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【ご恵投いただきました】 神本秀爾・岡本圭史(編)2019『ラウンド・アバウト フィールドワークという交差点』集広社

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ずいぶん前になりますが、分担執筆者の中尾世治さんよりご恵贈いただきました。 神本さん、岡本さん編のフィールドエッセイ集です。 ここ何年かフィールドワークの本は殊にたくさん出版されるようになりました。AIやITCなど、コンピューター科学(?)が益々盛り上がる反動なのか、泥にまみれて調査をすることにも注目が集まっているのかもしれません。私も、これまでに15巻のフィールドワーク本、 「100万人のフィールドワーカーシリーズ」 に寄稿したことがありますが、多くがフィールドワークの手法や心構えに着目したものである一方、この本はフィールドワークを通した研究者のコンセプショナルなエッセイ集です。研究者がどのように課題を見つけ、向かい合っていたかが書かれた書物だと言ってよいでしょう。きっと、研究者でなくとも楽しめる一冊になっています。 この本は、第2弾が現在進行中で、こちらには私も寄稿しています。またこちらはお知らせしたいと思います。 アフリカ(海外生活・情報)ランキング にほんブログ村

書評・ご紹介ありがとうございました

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『ブルキナファソを喰う』出版から2か月ほど。思いの他、たくさんの方に読んでいただき、さらには、多くの媒体で紹介していただきました。まだこれからいくつかの媒体で紹介していただく予定ですが、ここまで紹介していただいた媒体をまとめておきたいと思います。  これはこれでありがたいのですが、こうした感想や書評を読んでいると、書いている本人が気づかなかった点や全く別角度からの読み込みを伝えられることがあります。こうした別の方からの言葉から得られるものがこれほど多いとは、書いてみるまで分かりませんでした。わかってはいたけれど、ここまで実感できるとは思っていませんでした。貴重な時間を使って本を読んでいただき、さらに、時間をかけて感想を綴っていただく。それを読ませていただいていると、お会いしたことのない方とも、深い交流を感じます。 まずは、すでにこれだけの方に書いていただきましたので、執筆者に感謝です。 シネフィル(2019年2月5日 澤崎賢一さんによる書評) http://cinefil.tokyo/_ct/17246684 産経新聞(2019年3月2日) https://www.sankei.com/life/news/190303/lif1903030022-n1.html アフリック・アフリカ(2019年3月31日 池邉智基さんによる書評) https://afric-africa.org/japan/books/culture/books128/ メシ通(2019年4月17日 神田圭一氏によるインタビュー記事) https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/pokke/19-00065 『アフリカ留魂録』(2019年4月11日、12日 ブログ記事)  http://africaryu-kon-roku.blogspot.com/2019/04/blog-post_11.html http://africaryu-kon-roku.blogspot.com/2019/04/blog-post_12.html 読売新聞・書評(2019年4月17日 三中信弘氏による書評) https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20190420-OYT8T50172/...

合田真『20億人の未来銀行』(2018年 日経BP)

