西アフリカの伝統教育における「教師」論

こういうことは一人で温めておいた方がいいのだろうけど、どうせ大した話ではないので少し書いてしまおう。まだアイディア段階で、まとまった話にはならないので。でも、僕にわからないところでいいアイディアだと思ったらこっそり「こうしたら」と教えてください。

この月末、「アフリカ教育研究フォーラム」という学会で発表することになっているのだけど、前回の発表の時に調子に乗って「毎回発表します」とぶち上げてきたので、今回もやることになっている。これは全く後悔していなくて、前回もアイディアレベルをまとめて持っていったら、ものすごくよくまとまった、という経験がある。学会だから、完成度をあげて行かなければならないので本当にこんな意識で持って行ってしまうのは申し訳ないのだけど、大御所の先生と院生が主体で、いい雰囲気のゼミのように感じていて、叩いてもらうにはいい環境だと思っている。

前回は教育を行う組織であるクルアーン学校の社会的位置づけについて発表した。今回は、そこで教える「教師」のことを話そうと思う。「学校」という組織の主体が、生徒と教師によって成立するとすれば、その一つのアクターについてである。おそらく教育学だと、「教師論」のようなものがあるのだろうけど、今回はこれはぶっ飛ばそう(論破するという意味ではなく、やらないという意味)と思う。想像するに、西欧的な教師論とアフリカの「センセイ論」はずいぶん違う気がするし、比較することにはさほど意味はないだろうから、エスノグラフィックに描き出していこうというわけだ。そのため、方針としては、教師の人間、生い立ちなどパーソナルな面に焦点を当てていく方法をとろうと思っている。

何度かにわけて、イスラーム地域の教育を包括的に明らかにしていこう、というプロジェクト第2弾。「アフリカ子ども学」からスピンオフした「アフリカ教育学」、学校/教育の機能は間違いなく子どもたちの生活に大きな影響を与えているし、教育という場やそれが行われる空間には子どもに大人の理想やその社会の理念が反映されるはずで、間違いなく大きな関連性が見られるはずだ。その空間をフィーチャーするのが教師だとすれば、この一連の研究の肝のようになっていくのではないか。

メモ書き程度、自分の考えのまとめまで。

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