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あるNGOを辞めた話

3月に前職を退職し、4月から「無職」状態となったので、いろいろな会員ステイタスを整理することにした。学会もなんだかんだと6つも入っていたし、NGOも3団体に加入していた。これだけでも年間10万円近い会費を払っていたことになる。 多くは幽霊になっておいて、おカネが払えるようになったらまとめて…という作戦に出たが、一つのNGOに関しては積極的に辞めることにした。10年以上会費を払い続けた団体をなぜ辞めることにしたのか。もちろん、経済的にきつくなってきた、というのが大きくて、ほかにもいくつも理由があるのだが、それらを全体的に言えば、会の方針に納得がいかなかったためだ。NGOは、ともすれば素人に毛が生えた程度の設立者が自己顕示欲をむき出しにした独善的な組織になりやすいが、このNGOは多くの研究者を巻き込み、客観的な問題理解を目指していた。活発に活動も展開していた。 この会を辞めることを考え始めたのは2年前。すでに、関東を離れ、10年ほどが過ぎ、関東にいたころのようにNGO活動に関われなくなりずいぶん時間が過ぎていた。総会すら参加できず、とりあえずおカネを払い続ける、という状態が続いていたが、この会のリーダーだった方との個人的なご縁から、そのままにしておいた。しかし、そのリーダーが交代することとなり、少し僕の気分にも変化が生まれた。 昨年、会費の請求のメールをいただいた時に、「会費を払い続けるか悩んでいる」ということを、その理由を含めて書いて新しい事務局長宛てに送った。そこには「お返事無用」と付け加えておいた。何を書いたかと言えば、関東を離れてしまうとただただおカネを払い続けているだけになってしまうから、地方での活動を活発化させてほしい、ということ、このNGOの性質として特定の一分野に特化するのではなく、もっとオーガナイザー的な活動を強化すべきではないか、ということなどである。 「お返事無用」ということで、意見への回答はなかったが、とりあえず昨年は会費を納め、何か変わるかと思って会報誌などを眺めていたが、残念ながら、それらしい節は見当たらなかった。広島で何かある、ということもなかったし、それの呼びかけもなく、活動の見直しもない、総会もやはり委任状と報告が送られてくるだけ。従来の活動は活発だったようだが、オーガナイザーとしての役割を強化したようにも見えなかった。

オウム事件の終結と日本社会-1

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7月6日、前日から西日本を襲った雨の中を朝から名古屋から京都へと移動していた。スマホでTwitterを見ていると、そこには京都市内を流れる河川の増水の様子や大雨の様子に増して、麻原彰晃以下6名のオウム真理教幹部らの死刑執行「予告」のツイートで溢れていた。1995年の地下鉄サリン事件から23年。とうとうこの事件も歴史の一ページに落とし込まれた瞬間だった。 ツイートを見ていると、死刑が「執行された」という報告を受けているわけではなく、あくまで「これから執行されます」という「予告」であったこと、何かの間違いではないかと疑ったが、何人もの人がこれに違和感を表明していた。 どこかで書いたような気がするが、1995年3月20日の朝、僕は馬喰町に向かっていた。ようやく大学が決まり、一人暮らしをするための調理器具を買うためだった。とりあえず行先が決まった安ど感、でも行きたいところではなかった若干の寂寥感もあり、浮足立っているわけではなかった。馬喰町の駅を出ると、遠くで聞こえるサイレン。特に気にすることもなく、待ち合わせていた友人と会い、馬喰町で買い物をした。携帯がようやく出始めたころのこと、高校生風情ではそんなものは持っていない。飯でも食べたのだろうと思うが、少し遅い時間に帰宅すると、母が血相を変えて「無事でよかった」と。何のことやらわからず、テレビに目をやると、例の光景が目の前に広がった。 そして、真相が明らかになり、上九一色村のサティアンが解体され、麻原彰晃以下の幹部が逮捕され、オウム真理教自体もいったん解体された。多くの人が殺され、傷ついた。テロやカルトと言った、ずいぶん上の方で語られていた言葉が急に身近になり、「平和」とは何か、ということが一般的な会話の中に入り込み、時に、それはヒステリックに語られさえするようになった。 森達也さんの「A」、「A2」などのドキュメンタリーを見たり、テロやカルトについての理解を深めようとした。世の中が1995年3月20日に起こったことを理解できずに、もがいていたような時代だったのかもしれない。その年は1月に阪神淡路大震災があったこともあり、入った大学の中でも、知識人たちが様々なシンポジウムを開き、学生たちもとても熱心にそうした催しものに参加していた。その雰囲気は、68年の安保闘争などの時のような熱気だったのではないかと想