ブルキナ政変 現地報告④
昨日で終わりにしておこうと思ったのですが、もう一回続けます。
というのも、今日はほかの調査の帰りに、そういえば…と思い、グラン・マルシェの友人たちの元を訪ねてきました。きっと彼らは運動の中心にいたはずだ、と思ったからです。
ワガドゥグの商業の中心、グラン・マルシェは、昼下がりにも拘わらず、いつもの通りというより、幾分以前よりも活況を呈していました。例の一件の後でというよりも、間近に迫ったクリスマス、年始を控えてのものかもしれません。友人たちも忙しそうに客をあしらっていましたが、僕の顔を見ると、待ってましたとばかりに、かわるがわるにあの時の話をしてくれました。
今回の僕の興味は、どのようにして群衆が、統制のとれた行動ができたのか、というところにあるのですが、その一端をいろいろ教えてくれました。
期待していた通り、彼らは実際に国民議会に突入したまさにその人びとでした。彼らは10月28日からデモ隊を形成してきました。28日は市中心部を練り歩き、元々、憲法37条の改変の国民投票を行う議決が発表される予定であった、29日に標準を合わせていたようです。当初、この議決は、29日深夜に行われる予定でしたが、当日になって30日の午前10時に変更になります。彼らはその時刻に遅れてはいけない、ということで、数千人が街のど真ん中の道路を封鎖してそこに寝たのだそうです。30日8時、すでに街の中で夜を明かした人びとに、ワガドゥグ中から加勢が加わります。
予定通り、議決が行われることになることを聞いた人びとは、国民議会場に殺到。警察隊、憲兵隊、大統領警護部隊が待ち構えていたといいます。しばらくにらみ合いが続いている間、警察隊らは威嚇発砲をしたり、最後に催涙弾を投入します。民衆は手に水をもち、催涙弾のガスから身を守り、街中の防火栓を開け、防御態勢を固めつつ、次々に加勢する市民を巻き込み、警察隊らに圧力をかけていきます。間もなく議決発表予定時刻の10時になろうとしたとき、人びとは警察隊らを包囲し、一気に国民議会場に突入します。その後は、これまでにご報告した通り、これまでに権力を傘に、搾取をしたと思われる人びとへの仕返しが始まったといいます。
…
こんな話を聞き、やはり今回の政変でも30名もの若い命が失われました。これだけの規模にしては、ずいぶん少なく済んだな、と感じつつも、やはりこうした犠牲の元に政治は浄化されていくのだな、と思わされました。友人の一人が、こんな機会だから、ということで墓地に連れていってくれました。彼らのうちの7名は、市の中心部の西側のグンゲという地域の墓地に埋葬されていました。損傷が激しかった他の犠牲者の遺体は、早々にそれぞれが埋葬したそうです。
それぞれの生年を見ると、10代~40代の働き盛り、これからのブルキナを支えるべき青年たちでした。彼らは、この民衆の代表として、この墓地の入り口のところに並んで埋葬されています。
そして、なぜこの墓地だったか、と言えば、1998年に凶弾に倒れたジャーナリスト、ノベル・ゾンゴが埋葬されているからでした。ノベル・ゾンゴは、コンパオレ前大統領の不正を暴くために取材を重ねている最中、何者かに(フランソワだといわれている)襲撃され、何名かの仲間と共に斃れた、トマス・サンカラと並ぶブルキナファソの政治的英雄です。それから15年が経ち、30名の犠牲者を出しながらも、ノベル・ゾンゴの仕事が再度注目されることになっています。前政権の不正を暴き、ゾンゴ氏らを襲撃したのが誰だったのか。連日、ラジオではこうした話が流れています。
国民的英雄、トマス・サンカラは、この国を、「ブルキナ・ファソ」(高潔な人びと)と名付けました。とても貧しいこの国には、もちろんいろんな人がいます。個人的な経験でも、とんでもない奴はたくさんいました。しかし、今回の政変で、不必要な犠牲を一切出さずに、一貫した正義を貫き通すこのやり方は、実に称賛されるべきものだと思います。
昨日も同じようなことを書いた気がしますが…1か月半ほど前に、国政のシンボルに破壊の限りを尽くした人たちは、今日の暮らしのために、しかも明るくマルシェを駆け回っていました。人のなりわい、生活とはなんなのか。何のために生き、何のために死ぬのか。そして、僕は観察しているだけでよいのか。今日もいろんなことを考えさせられました。