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書影 5月18日、19日と勤務先の 京都精華大学で開催された第56回日本アフリカ学会の公開シンポジウム にもご登壇いただいた合田真さんの著書です。 僕はネットビジネスや銀行業は、どうしても「怪しい…」が先行してしまう、なんとも頭の固い性質なのだけど、ひょんなきっかけで合田さんにお会いすることがあり、紹介されたご著書も、最初はやはりちょっと斜に構えて扉を開いたのでした…この本は読み始めたら一気に読めてしまう、とても読みやすい造りになっているのだけど、マストで読まねばならないものも多かったため、この本は飛び飛びに読まざるを得ませんでした。そのおかげ、というか、読んでいる途中にも、何度か直接にお目にかかり、合田さんのモザンビークでのお話を伺うことができたことは、この本の読者の中でも、もっとも恵まれた環境で読ませていただいたのではないかと思います。それでも、ずいぶん前に読み終わっているので、若干ほとぼりは冷めてしまったのですが、ようやく学会も終わり、少し落ち着いたこともあり、ブログ再開の第1弾として、こちらの本をご紹介したいと思います。 「20億人の未来銀行…」と題されたこの本は、端的に行ってしまえば、いわゆるICカードなどのIT技術を用い、日本の農協や地域通貨的なシステムを、のような機能を貧困層に利用できるようにし、貧困層特有のリスクを軽減していこうとする、合田さんのプロジェクトを綴ったものです。 合田さんのバックグラウンドは本書中にある程度書かれていますが、この本に書かれた合田さんのプロジェクトへの発想は、ご自身の経てきた様々な経験の上に成り立っています。おそらく日本人一般にある、おカネを扱うことの臆病さは、みじんも感じられず、より積極的な意味で、おカネを理解されようとしているような気がしました。しかし、そこには、おカネを自分のところに呼び寄せよう、ということには、「それほど」執着はない(「社長」なので、ある程度はないと困るので、「」内はそういう意味です)。そのことは、この本にもよく書かれていて、合田さんは次のように現在のおカネをめぐる仕組みを考察します。 「現在のお金の「ものがたり」の問題点がどこにあるのかと考えた場合、私は「お金でお金を稼ぐこと」を是とするところにあると思っています。私はここに、資源制約期たる現在の「現実」との齟齬を見るのです...

【書評】佐久間寛(著), 2014, 『ガーロコイレ ニジェール西部の農村社会をめぐるモラルと叛乱の民族誌』平凡社

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毎年学会直前になると手元に届く『アフリカ研究』。89号が本日届きました。 ここ最近で辛かった仕事の一つだったのですが、今号の『アフリカ研究』に佐久間さんの『ガーロコイレ ニジェール西部の農村社会をめぐるモラルと叛乱の民族誌』の書評を書きました。何が苦しかったかというと、まず、記述が複雑かつ「厚い」ために要約が難しいこと、方法論としてもオーソドックスな民族誌スタイルで、人類学的な視点から見ても非のつけどころがない、さらに、テーマが研ぎ澄まされていて突っ込みどころがない…評者泣かせの著書でした。 2年ほど前にエントリーした『 ガーロコイレ ニジェール西部の農村社会をめぐるモラルと叛乱の民族誌 』以降、まさかこんな機会が回ってくるとは思わずに、感嘆のため息をつくばかりで、目標にしようと思いこそすれ、批判的に噛み砕くという作業をしてこなかったのがいけなかったのですが、とにかく時間もかかったし、ちゃんと読めているかという不安を抱えての作業でした。まさに「ご笑覧」ください、というしかありません。というか、佐久間さんごめんなさい… にほんブログ村 にほんブログ村

感想文:大山修一2015『西アフリカ・サヘルの砂漠化に挑む ごみ活用による緑化と飢餓克服、紛争予防』昭和堂

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(本書でも紹介される半月耕法、Tigo Zeno, Niger)  当初の予定では、GW中に読み終わる予定だった、大山修一『西アフリカ・サヘルの砂漠化に挑む ごみ活用による緑化と飢餓克服、紛争予防』、やっと読み終わりました。大山先生は僕の現在の所属先のメンバーでもあり、自分の仕事にも強く関わりのあるテーマなので、メモと感想を書き記しておこうと思います。 最初から雑駁ですが、常々思うのですが、(人文)地理という領域は恐ろしいです。データの緻密さや文理の手法や知識を縦横無尽に使いこなす図太さ。人類学はどのように差異化できるか?というのは、色気を出しすぎでしょうか。 ともあれ、サーヘルという土壌が貧弱になってしまった(砂漠化した)エリアにおいて、人びとは様々な形で収入を増やそうと努力する一方で、いかに収量を上げるかと言う点に血道をあげているか、ということが本書の一貫したテーマだと思います。 中でも本書で僕の目を惹いたのは、2点あります。大きく分けて、①「第7章、第8章のゴミを畑に撒くことについての観察と実験」、②「第9章、第10章の農耕民と牧畜民の紛争とその解決」の部分です。 ①ゴミを畑に撒くことについての観察と実験 堆肥や厩肥ではなく、「ゴミ」を畑に撒くというのはなかなか聞かないと思う。もちろん、こうした有機物を撒くのが原則なのだが、ハウサ社会では、1970年代くらいからこうした取り組みが行われているといいます。ここで着目されるのが、シロアリの働き。 「村びとが畑に投入する肥やしにはビニール製品や鉄製品など難分解性のごみが混入していた。このような廃品にひか見えない物品でも、人びとは「十分に肥やしになる」と説明する。これらの廃品は直接、シロアリの餌になるわけではなく、雨水や乾燥に弱く、鳥類やクロアリなどの捕食者の多いシロアリの住み処を提供していたのである。シロアリがごみに群がり、有機物を取り囲むシェルターと、そこに通じるトンネルをつくることによって、多くの孔隙が固結層につくりだされ、透水性が高まっていたのである(大山・近藤2005)」(169-170) とこんな仕組みを大山先生は見出します。「そこにあるもので、なんとかする」という、アフリカの人たちらしい取り組み。僕も自分が調査していたニジェールの村でのことを思い出し...

