「ヤギ2頭「も」」か「ヤギ2頭「しか」」か?
昨日書いた学会シンポの件でもう一つ。
「みんなの学校プロジェクト」は、ニジェールの広範域を対象に就学率を上げることを目的としたJICAのプロジェクト。世間的な評価についてはよく知らないが、内部評価は上々なよう。シンポでは、このプロジェクトについてもかなり強く触れられた。
僕が理解している限り、このプロジェクトは、「コジェス」と呼ばれる学校運営委員会がコミュニティと教員によって組織され、自らの手によって学校を運営していく(つまり「住民参加」ということ)ものだ。経済的不調などのこの地域特有の問題や、地方分権化といった制度的変化により、このあたりの小学校にはなかなかおカネも先生も回ってこない。それなら、住民自らが自分たちの子どもの教育を担うようにしようという意図なのだろう、と思う。
果たして日本でもこれが成立するのか、というと、すでにこの辺で疑問を感じてしまうのだけど、JICA関係の方によれば、そこそこうまくいっているらしい。その評価基準として、どんなものが使われているか、というと、ナンボ住民が学校運営のためにおカネをだしたか、ということ(きっとほかにもあるだろうけど)で、1校あたり15万Fcfaくらいなのだそうだ。
15万Fcfa。日本円で約3万円くらいなのだけど、ご発表された方は、(あの貧しい地域の人たちが)「15万Fcfa『も』」拠出した、と評価されている。だが、15万Fcfaといえば、羊が高騰するタバスキ(イスラームの犠牲祭)の大きな羊2頭分くらい。通常でもヤギ4頭を買うのも難しい。確かに一家族で出すのであれば結構な出費だが、150人くらい生徒がいるとすると、この額はたいしたことはない。僕は「15万Fcfa『しか』」と思ったわけだ。僕の感覚としたら、一大事があれば、家畜を売ってそれくらいのおカネを用意できる人が大多数だと感じているし、イスラーム学校なら、少しカネを持っている人がポンと出してしまうだろう、と思うのだ。
当然、日本と同じように、ニジェールでも、「学校」は「国」が提供してくれるもので、周辺国では義務教育の無償化が進んでいるところもある。そこに自分らでおカネを出せ、ということ自体が難しい発想で、当然出し渋るだろうな、というのは想像に易い。確かに、教育は現代社会を生き抜く上で重要な公的サービスであることは間違いない。だが、「教育」は一つでないし、その土地の文脈を十分に理解して実施しなければずいぶん無理がかかるような気がする。
ご発表をされた方の「も」か、それとも僕の「しか」が正しい感覚なのかはわからないけど、「教育学」のフィールドでもこうした議論が起こるとより豊かになるのではないか、と強く強く感じた。
「みんなの学校プロジェクト」は、ニジェールの広範域を対象に就学率を上げることを目的としたJICAのプロジェクト。世間的な評価についてはよく知らないが、内部評価は上々なよう。シンポでは、このプロジェクトについてもかなり強く触れられた。
僕が理解している限り、このプロジェクトは、「コジェス」と呼ばれる学校運営委員会がコミュニティと教員によって組織され、自らの手によって学校を運営していく(つまり「住民参加」ということ)ものだ。経済的不調などのこの地域特有の問題や、地方分権化といった制度的変化により、このあたりの小学校にはなかなかおカネも先生も回ってこない。それなら、住民自らが自分たちの子どもの教育を担うようにしようという意図なのだろう、と思う。
果たして日本でもこれが成立するのか、というと、すでにこの辺で疑問を感じてしまうのだけど、JICA関係の方によれば、そこそこうまくいっているらしい。その評価基準として、どんなものが使われているか、というと、ナンボ住民が学校運営のためにおカネをだしたか、ということ(きっとほかにもあるだろうけど)で、1校あたり15万Fcfaくらいなのだそうだ。
15万Fcfa。日本円で約3万円くらいなのだけど、ご発表された方は、(あの貧しい地域の人たちが)「15万Fcfa『も』」拠出した、と評価されている。だが、15万Fcfaといえば、羊が高騰するタバスキ(イスラームの犠牲祭)の大きな羊2頭分くらい。通常でもヤギ4頭を買うのも難しい。確かに一家族で出すのであれば結構な出費だが、150人くらい生徒がいるとすると、この額はたいしたことはない。僕は「15万Fcfa『しか』」と思ったわけだ。僕の感覚としたら、一大事があれば、家畜を売ってそれくらいのおカネを用意できる人が大多数だと感じているし、イスラーム学校なら、少しカネを持っている人がポンと出してしまうだろう、と思うのだ。
当然、日本と同じように、ニジェールでも、「学校」は「国」が提供してくれるもので、周辺国では義務教育の無償化が進んでいるところもある。そこに自分らでおカネを出せ、ということ自体が難しい発想で、当然出し渋るだろうな、というのは想像に易い。確かに、教育は現代社会を生き抜く上で重要な公的サービスであることは間違いない。だが、「教育」は一つでないし、その土地の文脈を十分に理解して実施しなければずいぶん無理がかかるような気がする。
ご発表をされた方の「も」か、それとも僕の「しか」が正しい感覚なのかはわからないけど、「教育学」のフィールドでもこうした議論が起こるとより豊かになるのではないか、と強く強く感じた。
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