投稿

12月, 2013の投稿を表示しています

大晦日に。

2013年もあと8時間ほど。大晦日も元旦も365分の1…なはずなのに、嫌でも「年の瀬」感を覚える。街に出れば打っているものが違うし、家にいてもやることはいつもと違う。 まだ一つ仕事が終わっていないのだけど、朝から買い物に出たり、年賀状を書いたり(今年は元旦配達は早々に諦めた…)、やっぱり落ち着かず、残りの仕事を終わらせようと心に決めつつ、年末も謳歌している。 研究所に就職して2年目。今年の年頭の誓いは全く実行されなかったのだけど、その礎は多少なり進展があった。一昨年から頑張って関わりだした「アフリカ子ども学」は学会誌2誌に報告を載せたし、懸案の論文の投稿もした。「西アフリカのイスラーム」、「宗教組織の経営」などいくつかの研究会も順調に進んで、来年以降に希望を膨らませることができたし、プロジェクトの研究もほんの少しではあったけど新たな展開が見えてきた。 やりたいことはあるのに、大概のことを人に締め切りをきめてもらえないと進められない、という怠惰な性格はどうも治りそうにないけど、今のところ来年もそこそこ忙しくさせて頂けそうだ。どうも来年は「迷わず」の年齢、もう一つの区切りとして「前厄」になるらしい。迷っている暇も、余計な厄に躓いている余裕もない。 何度かあった高校の元同期(僕には同期が二つある)、まったくの同い年の旧友たちの顔を見ていると、みんなそんな年代らしいことが今年はよく分かった、というのも今年の収穫だ。なんとなく人並を知った。きっと気楽な研究稼業の僕などよりもよほど大きなプレッシャーに曝されながら生きているに違いない。そんな年代なのだ、ということを認識した。 大晦日も元旦も1年の約0.3%の時間。ケジメを付けるだけの時間にしてはもったいない。今日、明日と、2014年の展望をもう少し考えてみたい。 ともあれ。本年も大変お世話になりました。今年はこのブログもだいぶ読者が増えて、少し気を付けて文章を書くようにしました。内容もあんまり気楽に自分のことばかりではなくて、研究会とか、映画とか小説のこととか、多少なり有益な情報を書くようにしました。それでも、文芸関係の記事については、周辺的な情報を調べることはしなかったですし、単なる感想にとどまったように思います。このブログももう少し進化させねばな…とも思っています。そんなわけで、来年もこれくらいの頻度

大きなやつが…

イメージ
と言ってもトイレの話ではない。 何とか11月―12月の出張の報告書を書き終わった。文字数的には論文1本分くらい。だけど、データの整理やら、図面化とか、作業的にはなかなか手間がかかった。2週間くらい、熱いうちに打っておこうと思ったけど、結局1か月ほど時間がかかってしまった。どこもあきらめたつもりはないけど、そういうところがないといいな、と思う。 この報告書では、多少開発における技術論のようなことも展開した。「我われが教える」というスタンスは批判され、「人びとの実践から学ぶ」ことが大切であることはいたるところで主張されているのだけど、これをいかに具現化するのか、という部分を結論のようにした。 本当に短い調査期間ではあったけど、実に興味深い技術や人物が多く、もっとこうした技術や人びとの試行をアーカイブしていくことが大切だと実感したし、もっと色々なところを見たいな、という思いを強くしている。 とりあえず、今年もあと1日、原稿あと1つ。そろそろ写真のような青い空が恋しくなってきたけど、何はともあれ、もう今晩、何とか穏やかに新年が迎えられますように。

