ウトロ平和祈念資料館を訪問する

ウトロ平和祈念館を裏側から…なぜ表側の写真じゃないんだろ…
 

3月某日、京都府宇治市にあるウトロ平和祈念資料館を同僚の米原先生と共に訪問した。在日アフリカ人の研究をする上で日本に住む外国人の一般的な知識をつけたいと思っていたのと、前にアップした「【調査】関東大震災100年と在日朝鮮人」からの流れで、日本に住む朝鮮半島出身者のことをもう少しちゃんと知っておきたいと思ったのがきっかけなのだが、そもそも、自分が住む京都のことを知るという意味でも、一度は行っておこうと思った。

ウトロ平和祈念資料館のウェブサイトを基に、ウトロの歴史についてまとめてみる。

ウトロ、もしかすると京都、関西以外の人には馴染みのない名前かもしれない。正直なところ、私も京都に住むようになって初めて耳にした名前だ。ウトロ平和祈念館によれば、「京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。この地区は1940年から日本政府が推進した「京都飛行場建設」に集められた在日朝鮮人労働者たちの飯場跡に形成された集落」とある。

戦時下ということも相まってその生活は困窮していたが、1945年の終戦戦後もウトロに住む人びとの苦難は続く。終戦後、植民地から解放され、民族学校「朝鮮久世分校」を建設するが、1949年にGHQと日本政府により閉鎖に追い込まれれ、長年にわたり上下水道が整備されず、井戸水を生活用水とし、雨が続くと洪水が起きたという。この地域は、現在では埋め立てられてしまった巨椋池の近くにあり、大変水はけの悪い地域ということもあり、水にはずいぶん悩まされたようである。

1986年より、こうした劣悪な生活環境の改善、また、何より「深刻な人権問題」の回復を求め、ウトロ地区の住民と日本の市民の働きかけが始まった。1988年に上下水道が整ったものの、戦後この土地の所有した日産車体が西日本殖産にウトロの土地を転売、土地の明け渡しをめぐる訴訟へと発展し、結果敗訴。その後、ウトロの人びとは政府と自治体に対して請願を繰り返すが、返答すら得ることはなかった。

1986年の上下水道の整備をめぐる請願のころから、日本人がウトロの人びとの支援を始め、「地上げ反対!ウトロを守る会」を結成し、今日までウトロ支援活動を続けている。裁判敗訴後も日本人支援者たちは「まちづくりプラン」を提案し、海外にもウトロ問題を発信していく。2001年には国連社会権規約委員会から差別是正勧告を引き出すなど、ウトロ問題の改善に大きな力を発揮している。

2005年には、韓国のKIN(地球村同胞連帯)を中心に「ウトロ国際対策会議」が結成されると、ウトロの土地購入のための募金活動が始まり、引き続いて韓国政府も支援を表明、2007年9月にはウトロの土地の一部を買い取る合意書が締結された。これにより、ウトロ住民の立ち退き問題は回避された。

そして同年末、「ウトロ改善協議会」を発足させ、「ウトロ街づくり計画」が作成された。この計画の中で記念館構想が謳われる。2018年にはウトロ市営住宅第一期棟への入棟が始まり、日韓で「ウトロ平和祈念館建設推進委員会」が発足し、韓国政府からの支援金拠出も決定した。

2022年4月30日、人びとの念願が叶い、ウトロ平和祈念館が開設された。最初の一年間で13,000人ほどの来館者があったという。

【参考資料】

ウトロ平和祈念館「ウトロ地区の歴史」https://www.utoro.jp/history

NHK関西News web 2023年4月30日 https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230430/2000073373.html



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