『風立ちぬ』宮崎駿監督

 
 

帰国して数日間、なんとか時差ボケも治り、生活も少しずつ日常を取り戻しつつある。

実は、あまりキャッチアップしていなかったのだけど、嫁が前売り券を押さえてくれたので、『風立ちぬ』を見に行ってきた。

大雑把に言えば、宮崎映画にしてはストーリーがわかりにくくて、監督の意図がよくわからない(申し訳ないけど、宮崎駿が飛行機マニアだった、というのはあとで知ったとか、こういう宮崎駿ファンでないとわからない要素が多すぎる)。

「この作品の題名「風立ちぬ」は堀辰雄の同名の小説に由来する。ポール・ヴァレリーの詩の一節を堀辰雄は“風立ちぬ、いざ生きめやも”と訳した。この映画は実在した堀越二郎と同時代に生きた文学者堀辰雄をごちゃまぜにして、ひとりの主人公“二郎”に仕立てている。後に神話と化したゼロ戦の誕生をたて糸に、青年技師二郎と美しい薄幸の少女菜穂子との出会い別れを横糸に、カプローニおじさんが時空を超えた彩どりをそえて、完全なフィクションとして1930年代の青春を描く、異色の作品である。」
http://kazetachinu.jp/message.htmlより)

こんなことが「企画書」にかかれているんだけど、宮崎的堀越次郎像と時代性がどうも一つの像を結ばない。ネット上では「老人の自慰的作品」という酷い評まであったが、少し深読みして、「古き良き麗しき日本」、それは時代自体が将来を夢見ることができた、高度成長期/『三丁目の夕日』時代ではなく、陰鬱な戦間期にさらなるノスタルジーを感じていたとすれば、こんな評が与えられるのは致し方なし、といったところか。

全てに意味を付与してしまうとキツキツな作品になってしまうけど、意味をちらつかされるとその意味を取りたくなる。逆に、意味に埋もれた無意味も目を引くので、その無意味の意味(逆説的だけど)を取りたくなる。いい作品は間(=無意味)が面白いものだと思うのだけど、この間の悪さが目立った。あと、外国語の翻訳の付け方が統一されていなくて非常に雑でいただけない。

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