考えるのは如何に間に合わせるか、ということ。

論文の査読の結果が帰ってきたことを前の記事で書いたけど、動いている割にいろんなことが遅々として進まない。とりあえず、年内に、前回の出張のレポートと、3月締め切り予定のアブストラクトを提出しないと…。 兎にも角にも、昨日は少し気分を変えて仕事をしようと職場に行ってみたらネットが繋がらず、とりあえず、本だけを取って、買い物をして帰ってきたのだけど、夜は「風の谷のナウシカ」を見て一日が終わってしまった。まあ、頼まれ仕事は進めたので、なんにも出来ていないわけではないのだけど。 今月は追いまくられて、少々パンチドランカー気味。内心、どれをギブアップしてやろうか…とか考えてはいけないことまで頭をよぎっている。ここのところの思考傾向は、「いかに納期を守るか」ということ、その次に内容のこと。ただ、内容が旨く浮かび上がってこないからのめり込めないのだけど、大方、こういうひらめきに近いものは、絞るから出てくるものではなくて、少し余裕があるときに出てくるもの(少なくとも僕の場合はそうらしい)。なので、スパイラルはそれほどいい方向には向いていなくて、その結果、「どれをギブアップしてやろうか…」などと余計なことを考えてしまうことになる。 この思考から抜けるためには、とにかく手を動かしてみること(こうやってブログに駄文を垂れ流すのもその作業の一環だったりする)。テクストを紡ぐ頭の素地を作って、最初は勢いだけででも書き始めれば少しは前に進むというもの。 そんなわけで、これをどなたかに読ませてしまうこと自体が申し訳ないのだけど。

例のやつ、帰ってくる。

2011年の11月にかけこむように書いた論文を2年弱かけて9月にようやく提出。査読の結果が返ってきた。 正直なところ、寝かし過ぎてしまったようで、自分ではあまり自信をもって送り出していない。言い訳がましいが、2011年まで少しずつ調査を重ね、その後、ブルキナファソの政情不安があり、ずいぶん時間が空いてしまったことや、その間、ニジェールでの調査が入ったこともあって、少し臨場感を失った状況でコンプリートせざるを得なかったこともあり、補足すらほとんどできない状態だった。 しかし、とりあえずリジェクトの憂き目は免れ、事例部分のリライトが宿題、とのこと(もちろん、ほかにもいくつも書き直さねばならない箇所があるのだけど)。まずは、おかげさまを持って、少し光明も見えつつ、年越しの作業とさせていただくこととなりました。 とりあえず、今日から代休消化のため昨日をもって職場の仕事納めとなったけど、まだまだ「良いお年を」という雰囲気ではなく、ギリギリまで年末・正月気分はお預け、と言ったところ。そして、なぜか、ほかの事務処理書類やら原稿の周辺作業やらが飛び込んでくる、などなど、家にいるような感じがしない…

フランクフルトの空港にて。

イメージ
僕の調査地に行くには、必ずどこかを経由しないと到着できない。経由地で泊まりが入ると、作業をしていることが多いのだけど、トランジットの時間はどうも持て余してしまう。 前回の調査では、フランクフルトを経由してパリに飛んだ。フランクフルトは2度目の経由。しかし、日本からの便が多いことと、パリへの便が多いので、ものすごくトランジットの時間が短い。しかし、前回、乗継に急ぎながらも視界の片隅にデカいソーセージが…「フランクフルト、と言えばソーセージ。次回こそ!」と思っていたソーセージにとうとうたどり着いた。確か4ユーロほど。やはり乗継がギリギリだったので、搭乗口付近でパリパリと。

「宗教組織の経営」研究会(第2回・Closed)

【研究会の成り立ち】 2010年に南山大学の大学院生が中心となって行われている、「南山考人研」という研究会で、藏本龍介さんの発表を聞いた。きっかけは当時、僕もクルアーン学校のことを調べ始めていたころで、当時の研究室の友人に紹介されて参加した。藏本さんの研究は、ミャンマーの僧院の経営を考える、というもの。仏教とイスラームの宗教組織が「経営」という視点で比較できることが分かった。 その後、藏本さんと 中部人類学談話会でセッション を組んで研究発表。その間、南山の院生の中尾世治さんと3人で4-5回の研究会を重ねた。 しかし、その後、研究会自体は諸々の事情で一旦休止。2013年に復活させることに。10月に中部人類学談話会でコメンテーターをお願いした門田岳久さん、マリの呪術研究者(というのは狭いですが)の溝口大助さんを加えてキックオフ・ミーティングを行った。 【第2回研究会】 12月22日-23日にクローズド研究会で第2回を行う予定。今回は、さらにフィリピンの呪術/宗教研究の東賢太朗さんに加わっていただき、先行研究の検討として、 門田さんのご著書 の合評を行い、清水の事例発表を行う。 +++++++++++++++++++++++++ とこんな研究会が動き出した。個人的に勉強させてもらおうと思って参加させてもらっているのだけど、ご参加いただいているほかのメンバーの研究がよく練り上げられていて、ついていけるかを心配している。でも、大学院を出て、あるテーマでじっくり語り語り合う機会が激減した今の環境の中で、こうした会合は本当に貴重で、これからますます楽しみになっていくことだろう。

