近頃の大学生。オッチャンになったことを自覚する出来事。
先日、お世話になっている先生から、NGOに興味を持っている子がいるから、ちょっと話してやってもらえないか、という相談を受けた。同じくらいの時期に、研究会を共にする知人から、今年度学生と一緒にやったフィールドワークをまとめたから、ということで、報告書をご恵贈いただいた。
報告書を書いた大学生たちには、一度ゲストスピーカーで呼んでいただいているので、向こうは多少僕のことを知っているかもしれないが、NGOに…という方の方は一切面識なし。つまり、テクストだけが彼(女)らを知る唯一のカギだ。
まず、「NGO青年」(NGOに興味を持つ学生をこう呼ぶ)。将来はUNESCOで働きたい、という夢をもち、最近NGOのスタツアに参加した。その先生の影響でか、アフリカに興味を持っているので、アフリカで活動するNGOを紹介してほしい、ということだった。とにかく事前情報がないので、少し情報を、と思い、根掘り葉掘り聞いてみる。すると、そのうち、アフリカを見たい、ということになり、それなら、ということで、バックパッカーでもしてみたら、と勧めてみた。向こうも僕のことを知らないわけで、そうそう突っかかっては来ないだろうと思っていたら、思ったよりも素直で、大概すべて僕の話したことに従っていく。逆に気味が悪くなってしまって、ついつい「突っかかってもいいんだよ。僕はメールでしかあなたのことを知らないから、間違ったことも言ってると思うし…」などと言ってしまう。
就職のこととか、大学生が必ず頭を悩ますことで頭がいっぱい。夢はあるけど、その夢がどこから来ているのかがよくわからずに悶々とする、そんな感じだろうか。僕らのころは、NGO/ボランティアという言葉が「偽善」という言葉に結び付くことが多くて(最近のネット系の人たちくらいの志向だったんだな…と最近気づく)、自分の汚さについて悶々と悩んだような気がするが、「NGO青年」の世代はあまりそんなことは考えないらしい。じゃあどの辺に「NGO青年」の興味があるのかといえば、それは相変わらずよくわからないまま。「少し落ち着いて考えてごらん」そんな風にして、ちょっと考えてもらっている。
次に報告書。これは3年生、4年生くらいが受講するフィールドワークの実習講義の年度末報告書なのだが、学生の皆さんは、こうした冊子になるような文章、報告書の類は初めて書くのだと思うので、かなり頑張ったのだと思うのだが、なによりこれを編纂した知人が相当相当頑張った形跡が見られた。在日アフリカ人をフィールドワークする、というテーマだったのだけど、これはこれでなかなか難しいテーマでやったのもまた事実。あまりに他者性の強いグループへの調査ということからか、中には全く調査ができない学生もいる。ほとんど接したことのない、肌の色の違う人を目の前に、彼らから話を引き出すことなど、差別感覚とかナイーブな議論などぶっ飛んでしまうほどとんでもなく恐ろしいことだというのは想像に易い。
それでも、何人かに関しては、果敢にアフリカ料理屋にバイトとして潜入したり、不自由な言語を使ってのインタビューなどを試みていて、読みながら心の中で応援してしまう。でも、ほとんどの人は、「帰ってしまう」のだ。せっかく「クラブにいこうぜ!」と誘われても。もちろん安全第一、海千山千の被調査者との距離感など、まだ大学生ではなかなか難しいだろう。何が忙しいのかわからないし、もしかしたら、ギリギリのところまで頑張ったけど、もう耐えきれなくなって…ということなのかもしれないけど、やっぱり「帰って」ほしくなかった。
二つのパターンの大学生とテクスト上で交流してみて、彼らが変わったのか、僕自身が変わったのかわからないけど、素直すぎたり(相手の意図が読めない)、人と長くいられない(人と一緒にいることに不慣れ)というのは、確固たる根拠はないのだけど、そんなことは言えるのだろうと思う。ゲームが…パソコンが…などとも、もしこうしたことが明らかに言えるとしたら、その理由のいくつかとして考えられるのだろう。しかし、おそらくは僕らがこの世代だったころ、40くらいの人たちには、あいつらは…などときっと思われていたことだろうことを考えると、例のスパイラルなのである。「今どきの若者は…」である。
一昨年でたある機関誌のエッセイに、子ども学を学ぶことについてこんなことを書いた。ソクラテスのころから、「近頃の若者は…」というフレーズは存在したそうだ。私たち大人は、必ず子どもの時期を通って大人になっているはずなのに、必ず子どもと大人の間にはギャップがある。子どもを理解するということは、子どもの認識や世界観を大人のレベルで語ることで、即ち、「近頃の若者は…」という感覚から離れることでもある。云々かんぬん。
若者はイノベーションを吸収する能力が高く、年を経るごとに若いころに習得したイノベーションをカスタマイズして、自分のものとするから、当然のごとく保守化する。変化を好まなくなるのはそのためなのではないか。とすると、オッチャンになりつつある僕のような世代も、イノベーションに敏感になっておかないと、「近頃の若者は…」スパイラルにはまり込んでしまう。これがいいのやら悪いのやら。みんながみんなこのスパイラルから脱出してしまうと、カッコを付けた「伝統」すらなくなってしまいそうだし。
僕はまだ電子媒体の音楽をダウンロードした経験がない。大学生がボブ・マーリーを知らないことに驚いたが、彼らはまたオッチャンが音楽をダウンロードしたことがないことに驚くだろう。ともあれ、こんなことを気遣わないといけなくなったこと自体がオッチャンになったのだな…と少し遠い目で考えてしまうのであった。
報告書を書いた大学生たちには、一度ゲストスピーカーで呼んでいただいているので、向こうは多少僕のことを知っているかもしれないが、NGOに…という方の方は一切面識なし。つまり、テクストだけが彼(女)らを知る唯一のカギだ。
