ブルキナファソの政変②-b デモ行進当日

この記事もずいぶん遅くなってしまった。2か月くらい前にメモをつけはじめて、途中に再度調査をはさんだのだけど、先日の調査では革命成立の高揚感はすでに過去のモノ。こういう仕事、集中して早いところ済ませないと、と思った次第。しかし過ぎた時間は取り戻せないので、とにかく少しずつでも書いていきます。

今回は、デモ行進当日です。12月の調査の際には、すでにいくつもの媒体がこの当時の様子を時系列的に伝えており、聞き取りをしなくてもかなりの情報量があります。ただ、今回は主にJeune Afriqueの記事を元に書きます。

10月28日(火)
8:00 第2の都市、ボボ・ディウラッソで反対派の呼びかけにより数千人規模のデモが起こる。(前日27日夕方、すでに一部の若者たちが街中の商人、労働者に対してデモのことを喧伝していた)。M21運動、Balai citoyen、UPC、MPPと言ったNGOは反対派の動員数の優位性を発表。
(http://burkina24.com/2014/10/28/bobo-une-maree-humaine-contre-la-modificaation-de-la-constitution-burkinabe, 2015年1月5日閲覧)

10月29日(水)

(http://burkina24.com/2014/10/29/)

9:00
ブルキナファソ各地で多くのデモ隊が議決回避を求めて出動。しかし、その多くは非武装。ボボ・ディウラッソでは2000人ほどの市民が出動。
Jeune Afrique (http://www.jeuneafrique.com/Articleimp_JA2809p020.xml0_burkina-le-r-cit-de-la-chute-de-compaor-heure-par-heure.html, 2014年12月30日閲覧)

15:30
コンパオレ大統領はフランス、アメリカ、EUからの退任勧告をKosyam(大統領官邸)で受け取る。その間にBalai citoyen(市民団体)を中心に市民反乱がそれぞれの街区で組織され、夕方には、Place de Nationを埋め始める。また野党連合が権力奪還のための会合を行う。さらに、5500人の若者たちと2011年(騒乱の際)に軍隊を退役した元軍人たちを雇い入れる。人によっては、25,000Fcfa(約38ユーロ)を受け取っている。これらの資金は商人やビジネスマンが支払った。
Jeune Afrique20141118(http://www.jeuneafrique.com/Articleimp_JA2809p020.xml0_burkina-le-r-cit-de-la-chute-de-compaor-heure-par-heure.html, 2014年12月30日閲覧)

●日本大使館からの通達。
…10月30日(木)に国民集会において国民投票実施にかかわる法案の採決が実施される予定であり、同法案の採決を阻止する目的で、野党による国民議会議事堂前の座り込みが実施される模様です。野党は国民に対し、同日の6:00に国民議会議事堂前に集合し、抗議活動に参加するよう呼びかけを行っている模様です。
 国民議会議事堂は早朝から厳戒態勢に入る予定です。既に、国民議会議員の多数が安全確保のためアザライホテルに滞在している模様です。
 なお、採決のための国民議会本会議は、当初16:00に招集される予定でしたが、10月28日の党首会合において10:00に招集されることが、決定されたとの報道があります。

10月30日
午前中に国民会議における法案の採決を前に国会議事堂前に集結していた野党支持者が同法案の採決を阻止しようとして暴徒化、議事堂を焼打ちした跡、与党関係者の自宅、商店を襲撃するなどして混乱化。憲兵、警察もこのお事態を収拾できずに一時撤退し、コンパオレ前大統領は内閣の解散、法案の取り下げを発表。

9:00
国民議会からほど近い「国連ラウンドバウト(Rondpoint Nations-Unies)」をジャンダルメリーと警察が取り囲む。催涙弾や放水の準備は整えられていたが、それらを使用する許可は降りていない。

9:25「最後の堰を切った」(le dernier barrage saute. Jeune afrique)