機械オンチ。

GPS、Illastorator、Photoshop…僕が使いこなせないソフトです。 今日も帰りがけの同僚を引き止めて教えてもらってGPSデータをダウンロードできました。こういうデータがあるとないとでレポートも見栄えが違うし、なんとか使いこなしたいな、と思うのだけど、どうも手が進まない…使わないと使えないし、使えないと使わない。 慣れるしかないけど、非生産的な時間を作るのがへたくそ。TwitterとかFacebookとかは見るのにね。でもおかげでレポートが一歩先に進みました。いつもすいません。

『合併人事 二十九歳の憂鬱』江上剛

イメージ
今日はだいぶ働いた。仕事も何個か終わったし、家のことも2つやったし。もちろん後いくつかの用事に追われてはいるけど、とりあえず一服。 11月の頭にあった古本市で纏め買いした小説その1(?)。 さすがに105円という小説。池井戸潤とどっちが古いか知らないけど、劣化版みたいなイメージを受けた。ちょっといやな感じを受けるのが、この作者がおそらくバブルに相当遊んでいただろう、ということ。銀行の重役さんがナンボ稼いでいる設定か知らないけど、愛人のためにシティホテルのスイートルームにバラの花をちりばめて…なんていう発想自体がバブリーだ。 この中に僕自身足しげく通っていた店が実名で出てくる。実は、おとといの夜、ちょっとそれを確かめたくて、その店のオーナーと話したら、そんなの初めて聞いた(これもどうかと思う)と。それは僕の問題でないので、どうでもいいけど、大方2005年ころの話らしい。すっかりバブルもはじけ、氷河期と言われた時期に、この設定。おカネがジャブジャブだった時代をノスタルジックに語ったつもりか… さらに、ヨガのインストラクターの設定の主人公の女性のルームメイト(ちなみに彼女たちがすんでいるという設定になっていたのが、確か松井秀樹が巨人にいたときに住んでいたマンション…だと思う)に「癒されて」しまう、話。浮気して、仕事とプライベートを混同させて、社内の立場が悪くなって、「そんなところも受け入れて私らしく生きればいいんだ」!…少々理解に苦しむ… 先日、文学のイベントに出させてもらって、ある作家いわく、「僕の本を読んで、まったく学ぶところがなかったと言われたらとても悲しい」と。こういう文章を書いてはいけない、と言う意味では勉強になったけど…たぶんこの作者の本はもう買いません。

「砂漠を生き抜く-人間・動物・植物の知恵-」

イメージ
国立科学博物館で行われている地球研との共催企画、「砂漠を生き抜く-人間・動物・植物の知恵-」の展示を見てきました。 久しぶりの上野公園。会社時代に野球をしに行った以来だから10年ぶりくらいか。休日ということもあり、人で溢れかえっていて、そろそろ近くのアメ横なんかも相当混んでいそうだった。 展示も人がいっぱい。意外にデートで来ていると思しきカップルが多く、ちょっとびっくりしたけど、そういう知的なデートもなかなかいいものだ、と少し感心してしまう。この企画を担当しているうちのプロジェクトは大学院時代の先輩が2名入っている。二人ともここのところ忙しく準備をしていた。 ブースが小さい…と聞いていたけど、しっかりワンフロア使っての展示。ここ4年間の研究成果をたっぷり展示してあった。人類学者3名と動物学者、植物学者が懸命に集めた情報のエッセンスが見て取れた。そして、彼らの雄姿もちらほらと。乾燥地の生、知恵…とても勉強になると思う。 ちょっと宣伝でした。 にほんブログ村

