「したがって」考:『ケニアの教育と開発 アフリカ教育研究のダイナミズム』途中評

4月に京都女子大で行われた「アフリカ教育研究フォーラム」で、著者の澤村先生よりご献本いただき、ボチボチと読ませていただいています。

「人類学者には物足りない記述かもしれませんが…」

などとご謙遜されていましたが、厚い記述がなされており、堪能させていただいています。実はまだ読み切っていないので、「評」にするかどうか考えましたが、備忘録的な「評」の前段階というか、課程ということでその一部とさせていただこうと思います。

澤村先生のご編書、何冊か拝見していますが、かなりの部分を(おそらく)澤村先生のお弟子さんに書かせています。これはとても特徴的で、正直なところ、教育をご専門とされているだけに、うらやましい環境を作られています。修士課程の段階で本が一冊残る…なかなかないですよね。実際に何人かお弟子さんにもお会いしましたが、とても一生懸命励まれている方が多くて、きっといい研究室なのだろうな、と思わせます。

一概に異分野の出来事で済ませてしまうのはよくないだろう、とは思うのですが、気になる部分の一つをメモ程度に。

この本も多くの部分で通底するのですが、僕が「近代」教育とわざわざ「近代」を付ける教育に対してどんなふうに考えているのか、ということが実はここまで(半分くらい)であんまり書かれていないなーって思ってます。「第4章 近代教育形成における伝統文化の位置づけ ポストコロニアル時代の批判的検討」の切り口はとても面白くて、まさに近代批判を展開されるのかと思ったら、「伝統主義」批判に行ってしまってちょっと残念。僕としては、なんですが、これを裏付ける事例の一つもあればよかったと思います。が、逆に筆者の志向の方向性みたいなものが明らかになったので、妙に主張はわかりやすいので、それはそれでよい、ということだと思います。

この志向性の違いみたいなのが、モロに出ているのが次の章。

「彼女は、12人の兄弟姉妹(男9人、女3人)の末っ子として育ち、今は小学校でボランティア教師として働いている。彼女の兄たちは、父親の反対で中等学校へ進学できなかった。したがって兄たちの職業は農夫やマタツ(乗合ワゴンバス)の運転手であり、それ以外の選択の余地もなかったという。」(伊藤2013:111)

後半に出てくる事例なのですが、僕にはどうしても前の文章と次の文章を“まだ”「したがって」では結べません。「したがって」を挟む前後の文章の因果関係は、もしかすると程度の問題かもしれないのだけど、学校に行かなかったからいい仕事に就けなかった、というのは教育にいろんなものを背負わせすぎだな、という感じがしてなりません。

まだ途中なので、もう一度改めるとして。






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