大学院生と「労働」②:僕がかかわった仕事

この話の2話目。1話目、読み直したら文体バラバラで読みにくいですね。失礼しました。ここで「ですます」調は止めます。

さて、院生の間に僕がかかわった仕事(バイト)について。3話目で終わろうと思うが、その前振りとして、一部実名は伏せて書いてみようと思う。

最初に、名古屋に移り住んできたときに、塾の講師やら、院生がやりそうなバイトには一通り応募して、それぞれいいところまでは行った。多くが最終面接まで到達して、条件が悪すぎたりして最終的にお断りしたのだけど、興味深かったのは「教室長」待遇がいくつかあったこと。どういうつもりかわからないけど、複数こんなオファーがあった。当然社員待遇だけど、さすがにわざわざ研究しようとして名古屋まで来たので、こちらもごめんなさいをした。

そもそもそんなにガッツリとバイトをするつもりもなかったので、奨学金を1種、2種ともに申し込んでいた。修士のころが計13万くらいだった。これに、最初の2年間はNGOの仕事をして、これが定額5万、あと、その前の年まで1年くらいやっていた東京の居酒屋のバイトをやっていた。ホームは東京で、なんやかんやと東京に帰った時や休みの時に東京で居酒屋のバイトを続けた。おそらく修士のころの実入りは20万強、と言ったところか。生活はずいぶん質素になっていたから、まあ、そんなにしんどくはなかった。

その翌年に博士課程に進学するのだけど、つらかったのは1年目。とりあえず、奨学金の1種はもらっていたし、バイトも東京の居酒屋を引き続きやっていたけど、調査やらが結構忙しくて、それどころではなかった。学振もDC1は落ちて、修士のころの生活をさらに切り詰めた。若竹荘という、大学近くの家賃2万台のアパートに移ったのもこのころ。

しかし、博士課程2年目でDC2をいただけた。なので、ここから2年間は特に問題なし。調査にも行ったし、平穏な2年間だった。
そして、問題はここから。

学振が終わって、博論が書けて、どこかに就職…なんて話はほとんどないわけで、特に優秀でもない僕は放り出される格好になったのだけど、ちょうど役員をやっていたNGOのスタッフのオファーが来た。NGOとしては超好待遇で、週の半分を東京、半分を名古屋という生活をしばらく続けたけど、こんな生活、落ち着くわけもなく、NGOにはごめんなさいをした。本当に申し訳なかった。

すると、いよいよ収入のあてがなくなったのだけど、とりあえず、助成金がとれていたので、調査に行くことになった。捨てる神あれば拾う神あり、とはよく言ったもので、この調査の時に新たに財団の口が見つかった。この仕事では月平均11万くらいだったと思う。益々切り詰めないと行けなかったけど、実はこの辺で結婚なぞしてしまう。共働きになったので、生活自体はメチャクチャしんどいわけではなかったけど、外食をかなり減らしたし、午前中家で作業をして、お昼を家で食べてから研究室に行くという日常だった。

院生時代の仕事遍歴はこんなところ。ほかに小さい仕事としては、大学院のティーチングアシスタントは割とコンスタントにもらえていたし、JICAの講師をやりはじめたのは博士課程に入って間もなくのこと。一応、最初に考えていた通り、コンビニとか塾とかで時間をロスすることはあまりなかった。

次はこの最後の財団の仕事の契約が終わった後の「失業保険」を巡って大学院生と失業保険、「労働」の問題を考えてみたいと思う。

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