数を数えること:「ストリート・チルドレン」の統計調査(次回調査)に関して

今日はまじめに書きます(基本的にいつもまじめに書いてますが)。 今週に入って次回の調査の調整を始めた。今度の調査は、ワガドゥグの「ストリート・チルドレン」の数を数えることが目的だ。「数を数える」と言っても、数千人に上る「ストリート・チルドレン」を指差し確認するようなわけにはいかず、しかるべきNGOに協力してもらって、質問表を持ったインタビュア30名ほどを使って行う、かなり本格的なものだ。 自分の研究の目的であることは当たり前だとして、2009年以来行われていない統計データを補完する、また、自分の研究で疑問が出た部分に関していくつかの質問表から明らかにしていく、こんなことを狙って行う。 この調査をし始めてから、内外のいろんなNGOの活動が気になっている。「AIDS孤児」とか、いろんなラベルが貼られていくわけだけど、何を根拠にそんなことを言っているのだろう?どんな裏づけがあるのか、ということ、そもそも、国連なんかが出している数字をどれくらい本気に捉えているのだろう、とか… きっと僕が今回やる調査でも、「正確」な数字は取ることはできないのだけど、多少なり信用できる数字は取れるのではないか、と思う。この数字を取るだけで、50万か60万くらいのお金がかかる。これくらい、政府が…などと思っても、この仕掛けの大きさを考えたら、一仕事だから、やむをえない。でも、本来、NGOの活動などもこういう数字からはじめないといけないと思う。 すでに2006年の『世界子ども白書』で、子どもたちに付与されるラベルがスティグマとなっていることが指摘され、この状況の危険性について警鐘が鳴らされている。弱者を弱者にとどめておくことが、弱者の救済にはならない、ということも40年も前から文化研究あたりから言われている。僕らはなにをそこから学んだのだろう? こんな思想的なことは今回の調査からいえそうにもないけど、路上で生活する子どもが増えたのか、減ったのか、どんな子どもが多いのか、クリスチャンか、ムスリムか、どの地域の子どもが多いのかetc...少し具体的な数字を出せればいいな、と思う。

自己完結的「温故知新」

今週金曜日から土曜日にかけて東京に出張する。早稲田大学と東京大学でゲストスピーカーを頼まれた。さっき修士論文を書いているという後輩に「遊びにおいで」と言ったら、「かっこいい!」と言われたのだけど、まったくそんなのではない。前期にも早稲田大学では話をしたのだけど、やっぱりよく勉強していてアップアップになるから、はっきりいって「かっこわるい」。しかもネタがネタだけに… まあ、それはどうでもいいのだけど、今回の依頼者からのリクエストはアフリカの都市研究のレビューとラスタのネタで、とのこと。ラスタのネタは僕が修士論文で書いたものだ。 そんなわけで、5年も6年も前のデータとか発表資料を洗いなおしている。実は少し秋の集中講義で使ったから、少しまとめなおしているのだけど、さすがに、院生の講義でそのまま使うわけには行かない。別に学部生の講義を甘く見るわけではないけど、眠たくならないように、少し楽しい話題も…というのは院生にとってはつまらんだろうから、少し目先を変えざるを得ない。ある程度理論との整合性も必要だし、多少データらしいデータも出さないと講義にならないし。 しかし…よくこんなんでみんななんも言わんかったな、というデータと資料ばっかし。さも幼稚園とか小学校のころの青っ洟の跡のある写真を見るようなものだ。成長の記録、と言えばそれはそうだけど、それを今更引っ張ってきてどうこうしようと言うのだから、なかなかタフな仕事になる。とりあえず関係しそうなパワポを百何十枚並べ立てて、いるやつといらないやつを選別するのだけど、一枚一枚のデータが薄すぎて5枚くらいで1枚になってしまったりする。きっと20枚くらいのスライドで何とか収まってしまうだろう、と思うので、60分くらいは軽くしゃべれるか。 ただ、そんなことを言っても一時期夢中になって調査(の真似事)をやって、そのころの失敗や人脈があって今の自分があるわけで、自分の昔を探りつつ、もう一回いろいろ考えられてなかなか楽しくもある。ちゃんとまとめてみたら、もう一回調査してみたくなるんだろう。そうか、研究と言うのはこういうことの繰り返しなのか、と一人納得してみる。今のところ、自分の中だけだけど、古きを知り新しきを知る。 何度もこうやって使ってくれる依頼者に感謝!

