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9月, 2010の投稿を表示しています

あの人が…

「名選手は必ずしも名監督ではない」、最近のスポーツ界を見ていると、名選手の多くは名監督でもあるようだ。我らがドラゴンズの落合監督然り、巨人の長嶋元監督やらソフトバンクの王元監督なんかもそうだ。 時差ぼけで変な時間に起きたので、ネットサーフィン。 カーワンHC「日本の強さ証明する」=開幕まで1年切ったW杯ラグビー(時事通信9月30配信  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100930-00000018-jij-spo ) カーワンと言う人は元NZ、オールブラックスのエースプレーヤー。当時としては、ずいぶん大きなウイングで、NZ引退後に日本の実業団でプレーをしていた。さも、メジャーのバリー・ボンズが日本の球界に入ったようなものだ。その年、僕は何試合か見に行ったんだけど、本来、ウィングのプレーヤーがひとつ内ッ側のセンターに入る。当然、プレッシャーが強くなるのだが、この人が日本でやれば、ペンペン草も生えない。最後は5人でカーワンを止めていた。こんな人が日本の監督(ヘッド・コーチ)をやっているとは… いずれにしても、「日本の強さ」、しっかり証明してほしいもんです。すっかり斜陽のスポーツになってしまって、僕もすっかり見なくなったし、やらなくなってしまった。ちょっと注目してみようかと思う。

時差ぼけ

無事に帰国しました。 帰りは、初めてではないでしょうか。ずっと人と話しながら帰ってきました。 ブルキナ→パリはKさん、パリではIまやさんとKさんと朝ごはん(Iまやさん、ごちそうさまでした。)、そして夜にはMさん、Iさん、Rくん家族と食事、パリ→東京は空港で知り合ったHさん… おかげさまで、退屈せずに帰ってこられましたが、話しこみすぎて寝不足…Hさんはコックさんで、フランスに仕事を探しに行っていたらしいのですが、彼の知的好奇心ときたら、尽きるところを知らず。ある意味、あれだけの強い興味を持って人と話ができたら、とうらやましい限りでもあるのですが。 ともあれ、本当は少し荷物の整理でも…と思っていたのですが、結局爆睡。そして、まだ眠い…微妙に時差ぼけの兆候が…

カネと人間関係

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NGOは本当にサバイバル。調査はおカネの面ではほんの少し余裕がある。 少しずつ持ってくるおカネが増え、今回は一番楽をしたように思うけど…実は、結構な人数におカネを貸した。 ある人は奥さんの急な病気のため、ある人は子どもの学費のため、ある人は税金の支払いのため…日本円にすれば合計でも大した金額ではない。それぞれに事情があり、僕との関係性がある程度成熟した人たちばかり。そっとあげても良かったのだけど、たぶん彼らなりのけじめをつけるべく、口をそろえて「返す」と言った。 僕はそれを信じてみた。大方無理だろう、と思いながら。 やっぱり無理だった。 少し腹立たしく、でも、できたら、話をして返せるだけ返してもらおう、と思って、彼らの元に足を運んだ。その中の二人の民芸品売りは、気まずくて僕と顔を合わせようとしなかった。でも、一人をとっ捕まえて、「どうするんだ?」と問い詰める。この儀礼は必要だし、これに対しては、「返す」と言った彼らの責任を表明して、お互いの承認を得ないといけない。もう一度、以前のような関係性を回復するために、負ったものはお互いに清算しなければならない。最終的に、モノで回収しようと思っていたので、今回は一切土産物を買わなかった。思った通り。買値は少し高め。清算してさらに少し利益がでるようにした。でも、もう彼とは付き合わない、と思った。逃げたもう一人は、回りの友人に話をした。彼らは驚いていた。たぶん、彼は相当信用を失ったことだろう。他にも同じようにカネを貸した奴がいたから、もしかしたら、しばらく、苦しい思いをするだろう。 税金を払うと言っていた、ホテルの前のカフェを経営するラスタマン。2週間返済を待ち、帰国日にして「明日なら…」と言う言葉が出てくる。これは怒らないといけないと思い、叱りつけた。自分がツケ払いで首が閉まっているのに、人にもツケをするのか? 奥さんの病気のため、おカネをかしたタクシードライバー。現金で返すのがつらいだろう、と思って、車が必要な時は極力彼を使った。道は覚えられない、時間は少々ルーズ、それでも知人を紹介したり、仕事を増やしてやる努力もした。幸い、奥さんは健康を取り戻したが、ある日、彼は消息を絶った。携帯の調子が悪かったりすれば、僕の居場所を探してくれる奴だったけど、今回は全くその気配もない。体を壊してやしないといいけど