9:30 一筋の黒煙が国民議会から上がる。Philippe-Zinda-Kaboré高校(国連ラウンドバウトから200mほど)近くに待機していた小隊が囲いの中に入り、放火を始める。
これがきっかけとなり、包囲網の中(国民議会内)は一気にパニック状態に陥る。議員たちはわれ先に逃げ出した(「自転車鶏よりも早くその場を抜け出した」)。国民議会のほど近くに住む外相のDjibrill Bassoléは、彼の家をめがけてくる30名ほどの議員の姿を見て、彼らと共に、Paspanga(国民議会から数百メートル)のジャンダルメリーの基地に移る。そしてすぐに大統領に電話をして、憲法改正案を取り下げ、大統領職を辞任することを提案した。
時を同じくして、コンパオレ大統領の腹心、内務大臣Jérôme Bougoumaは野党のリーダーである、Zéphelin Diabréに電話をかけ、「沈静化するように呼び掛けてほしい。憲法改正案の国民投票は行われない。」と述べた。Diabréは「政府がイニシアティブをとらなければだめだ」と返答し、Bougoumaは首相のLuc Adolphe Tiaoと情報大臣のAlain-Édouard Traoréに接触、「テレビとラジオで声明を発表するよう」要請、二人は反論し、「不可能だ、すでに略奪が始まっている…」と述べた。
その頃、他の「戦士」グループは前日に定めた標的を攻撃していた。標的とは、国営のテレビ局、ラジオ局、CDP(与党)本部、何人かの高官、特にFrançois CompaoréとAlizéta Ouédraogoの自宅である。Kosyam(大統領官邸の別称*)の周囲数㎞にわたるデモ行進が進んでいる間、Ouaga2000**から少し離れた街区でコンパオレは悩んでいた。何名もの大臣がコンパオレに対して退陣を促し、権力を軍隊に移譲するように勧めていた。

*大統領府のある場所の以前の村名
**ワガドゥグ南部の官庁、在外公館、高級住宅地の集まる街区

11:00
コンパオレが軍司令官のNabéré Traoréを召喚する。2人は非常に懇意だ。TraoréはコンパオレのPô***駐留時代、革命期に補佐官を務めていたのだ。2011年の暴動ののちにTraoréを防衛大臣に任命した。
Traoréは「国民広場」近辺のワガドゥグの状況を目の当たりにしていた。大統領官邸に駆けつけたTraoréに対して、戒厳令を引くように指示をだした。つまり、全権力を軍政移管するということだ。そして、Bougoumaに対しては、2つの文案を起草することを命じた。ひとつは戒厳令、もうひとつは、議会の解散である。

そして、この時コンパオレは自身の辞任を決めていたのだが、一方で、いかに言い逃れるかということも考えていた。一人の大臣は、「大統領は一時的に姿をけし、その後権力に返り咲くための戦略を考えていた」と語った。

***Pôにはブルキナファソの精鋭部隊が駐留するキャンプがあり、サンカラ、コンパオレ共にここで訓練を受けていた。

16:00
国民議会の焼打ち後にデモ隊はKosyamに向かった。14時頃より、大統領警護隊がLaicoホテル****前に引いたバリケードによってデモ隊は足止めを食っていた。しかし、デモ隊が気勢を上げ前進すると、大統領警護隊は後退し、そこにDiendéré将軍の到着をもって政府側との話し合いがもたれた。

デモ隊の指導者たちは、大統領との面会の機会を得ることとなった。統一反国民投票派のHarvé Ouattara氏は「我われは官邸に入った」と述べ、30分ほどするとブレーズが迎えてくれたという。「そこにいた、私が人生をかけて嫌悪したその男は私に言った。「Ouattaraさん、ご機嫌いかが?しばらくぶりにあなたのことを聞きました。」私は彼の言葉を理解するのにしばらくの時間を要しました。

****リビア資本で2010年ころに建てられたワガドゥグ最高級ホテル。

20:15
デモ隊の代表者たちは大統領の辞任を要請した。「よくわかった。彼らの反論は。私は一つの発表をする」しかし、20:15に彼がテレビカメラの前で発表したのは、辞任ではなく、内閣解散と次の選挙の勝利者に権力を移譲することの約束であった。


