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【調査】関東大震災100年と在日朝鮮人

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ちょっと時間が経ってしまいましたが、昨年11月2日、3日と東京に出張した時の話を書きます。めでたいはずのお正月に起こった能登半島の大地震。今も多くの方が厳冬期の厳しい避難生活を送られています。避難生活を強いられている方の命を守ることが最優先されることをお祈りしています。 地震大国である日本は、21世紀に入る前後で見ても震度7以上の地震は、阪神淡路大震災(1995)、十勝沖地震(2003)、新潟中越地震(2004)、東日本大震災(2011)、熊本地震(2016)、北海道胆振東部自身(2019)そして、年始の能登半島地震と非常に頻繁に発生しています。 東日本大震災以来の激甚大災害となった能登半島地震、僕は久しぶりに日本で過ごした年始の多くをTwitterを見ていました。年末からの芸能人の話題や裏金事件の話題、そして、震災に対する現政権の対応の遅さを指摘するコメントが混在している中、気になったのは、特定のクラスタによる、「デマ」でした。外国人が暗躍し、日本社会を壊滅させようとしている、というニュアンスのものが、早速炎上していくわけですが、こうした「デマ」が湧いてくること自体が問題です。 100年前、関東大震災が起こった際には、多くの朝鮮半島出身者がこうしたデマにより、虐殺されました。今回訪れたのは二つのイベント。 まず、高麗博物館について。 新大久保というか、歌舞伎町にあるこの施設。10代後半~20代にかけてこの辺をうろうろしていましたが、こんな博物館があるなど、思いもよりませんでした。ビルのいちフロアにこの博物館はありますが、常設の朝鮮半島の展示がありますが、この日は「関東大震災100年―隠蔽された朝鮮人虐殺」の特設展が開催されていました。いつまでリンクが見られるのかわかりませんが、この展示は、 淇谷が描いた 「関東大震災絵巻」の初公開が目玉展示。当時の現場を見た画家が描く絵には、「日本人」と朝鮮人に対する、人びとの接し方の違いが克明に描かれていました。ほかにも、文献資料や写真、絵画資料から、当時の日本における朝鮮人の位置づけを示されていました。 翌日は、横浜の日本新聞博物館へ。「そのとき新聞は、記者は、情報は―関東大震災100年」という企画展が開催されていました。この展示は、関東大震災発災の際の新聞報道に関するもので、発災当時、多くの新聞社屋が崩壊したものの、地方の記

第2回アフリカ納豆サミット「〜五感で比べてみよう、京都と西アフリカの納豆〜 in 藤原食品 × ムトーヨータドー〜」 (3月19日)

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  納豆。日本固有の食文化と思われがちだが、世界の各地で食され、アフリカに至っては、納豆の一大消費地だ。遠く離れた地で育まれた事象が、文化的共通点として浮き上がることは大変興味深い。「アフリカ納豆サミット」では、アフリカで展開される豊かな納豆文化を紹介し、アフリカと日本の納豆文化の類似点やアフリカ納豆の文化について考えます。今回は、京都に拠点を構える藤原食品さんと今日納豆についてお話をお伺います。 また、トークの後には、アフリカ納豆と京納豆の食べ比べがあります。   ◎予定メニュー ・鯉のスンバラ焼き浸し ・スンバラ飯 ・スンバラの料理 ・鴨川納豆の料理 ・京納豆の料理   日時:2024.03.19(火) 18:30 - 21:00(18:15開場)  場所: 藤原食品×ムトーヨータドー 参加費 4,000 円 / 学生 2,500 円(食事代込 / 日本とアフリカ納豆の豆お土産付き) お申込み:https://africanattousummit.peatix.com/view?fbclid=IwAR0JfJnubfyNzOu6QqUbeBGvNOLwlHH3fmJ2tGtjW8Q3awCCmISpJAXNKdM お問合せ:株式会社bona 担当者 奥祐斉 info@bona.world

15年ぶりに訪れたゴレ島の砲台

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2007年3月@ゴレ島にて 2023年9月ゴレ島にて 書きかけの記事が昨年11月のもので、こちらの記事が昨年9月のものです。時間が前後してしまいますが、気にせずに書きたいところから進めます。 毎年恒例のセネガルプログラム。毎年、10日前後のプログラムを考えてスケジューリングをします。中に絶対に外せない訪問地があるわけですが、ゴレ島はアフリカの植民地の歴史を考える上でその筆頭格と言えるでしょう。 僕がゴレ島を訪れたのは、2007年3月(2月だったかも…)のこと。1泊でゴレ島を訪れたのですが、世界的な観光地ということもあり、瀟洒なホテルやオーベルジュはなかなかの値段がしていたので、とにかく安いところを探し、たどり着いたのが島の一番奥、小高い丘の海側の裾野にあるオーベルジュでした。丘の上にはオランダが作った砲台が残っており、オーベルジュは塹壕の跡地を利用したものだった。確か12,000Fcfa。格安でした。 実は、このオーベルジュ、当時私が研究していた「ラスタマン」の親分Ras Mahaが経営していると聞きつけたこともあり、値段だけでなく、大変ラッキーな宿泊となりました。この話はどこかで書いたので、この辺にて。 それから15年経った昨年9月。学生を連れて何度目になるかわからないゴレ島訪問となりました。ガイドに雇った青年が連れて行ってくれたのが、この場所でした。ガイドにここに来るのが10数年ぶりで、オーナーのRas Mahaはその時に会っている。彼は元気か?と尋ねると、相変わらずオーベルジュをやっているというので、ぜひ会いたいという旨を伝えると、少し年を取ったが、元気そうな姿をみせてくれました。ラスタ思想に傾倒していたこともあり、元々ナチュラリストでしたが、15年ぶりのRas Mahaは健康的なナチュラリストに変貌していました。オーベルジュも大きく、きれいになっていて、来年度のプログラムでは、こちらでお世話になることにし、短い再開を果たしました。 僕も等しく15年の歳月が流れたわけで、昔、当時ご一緒したバックパッカーに撮ってもらった写真があるのを思い出し、同じアングルで写真を撮ってもらいました。15年前に僕は精悍で、大胸筋あたりの盛り上がりがわかりますが、今の僕は、といったら、大胸筋どころか腹が出てる…撮らなければよかった、などと一瞬思いましたが、これも15年の歳月の結果。