クロックス焼け。

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雨期とは言え、日差しの強いブルキナファソ。あんまり知っている人はいないかもしれませんが、割と色白な僕。日本にいれば、夏でも赤くなっておしまい。2,3日ですぐに元の色に戻ってしまう。 汚い写真を失礼しました。 ここ数回、クロックスを愛用しています。水陸両用。9.1の洪水のときも地にしっかり足をつけてこけることもなかったですし、少々蒸れますが、衝撃にも強く、デコボコ道の多いブルキナでは怪我することも少なくなりました。 で、この写真。病気ではない(はず…)のですが、気持ち悪い斑点。そう。クロックスの穴の跡通りに日焼けしているんです。ほぼ毎日クロックスで外出しているわけですから。最初は泥汚れかと思っていたんですけど、こすってもこすっても落ちないので、ある日、「あ、クロックス焼けだ…」と。 にほんブログ村

長い道のり

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ここのところ、ずっとオヤジ氏経営の「和が家」に行っていなかったので、久しぶりに顔を見せる。 そこに、パスポートセンターでお会いした日本人ご夫婦が座っていた。お話を聞くと、日本からずっと車とバイクで旅行されているとのこと。ロシアからヨーロッパへ、そしてアフリカへ。5か月ほどかけて旅行されているお二人。旦那さんは関西の大学にお勤めの経験のある歯医者さん。年はオヤジ氏の一つ下だという。旅程も長いが、人生の上でも長い道のりを歩まれてきている。 お二人から砂漠の話を聞いていると、青い布をまとってラクダに乗ったトゥワレグが道なき砂の上を地平線の彼方に消えて行く、という一節があった。想像するだけでわくわくする。イスラームがここに渡ってきたのも、こんな人たちによるはずだ。 ジボで聞いた話。 コーラン学校で学んだ生徒は、その後ワヒグヤOuahigouyaを通り、いくつかのイスラーム都市を通ってジェンネDjenneへと修行の旅を続ける。何度か聞いたこの話。そのたびに、マリのジェンネ近くでイスラームを研究されている坂井信三先生の著作やお話を思い出す。坂井先生はフィールドで、ブルキナベによく出会う、という。 繋がる。 なぜ、ブルキナファソにはモシのイマームがいないのか?なぜ、彼らは移動するのか?そして、都市はどのように彼らに捉えられているのか? 牧畜や商売、宗教、人間を突き動かしてきた様々な営みは今でも営々と生き残っている。間違いなく、都市の問題や近代的な技術を含みこみながら、だが。現代の都市の問題を考えようとするとき、都市が人々の目的地である、と勝手に解釈していたが、未だに、都市は通り道の1点でしかないのかもしれない。都市が呼吸するように、人を吸い込み、吐き出しているのか、と思ったが、これもそうでもないかもしれない。 前回の調査あたりから、なるべく旅行もするようにしている。ボボ・ディウラッソやバンフォラは遊び、程度だったが、それでも、普段見ない景色の中に新たな発見があった。人間が移動した痕は、建物に刻まれたり、人の生活に居残ったりする。 その断片を拾い集めてみると、ご夫妻が見たような、トゥワレグがラクダに乗ってどこに行くのか、が分かるのかもしれない。 にほんブログ村