『パーニュの文化誌 現代西アフリカ女性のファッションが語る独自性』遠藤聡子(著)

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最近のブルキナファソの民族誌としては、同僚の石本雄大さん以来、と言っても、ここ2,3年の間に立て続けに出版されているのは、同時代にこの地域で研究活動を行う者にとって、大変心強く、また、未だくすぶる自分自身への愛のむちのように思いながら読ませていただいた。 この本はブルキナファソの第2の都市、ボボジュラッソ(僕はボボ・ディウラッソという言い方が好きなのだけど、ここは本書に従う)の女性のファッションについての著作である。著者の遠藤聡子さんによれば、工業製品としてのパーニュ(工業製品としての更紗)は在来の民俗服でもなく、洋服でもない。衣服がそれを身に着ける人に関する情報を表すとすれば、この布を使用した衣服は何を示すのか、という問題意識をもっている。この問いに応えるため、この衣服がこの地域で普及している理由を、歴史的経緯(通時的分析)とパーニュがどのように着られているか、という共時的分析から明らかにしていこうとしている。 僕自身、この地域に馴れすぎてしまって、遠藤さんの問題意識を共有するのに時間がかかったのだが、確かに、なんでこんな布をみんな着てるのだろう、ということは改めて納得した問題意識である。僕も工芸品製作をしている人を調査対象としていた時期があるので、その歴史的経緯はなんとなく聞きかじっていたけど、遠藤さんは丁寧にまとめられていて、改めて勉強になった。そして、この本の最大の強みは、しつこいフィールドワークで得た数百、数千に上るデータによる分析と言っていいだろう。こうした京都大学の人類学の十八番ともいえる生態学的な手法は、問答無用の説得力を持つ。僕も憧れるやり口だ。僕もワガドゥグに仕立屋の知り合いが何人かいるけど、そんなシステムで動いていたのか、と相槌を打ちながら読んだ。 それで、気づいた点を何点か。備忘録的に、メモしてみようと思う。 ① 普及について 「第7章 流行を生み出すしくみ」では、3つの小節から流行を生み出すメカニズムを明らかにしようとしているが、僕なりに解釈して、模倣と委託という二つの手法によって、スタイルの統合が図られる、ということが言われたかったのではないか。スタイルの統合の過程については、実によく描かれているが、ここはもう少し一般化できる、「普及」というところまで踏み込んではどうだっただろうか?決してモデル化したりすることはな...

