訓があり、というのはハラールの文脈では乗り越えがたい。文化的な「障害」、と言ったほうがいいかもしれない。こういうところは、ムスリムだろうが、なんだろうが、やはり学んでもらうしかない。その上でのハラールフードだ。

話は変わるが、昨今大学(特に大学院)では、英語で講義をやるところが増えている。やはりどうしても英語でのインパクトが少ない日本、ワールドスタンダードを考えればそうなるのだろうけど、そろそろ行きすぎなレベルに達してしまいそうな気がする。アフリカ研究を考えれば、現在の日本、おそらく世界のトップクラスにあると思う。年間に出版される本の数や論文数は少なくないし、研究者の進出は非常に盛んだと言っていいだろう。以前、どこかで「君の論文はどこで読めるの?」と聴かれて、「日本語でしか書いてませんよ」というと、「翻訳は?」と言われたので、「予定はありません」と。あまり「正しい」ことではないけど、僕はこんな風に思ってしまう。「読みたければ、日本語を勉強してください。僕らは、現地の言葉にたどり着くまでに、英語とフランス語を勉強してきています。あなたは現地の言葉しか勉強していないですよね?」。

「ブタ」の話とは大幅に違う話になったが、いずれも日本という文脈が横たわっている。日本という文脈も一律なものではないし、常に変化し続けるものであるが、無理をして捻じ曲げたり、辺にワールドスタンダードに阿ることはどれほどの意味があるのだろう?もちろん、多様さに気を使わねばならないけど、もっと「学んでもらう」ということも考えたほうがいいのではないだろうか、と思う。



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