コンパオレが思いを変えたとしたら、それはTraoré将軍が裏切ったと考えたからだろう。日中大統領からTraoré将軍への聞き取りのあと、コンパオレはTraoréを最高幹部のなかの最も信頼をおけるオフィサーだと再認識していた。彼らは10年にわたって軍事的な力を保持することを目的とした関係にあった。「ある発表をしなければならない」彼らは決めた。しかし、書かれた発表内容は揺らいでいた。Traoréは権力を奪取したのか?Diendéréを呼び、説明を求めた。そして、大統領警護隊のナンバー2である、48歳のZida中佐を呼んだ。しかし、彼はクーデタには与しないことを説明した。軍部もすでに引退していた元将軍Kouamé Louguéにも事態の収集の可能性を探った。
こうした権力のありかはほとんどの人の知るところではなく、Zida(おそらく)の名前は、国民ひろばでデモをしている人たちにとっては突然明らかになったものだった。この日の午後、彼らはモロ・ナーバ(モシ王)宅で見られた。そして、Zidaは総司令官に対して権力を要求した。(ブレーズが?)「ダメだ。それ(政権掌握)はお前がするべきではない」尊大な態度で反論した。このエピソードは束の間の出来事だった。もしもう一度ブレーズが権力をとったとしても、11月2日には彼はやはり失うことになっているのだから。
この木曜日の夜がブレーズにとっての分水嶺となった。こうした一連のやり取りは問題ではなく、コートジボアールに逃げたある議員によれば、Traoréは数か月も前から野党メンバーとの関係性をもっていたとも言われている。しかし、Traoréの側近であり、この歴史的な日の何人かのアクターは彼には何も保証していなかった。

Jeune Afrique20141118(http://www.jeuneafrique.com/Articleimp_JA2809p020.xml0_burkina-le-r-cit-de-la-chute-de-compaor-heure-par-heure.html, 2014年12月30日閲覧)

10月31日
8:00
コンパオーレの発表は火をつけた。彼には選択肢はなかった。辞任か血か。朝8時、首相のTiaoはコンパオーレに辞任するように説得していた。Bassoléは「大統領、もう終わりだ。決定を促す」とSMSを送った。

10:00
大統領は軍隊が介入しないことを理解した。Bougoumaを呼び、「憲法43条を見ろ。政府発表の草稿を用意できるか?」1時間ののち、大臣はコンパオレ、Céleste Coulibaly、Ibrahiman Sakandéと相談のうえで起草した政府発表をEメイルで送った。

11:32

12:00
その30分後、コンパオレは大統領親衛隊を従えて大統領官邸を辞した。そこには妻のChantalと幾ばくかの側近がいた。28台の車列は彼の軍隊時代の街、ガーナから数キロのPôに向かった。しかし、彼はデモ隊がそこに待ち受けていることを知る。車列はManga*****で止まった。一機のフランス軍ヘリコプター(ワガドゥグの特別部隊のものかと思われる)がコンパオレと妻、数名を連れだした。そして、東のFada N'Gourmaにはフランス軍機が彼らを連れてYamoussoukroに向かった。ほかの車列は夜を待ってBenin方面に動き出した。その日一日、政権高官の一群が2機のプライベートジェットでブルキナべのビジネスマンの元に逃げ去って行った。

*****Pôの北側50㎞ほどに位置する街。

Jeune Afrique20141118(http://www.jeuneafrique.com/Articleimp_JA2809p020.xml0_burkina-le-r-cit-de-la-chute-de-compaor-heure-par-heure.html, 2014年12月30日閲覧)

その後、Zidaが暫定的に政権を握り、現在の臨時大統領、Kafando氏へと政権が移ってくが、そのあたりは③にて。


何度も書きましたが、今回の政変の特徴は、「市民」がキーワード。11月2日の記事には、ワガドゥグ市民が今回の騒動で散らかった町を掃除する(Mana‐Mana)という、なんともブルキナファソらしい活動があったり、今朝の記事では、暫定政府から、通常化するように市民に要請があった、というものもありました。
いつも思いますが、この国の一番の財産は「平和」。争いが起こってもすぐにケロッといつもの国に戻ることだと思います。今回も本領を発揮して、いつもの生活を取り戻し、近々行われる選挙が平和裏に粛々と執り行われることを望んでいます。
この間、ブルキナファソでお仕事をされている何人かの方には大変有益な情報を提供していただきました。ここでは、具体的なお名前を出すのは控えさせていただきますが、お礼申し上げます。そして、上のまとめに付け足すべきことや誤りがあれば、ご指摘いただければ幸いです。また、このまとめには、Burkina24、RFI、Juene Afrique(Burkina: le récit de la chute de Compaoré, heure par heure, 18/11/2014 web版)などの記事と外務省海外安全ホームページを参考にさせていただきました。

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