『イスラームの世界観 「移動文化」を考える』 片倉もとこ 岩波現代文庫

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去る2013年2月23日、片倉もとこ先生がご逝去されました。 勉強不足をさらすようで恥ずかしいのですが、この方の本もほとんど読んだことがなくて、先生のご逝去をきっかけに少しずつ読み進めています。アマゾンで頼んで最初に来た本がこの本だったので、読みましたが、なぜ今まで読まなかったのか…という後悔の念にかられました。 人はなぜ移動するのか? 僕はここしばらくストリート・チルドレンのことを研究してきているのですが、ある意味、究極的な問いはここにあります。遊牧民の宗教としてのイスラーム。これが根底にあるのはなんとなくわかりつつ、どうも言葉にならないことが多いし、アフリカの人といても、大局的な移動観にまではまったく到達しませんでした。この本では、ずいぶんたくさんの言葉を紡いでイスラームにとどまらない、人類史的な意味で、人はそもそも移動するものだ、という命題をもっているように読めました。 さらに伊勢神宮の遷宮を端緒に、現代日本社会をこのように説きます。 「日本の終身雇用システムは、それなりにいいところもあった。しかし、雇用する方も、されるようも、しばられてしまう、しんどいシステムである。人間を、一か所にとどめておく「定着文化」はさまざまなところでいきづまっている。生理的な「うごき」を持つがゆえに、女性は職場から締めだされ、男性は悪名高き「会社人間」にしたてあげられた。ここらで、日本の「定着文化」を「移動文化」に移行させねばならない気がしている。」(192) 近代社会は資本集約的であって、ゆえに人々が定住していることが前提。さらに、権力はその管理のしやすさから人々が定住していることを好みます。しかし、片倉先生がおっしゃる通り、定住文化の爛熟した日本では、このレベルの見直しが必要だ、ということ。 近年、非正規雇用が問題になっていて、かくいう僕もそのカテゴリーに入っているのだけど、そもそも個人商店的な研究者にとっては、まさにこんな文化の中に存在しているのだ、ということを改めて感じさせられました。

「したがって」考:『ケニアの教育と開発 アフリカ教育研究のダイナミズム』途中評

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4月に京都女子大で行われた「アフリカ教育研究フォーラム」で、著者の澤村先生よりご献本いただき、ボチボチと読ませていただいています。 「人類学者には物足りない記述かもしれませんが…」 などとご謙遜されていましたが、厚い記述がなされており、堪能させていただいています。実はまだ読み切っていないので、「評」にするかどうか考えましたが、備忘録的な「評」の前段階というか、課程ということでその一部とさせていただこうと思います。 澤村先生のご編書、何冊か拝見していますが、かなりの部分を(おそらく)澤村先生のお弟子さんに書かせています。これはとても特徴的で、正直なところ、教育をご専門とされているだけに、うらやましい環境を作られています。修士課程の段階で本が一冊残る…なかなかないですよね。実際に何人かお弟子さんにもお会いしましたが、とても一生懸命励まれている方が多くて、きっといい研究室なのだろうな、と思わせます。 一概に異分野の出来事で済ませてしまうのはよくないだろう、とは思うのですが、気になる部分の一つをメモ程度に。 この本も多くの部分で通底するのですが、僕が「近代」教育とわざわざ「近代」を付ける教育に対してどんなふうに考えているのか、ということが実はここまで(半分くらい)であんまり書かれていないなーって思ってます。「第4章 近代教育形成における伝統文化の位置づけ ポストコロニアル時代の批判的検討」の切り口はとても面白くて、まさに近代批判を展開されるのかと思ったら、「伝統主義」批判に行ってしまってちょっと残念。僕としては、なんですが、これを裏付ける事例の一つもあればよかったと思います。が、逆に筆者の志向の方向性みたいなものが明らかになったので、妙に主張はわかりやすいので、それはそれでよい、ということだと思います。 この志向性の違いみたいなのが、モロに出ているのが次の章。 「彼女は、12人の兄弟姉妹(男9人、女3人)の末っ子として育ち、今は小学校でボランティア教師として働いている。彼女の兄たちは、父親の反対で中等学校へ進学できなかった。 したがって 兄たちの職業は農夫やマタツ(乗合ワゴンバス)の運転手であり、それ以外の選択の余地もなかったという。」(伊藤2013:111) 後半に出てくる事例なのですが、僕にはどうしても前の文章と次の文章を“まだ”「し...