まず、「NGO青年」(NGOに興味を持つ学生をこう呼ぶ)。将来はUNESCOで働きたい、という夢をもち、最近NGOのスタツアに参加した。その先生の影響でか、アフリカに興味を持っているので、アフリカで活動するNGOを紹介してほしい、ということだった。とにかく事前情報がないので、少し情報を、と思い、根掘り葉掘り聞いてみる。すると、そのうち、アフリカを見たい、ということになり、それなら、ということで、バックパッカーでもしてみたら、と勧めてみた。向こうも僕のことを知らないわけで、そうそう突っかかっては来ないだろうと思っていたら、思ったよりも素直で、大概すべて僕の話したことに従っていく。逆に気味が悪くなってしまって、ついつい「突っかかってもいいんだよ。僕はメールでしかあなたのことを知らないから、間違ったことも言ってると思うし…」などと言ってしまう。
就職のこととか、大学生が必ず頭を悩ますことで頭がいっぱい。夢はあるけど、その夢がどこから来ているのかがよくわからずに悶々とする、そんな感じだろうか。僕らのころは、NGO/ボランティアという言葉が「偽善」という言葉に結び付くことが多くて(最近のネット系の人たちくらいの志向だったんだな…と最近気づく)、自分の汚さについて悶々と悩んだような気がするが、「NGO青年」の世代はあまりそんなことは考えないらしい。じゃあどの辺に「NGO青年」の興味があるのかといえば、それは相変わらずよくわからないまま。「少し落ち着いて考えてごらん」そんな風にして、ちょっと考えてもらっている。
次に報告書。これは3年生、4年生くらいが受講するフィールドワークの実習講義の年度末報告書なのだが、学生の皆さんは、こうした冊子になるような文章、報告書の類は初めて書くのだと思うので、かなり頑張ったのだと思うのだが、なによりこれを編纂した知人が相当相当頑張った形跡が見られた。在日アフリカ人をフィールドワークする、というテーマだったのだけど、これはこれでなかなか難しいテーマでやったのもまた事実。あまりに他者性の強いグループへの調査ということからか、中には全く調査ができない学生もいる。ほとんど接したことのない、肌の色の違う人を目の前に、彼らから話を引き出すことなど、差別感覚とかナイーブな議論などぶっ飛んでしまうほどとんでもなく恐ろしいことだというのは想像に易い。
それでも、何人かに関しては、果敢にアフリカ料理屋にバイトとして潜入したり、不自由な言語を使ってのインタビューなどを試みていて、読みながら心の中で応援してしまう。でも、ほとんどの人は、「帰ってしまう」のだ。せっかく「クラブにいこうぜ!」と誘われても。もちろん安全第一、海千山千の被調査者との距離感など、まだ大学生ではなかなか難しいだろう。何が忙しいのかわからないし、もしかしたら、ギリギリのところまで頑張ったけど、もう耐えきれなくなって…ということなのかもしれないけど、やっぱり「帰って」ほしくなかった。
二つのパターンの大学生とテクスト上で交流してみて、彼らが変わったのか、僕自身が変わったのかわからないけど、素直すぎたり(相手の意図が読めない)、人と長くいられない(人と一緒にいることに不慣れ)というのは、確固たる根拠はないのだけど、そんなことは言えるのだろうと思う。ゲームが…パソコンが…などとも、もしこうしたことが明らかに言えるとしたら、その理由のいくつかとして考えられるのだろう。しかし、おそらくは僕らがこの世代だったころ、40くらいの人たちには、あいつらは…などときっと思われていたことだろうことを考えると、例のスパイラルなのである。「今どきの若者は…」である。
一昨年でたある機関誌のエッセイに、子ども学を学ぶことについてこんなことを書いた。ソクラテスのころから、「近頃の若者は…」というフレーズは存在したそうだ。私たち大人は、必ず子どもの時期を通って大人になっているはずなのに、必ず子どもと大人の間にはギャップがある。子どもを理解するということは、子どもの認識や世界観を大人のレベルで語ることで、即ち、「近頃の若者は…」という感覚から離れることでもある。云々かんぬん。
若者はイノベーションを吸収する能力が高く、年を経るごとに若いころに習得したイノベーションをカスタマイズして、自分のものとするから、当然のごとく保守化する。変化を好まなくなるのはそのためなのではないか。とすると、オッチャンになりつつある僕のような世代も、イノベーションに敏感になっておかないと、「近頃の若者は…」スパイラルにはまり込んでしまう。これがいいのやら悪いのやら。みんながみんなこのスパイラルから脱出してしまうと、カッコを付けた「伝統」すらなくなってしまいそうだし。
僕はまだ電子媒体の音楽をダウンロードした経験がない。大学生がボブ・マーリーを知らないことに驚いたが、彼らはまたオッチャンが音楽をダウンロードしたことがないことに驚くだろう。ともあれ、こんなことを気遣わないといけなくなったこと自体がオッチャンになったのだな…と少し遠い目で考えてしまうのであった。
最近はジジイになったことを自覚しているkatabiranotsujiです。(笑)フツーの高校生と接している私は少なくともワンピースを見ていることで、かろうじて文化面で繋がっています。(笑)アフリカのソウルフードの記事も楽しく拝見しています。調査、頑張ってください。
返信削除katabiranotsujiさん、そんな「ジジイ」なんて。ワンピース、やっぱり読まないといけないですね。古本屋で手が出そうになるのですが、その前にほしい本があって、なかなかおカネを出すに至りません…
返信削除それにしても早く大学生といつも接していられる環境に身を置きたいもの。志のレベルは未だ若いままなのですが…