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というのも、今日はほかの調査の帰りに、そういえば…と思い、グラン・マルシェの友人たちの元を訪ねてきました。きっと彼らは運動の中心にいたはずだ、と思ったからです。
ワガドゥグの商業の中心、グラン・マルシェは、昼下がりにも拘わらず、いつもの通りというより、幾分以前よりも活況を呈していました。例の一件の後でというよりも、間近に迫ったクリスマス、年始を控えてのものかもしれません。友人たちも忙しそうに客をあしらっていましたが、僕の顔を見ると、待ってましたとばかりに、かわるがわるにあの時の話をしてくれました。
今回の僕の興味は、どのようにして群衆が、統制のとれた行動ができたのか、というところにあるのですが、その一端をいろいろ教えてくれました。
期待していた通り、彼らは実際に国民議会に突入したまさにその人びとでした。彼らは10月28日からデモ隊を形成してきました。28日は市中心部を練り歩き、元々、憲法37条の改変の国民投票を行う議決が発表される予定であった、29日に標準を合わせていたようです。当初、この議決は、29日深夜に行われる予定でしたが、当日になって30日の午前10時に変更になります。彼らはその時刻に遅れてはいけない、ということで、数千人が街のど真ん中の道路を封鎖してそこに寝たのだそうです。30日8時、すでに街の中で夜を明かした人びとに、ワガドゥグ中から加勢が加わります。
予定通り、議決が行われることになることを聞いた人びとは、国民議会場に殺到。警察隊、憲兵隊、大統領警護部隊が待ち構えていたといいます。しばらくにらみ合いが続いている間、警察隊らは威嚇発砲をしたり、最後に催涙弾を投入します。民衆は手に水をもち、催涙弾のガスから身を守り、街中の防火栓を開け、防御態勢を固めつつ、次々に加勢する市民を巻き込み、警察隊らに圧力をかけていきます。間もなく議決発表予定時刻の10時になろうとしたとき、人びとは警察隊らを包囲し、一気に国民議会場に突入します。その後は、これまでにご報告した通り、これまでに権力を傘に、搾取をしたと思われる人びとへの仕返しが始まったといいます。
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こんな話を聞き、やはり今回の政変でも30名もの若い命が失われました。これだけの規模にしては、ずいぶん少なく済んだな、と感じつつも、やはりこうした犠牲の元に政治は浄化されていくのだな、と思わされました。友人の一人が、こんな機会だから、ということで墓地に連れていってくれました。彼らのうちの7名は、市の中心部の西側のグンゲという地域の墓地に埋葬されていました。損傷が激しかった他の犠牲者の遺体は、早々にそれぞれが埋葬したそうです。
それぞれの生年を見ると、10代~40代の働き盛り、これからのブルキナを支えるべき青年たちでした。彼らは、この民衆の代表として、この墓地の入り口のところに並んで埋葬されています。
そして、なぜこの墓地だったか、と言えば、1998年に凶弾に倒れたジャーナリスト、ノベル・ゾンゴが埋葬されているからでした。ノベル・ゾンゴは、コンパオレ前大統領の不正を暴くために取材を重ねている最中、何者かに(フランソワだといわれている)襲撃され、何名かの仲間と共に斃れた、トマス・サンカラと並ぶブルキナファソの政治的英雄です。それから15年が経ち、30名の犠牲者を出しながらも、ノベル・ゾンゴの仕事が再度注目されることになっています。前政権の不正を暴き、ゾンゴ氏らを襲撃したのが誰だったのか。連日、ラジオではこうした話が流れています。
国民的英雄、トマス・サンカラは、この国を、「ブルキナ・ファソ」(高潔な人びと)と名付けました。とても貧しいこの国には、もちろんいろんな人がいます。個人的な経験でも、とんでもない奴はたくさんいました。しかし、今回の政変で、不必要な犠牲を一切出さずに、一貫した正義を貫き通すこのやり方は、実に称賛されるべきものだと思います。
昨日も同じようなことを書いた気がしますが…1か月半ほど前に、国政のシンボルに破壊の限りを尽くした人たちは、今日の暮らしのために、しかも明るくマルシェを駆け回っていました。人のなりわい、生活とはなんなのか。何のために生き、何のために死ぬのか。そして、僕は観察しているだけでよいのか。今日もいろんなことを考えさせられました。
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