オウム事件の終結と日本社会-1


7月6日、前日から西日本を襲った雨の中を朝から名古屋から京都へと移動していた。スマホでTwitterを見ていると、そこには京都市内を流れる河川の増水の様子や大雨の様子に増して、麻原彰晃以下6名のオウム真理教幹部らの死刑執行「予告」のツイートで溢れていた。1995年の地下鉄サリン事件から23年。とうとうこの事件も歴史の一ページに落とし込まれた瞬間だった。

ツイートを見ていると、死刑が「執行された」という報告を受けているわけではなく、あくまで「これから執行されます」という「予告」であったこと、何かの間違いではないかと疑ったが、何人もの人がこれに違和感を表明していた。

どこかで書いたような気がするが、1995年3月20日の朝、僕は馬喰町に向かっていた。ようやく大学が決まり、一人暮らしをするための調理器具を買うためだった。とりあえず行先が決まった安ど感、でも行きたいところではなかった若干の寂寥感もあり、浮足立っているわけではなかった。馬喰町の駅を出ると、遠くで聞こえるサイレン。特に気にすることもなく、待ち合わせていた友人と会い、馬喰町で買い物をした。携帯がようやく出始めたころのこと、高校生風情ではそんなものは持っていない。飯でも食べたのだろうと思うが、少し遅い時間に帰宅すると、母が血相を変えて「無事でよかった」と。何のことやらわからず、テレビに目をやると、例の光景が目の前に広がった。

そして、真相が明らかになり、上九一色村のサティアンが解体され、麻原彰晃以下の幹部が逮捕され、オウム真理教自体もいったん解体された。多くの人が殺され、傷ついた。テロやカルトと言った、ずいぶん上の方で語られていた言葉が急に身近になり、「平和」とは何か、ということが一般的な会話の中に入り込み、時に、それはヒステリックに語られさえするようになった。

森達也さんの「A」、「A2」などのドキュメンタリーを見たり、テロやカルトについての理解を深めようとした。世の中が1995年3月20日に起こったことを理解できずに、もがいていたような時代だったのかもしれない。その年は1月に阪神淡路大震災があったこともあり、入った大学の中でも、知識人たちが様々なシンポジウムを開き、学生たちもとても熱心にそうした催しものに参加していた。その雰囲気は、68年の安保闘争などの時のような熱気だったのではないかと想像する。そして、僕もそういう空気に飲み込まれ、若干オウム真理教や宗教というものに対する危うさや信仰の原理、そして、「一般市民」と信者の違いというところに関心を持つようになった。

事件も終盤を迎えることになった(であろう)昨日。上に貼り付けたツイートを見て、まったく違うオウムの姿を思い出した。麻原彰晃氏は確かにコメディアンたちとテレビに出ていて、ちょっと理解できないことを口走り、コメディアンたちはそれを面白おかしく伝えていたし、そうした雰囲気が手伝って、高校の友人たちと新宿西口で選挙活動をしていたオウム真理教の麻原彰晃人形にいたずらをしに行ったこともあった。そんなことをしても許される人たちに見えていたのである。こういうことをすっかり忘れてしまっていた。

高度経済成長からバブル時代にかけての右肩上がりの世の中が停止し、日本社会のモードが変わり始めた1995年は間違いなくエポックメイキングな年代だ。時代のひずみが生じ、そこに落ち込んだ人たちの象徴としてのオウム真理教、抑圧へのルサンチマンが生み出した一連のサリン事件…言っていることはわかるのだが、とすると、コメディアンと戯れ、政治の世界に打って出たのは、どんな風に理解すればよいのか。その時代にできたことは何だったのか。時代のモードが完全にシフトした現在、新自由主義的な風潮は間違いなく進み、プラグマティックな風潮はそうなってはいけない領域にも入り込んできている。そこにあるひずみは、1995年のときよりもさらに広く、深いものになっているような気がしないでもない。この時代の流れについていけない人は間違いなく少なくなく、ひずみに落ち込む者はより多いような気がする。道化師だった/を演じていたオウムの信者たちが社会に牙をむいたような出来事は、今、僕らがまったくわからないところで進行しているのかもしれない。



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