ジボDjibo

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今回の調査の最終章はジボDjiboのコーラン学校の訪問。 ジボは2回目の訪問で、1月のアミノゥの結婚式以来。そして、今回も相棒はアミノゥ。ワガドゥグから約200km。ブルキナファソの北に位置するこの街は、まさにサーヘル。彼ら自身が、ここをそう呼ぶ。しかし、雨期の現在は実に水の豊かな街だった。 アミノゥの小さな50ccバイクにまたがり、砂を越え、川を越え…村まで約5km。途中にこんな川があります。この小舟に少々興奮気味でしたが、なかなか風情のあるもんで、渡航時間約2分。カワイイ川です。 そして、その後は砂っぽい道をひたすら走る。村に着くと、マラブー以下たいそうなお出向かえを受ける。そこは、フラニの村で、人口はせいぜい300人。一つの家族が3代くらいの間に大きくなったものだという。 畑を見せてもらったり、いろいろと話を聞かせてくれたり、コーラン学校のシステムは非常にクリアになる。文化相対主義的な立場からは、NGOの施策に対して素直に大いなる疑問を(コーラン学校はダメ?)、そして、論文にも本にもよく書かれていなかった、学校のシステム、経営の面では、近代と伝統の相克がしっかり浮かび上がってきました。 そして、なぜブルキナファソのイスラーム社会において、最大民族モシの影響力が弱いのかとか、フラニやヤルセのイスラーム巡礼について、そして、ジボのイスラーム社会とワガドゥグのイスラーム社会の関係、西アフリカのイスラーム社会におけるジボの位置づけ… 初日の午後のジボ市内のコーラン学校の訪問は、アミノゥの名人芸が光りました。アミノゥはこの1年間の調査のほとんどに同行してもらいました。人類学どうこうという話はしたことはありませんでしたが、サンプル数を稼ぎたかった今回は、彼の人脈を最大限利用させてもらい、2日間で6校訪問できました。本当に、調査協力者によって調査の質も量も大きく変わってくるのだ、ということを実感させられた3日間でした。 ※ちなみに、ジボのある地域を中心に、現在外務省から旅行自粛が呼びかけられています。くれぐれも、この記事は当地域の安全情報ではありません。調査者は調査協力者とその家族による保護が確定しているうえで調査を行っています。 にほんブログ村

ラマダン終わる。

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一昨日ラマダンが終わった。 一応2日間ほどお付き合いさせていただいたが、僕には拷問以外の何物でもない。なので、なるべく他のムスリムたちの前では飲み食いしないようにしていたけど、いろいろ言い訳しながらちゃんと飲み食いしていた。 しかし、ラマダン後のお祭りは礼拝(これが大事だったのに…)以外は参加してみた。と言っても、アミノゥの家のパーティに参加しただけなのだが。 アミノゥ宅は、割かし大家族。3家族が同居していて、総勢12,3人。家族と言っても、それぞれが独立家計で、何やらバラバラといろんなものを作っている。見ていて、面白かったのは、家庭内で食べ物の交換がなされていること。アミノゥ作の甘くないビサップジュースを隣の弟の家に持っていくと、おんなじビサップが返ってくる。ただ、味が少々異なり、弟家のビサップには、パイナップルシロップが入っていたりする。 飯食ってお茶飲んで、という、どのお祭りでも似たような行動をするのだが、オヤジさんの昔話とか、アミノゥのザングエテン時代の話によれば、つい7年ほど前までは、ラマダン明けのお祭り、タバスキ(ラマダン明け後40日)、バプテムは1週間お祭りが続いたそうだ。そして、食事の交換もそれくらい続く。ずいぶん牧歌的な話しだが、やはり時代だろうか。今では到底そんなことは考えられない。 そうこうしているうちに日が傾きかけたので退散したのだが、まあ、とりあえず、大手を振ってメシが食える、気を遣わずに生活ができるので、それだけでも楽ちんになった。 にほんブログ村

半分ブルキナベ

2002年8月。会社で仲良くしていた後輩に会社を辞めることを告げた。 彼に語った夢。 「アフリカで飯を食っていきたい」 何で飯が食えるのか、想像力の乏しい僕は、さして具体的なイメージなどなかった。それでも、何とかかんとかブルキナファソに食らいつき、鶏肉の肉をほじるようにしゃぶりつくしている。 今日、ビザの更新のため、警察署に行った。もう何度も更新しているので、大概知った顔。飲み屋で会っても、適当に声をかけてくるほどの人たち。 今年からこちらで更新するビザの値段が跳ね上がり、今回は一番短い期間でお願いするつもりだった… すると、職員の人から、 「もうお前はSejourのビザをやるよ。パスポート、いつまで?2015年までか、ラッキーだな。これで5年間、ここに来ることはないよ。」 と。そして、アミノゥから 「おめでとう。ムスリムになったし、これでほぼ完全にブルキナベだな。」 そしてさらに…毎回「今回が最後の長期滞在…」と思いながら出発するのに、また次回がありそうな話が出てきた。 何とかアフリカに喰わしてもらってます。