ひと段落。

何とかホストを務めた研究会も終わり、落ち着いた日常を取り戻しつつある。もちろん、日々タスクはあるし、なんらかに追われながらの日常ではあるが、本を読んだり映画を見たりという、少し潤った一日一日が戻ってきた。 3日に帰国して、それから3日間は所内のイベント、その翌日に研究会がある、という無茶なスケジュールで動いたら、とうとう風邪を引き、忙しい中でもなんか知らないうちに治ってしまい、寝込むこともなかったのだけど、昨日の健康診断では絶不調の中で血圧が思いもよらないいい数字で、自分のことながらわけが分からない。まあ、大きな穴を開けずにすんだので、よしとする。 研究会は、新顔のお二人に発表をしてもらったことと、地球研に皆さんをお呼びできたので、これはよし。思ったよりも議論は盛り上がったし、ゆっくり話もできたので、合格点だろう。とにかく、自分には制度や大人から「子ども」への目線だけでなく、「子ども」をしっかり追いかける、という課題が再確認されたので、早い段階で調査に課題を組み入れる、という解決策を肝に銘じた。後は、もう少し大きな視点から話題を提供することをもう少しがんばろう、と思った。 今日は来春本になる原稿の二校目を入稿した。査読者から薦められた参考文献すべてを入れ込めなかったのが残念だけど、今の時点でできることはやった。学ぶことに終わりはないので、次の機会には必ず生かそう、そう思った。 こんなんで、帰国して1週間、よくがんばったので、自分で自分を褒めてやる。大体なにかやっても、内心後悔だらけで、疲れ果てて燃え尽きることが多いので、1年に一回くらいこういうことをさらすのはお許し願いたい。 今年もあと20日?今年はさっぱり切れのいい年末を迎えたいもの。せっかくの大型連休、コタツで原稿…とかあんまりやりたくないしね。やり切って燃え尽きて寝正月。これがいい。

井の中の蛙大海を知らず

イメージ
僕ら研究者は、「発見」とか「伝統」とか、その言葉そのものの意味とは違う意味で使用していること(ある意味皮肉を込めて)を示すために「」をよく使う。この方法は、読者/オーディエンスからの批判を躱すために用いられることが多いのだけど、今回の調査、まさに「発見」が多かった。つまり、「発見」したのは僕であって、そもそも僕が発見したと思っていたものは、そこにあったのだ、ということ、そんなことを書いてみたいと思う。 今回の調査、5団体のNGOと関わった。特にそのうち3団体については、初めて見せてもらったNGOで、その方法やこれまでの活動、はとても興味深かった。 僕はプロジェクトの仕事として、アンドロポゴンという雑草の人びとの利用を観察している。この草は、西アフリカの乾燥地では家の屋根を葺いたり、穀物庫を作ったり、庇やトイレの目隠しなどにも使われている、ここの生活でもとても大切なものだ。 水の流れや風によって表土が流出してしまうことで、農業生産性を下げ、その結果、その土地を放棄してしまう。これが僕らのいう「砂漠化」のサイクルの一つなのだけど、「砂漠化」を防ぐ一つの方法として、このサイクルを止めることが大切になってくる。しかし、このためにはこれまでにもたくさんの方法が編み出され「実行されている」のだけど、どれも一長一短、なかなか根付かない、という前提があった。そこで、アンドロポゴンがここの人たちの生活に重要な位置を占めている、つまり、売れる、さらにつまり経済的なインセンティブがある、ということを考えた。 今年5月の国際学会で発表した時も別に誰が見に来たわけではないけど、まあ、僕も「これはいいアイディアじゃないか」と思っていた。実際に多少なり確実に効果があるのだけど、見る人が見ないと、この効果はわかりづらくて、「砂漠化」がとまりました、とは言いづらい。 まあ、しかし。こんな話をNGOの人たちとしていると、みなニコニコして聞いてくれる。「そうだよね」って。そしてこう繋げる。 「明日見に行くサイトにそれをやっているところがあるから、ぜひ見に行きましょう」。 果たして。それぞれの村にはかなりの頻度でこの技術が実践され、どうももう10年くらい前から行われているようなのだ。それを新しいものとして、紹介しようとは…現場を見たから感じた恥ずかし