第14回アフリカ教育研究フォーラム リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 10月 04, 2014 かれこれ4回ほど発表させていただいた「アフリカ教育研究フォーラム」。 今回は、地球研にお迎えして開催します。合宿形式で、懇親会はBBQ。発表件数23件です。聴講希望者はまだ受け付けていますので、ご希望の方がいらしたらお問い合わせください(メールアドレスをお忘れなく)。 にほんブログ村 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
【日本のアフリカン・レストラン】② Tribes(アフリカン・フレンチ) 7月 15, 2024 このレストランに初めて伺ったのはいつのことだろう?【日本のアフリカン・レストラン】シリーズ第一回目は Tribes さん。 おそらくは2002年とか2003年とかあたりではないかと思うのだけど、神楽坂を一本入った静かな街並みの中、「アフリカン・フレンチ」を標榜し、店主の石川さんはイケメン。正直なところ、最初はとてもハードルが高かった。 その後、四谷荒木町、そして荻窪と、お店のロケーションを変えて営業されてるのですが、どんどん庶民的な街に移っているような…なぜお店を移されているのかは聞いたことはほとんどないので、今度伺ってみようと思います。現在の荻窪のお店はラーメン好きならよくご存じの「春木屋」の2件隣り、という悩ましいロケーション。春木屋に行ってからTribesに行くわけにもいかず、帰りは基本的に閉まっており、いつもモヤモヤしているのがここだけの話。ともあれ、このレストランについては、石川さんが「石川コフィ」さんとして、先日『 筋肉坊主のアフリカ仏教化計画 』を上梓されましたが、石川さんの来歴はこちらにしっかり書かれていますので、こちらの本に譲りたいと思います。 店内はかなりムーディーなのですが、今回訪れた際は「青」。ご一緒した旧友たちも、入店するなり「青!」と叫んでいました。窓が青いだけなのですが、夜は外からは何も見えないのだとか。 店主の石川さん とにかくアフリカ好きの石川さん、この店に置いてあるものは、ほとんどは基本的にアフリカがらみ。ビール、ワイン、料理… さすがに「常連」と言っても怒られないと思うので、そういう立場だと説明しておきますが、ここ数年間、メニューを見てお願いしたことがなく、ここの料理を紹介することが叶いません(しかも、久しぶりに見せてもらったのに写真を撮り忘れるという…)。お伺いすることを伝えておくと何某か考えておいていただけるので、毎回それを美味しくいただく、というだけ。 チェブジェン・スンバラ仕立て 石川さんとは、ずいぶん前から、レストランと客、という関係以上のことをさせていただいています。最初は、勤めていたNGOとの「チャリティナイト」の企画だったり、イベントへの食販の出店だったりと一緒に厨房に立たせてもらったりもしました。石川さんご自身も大変なアイディアマンで、いろんなことをされています。それゆえの地力の強さのようなものもあり、お話も実... 続きを読む
ブルキナファソ・カメルーン調査② ブルキナファソ 10月 28, 2019 今回のブルキナファソ滞在中、ほんの一瞬だけコングシのプロジェクトのサイトを訪問。おそらくしばらくこちらに来られないことを考え、ご挨拶と事情の説明をした。 今年は雨の降りが悪く、昨年44回あった降雨が、今年は22回。ソルガムの茎は細く、かなりの数が風で倒れてしまっていた。それでも、ラッカセイやササゲはそれほど悪くないようで、何とか食いつなげるか、というところらしい。 採れたてのラッカセイ この地域、ほぼレベル4のあたりに近く、僕が訪れる数日前にも、同じ県内で襲撃事件があった。とても気になるのが、「温和なブルキナべ」の間にも、かすかに民族間の亀裂が見え始めていることだ。現在の西アフリカの混乱は、表面的にはいくつかのイスラーム過激派が引っ掻き回していることがその原因だと思われているが、ブルキナファソはこの騒動の中でも周縁部にあたり、マリやニジェールのそれとは若干様相を異にする。 ブルキナファソ、特にモシ社会の中では、イスラームと言えば、ヤルセ(マンデ系)、ハウサ、そしてフルベがその中心にいるが、通商民であるヤルセやハウサは比較的うまく溶け込んでいるが、遊牧民「だった」フルベは、様々なレベルで農耕民とコンタクトを持つ。よくあるのが、フルベがモシの家畜の世話をし、その見返りに穀物を獲得する、また、フルベの家畜を農耕民モシの畑に駐留させて土地の回復を担う、など、持ちつ持たれつの関係性を保ってきた。しかし、人びとの間で、ジハーディスト☞ムスリム☞フルベという連想ゲームが共有されるようになり、そして、実際に起こる暴力事件(もしかするとイスラームの文脈とは一切関係なく)がさらにそれに拍車をかけている、という図式が定式化されてしまっているように見えた。 前回の調査では、調査地の村に住む、フルベの家族の下を訪れたが、どことなくよそよそしかったし、これまでほとんどNGOの支援を受けていないようだった。この村に畑を借りているので、説明に訪れる段になると、NGOの代表は事前に電話をかけて、フルベの様子を探り、私が村に着くと、カラシニコフをもったクリストフさんが…彼は狩人なので、銃を持っているのはあり得ることだが、完全に護衛である。畑の巡検は和やかに進んだが、状況はここまできていることはとても残念なことだ。 ラファエルさん(右)とクリストフさん(左) 調査... 続きを読む
【セネガルプログラム】ゴレ島:15年の時を超えて 11月 11, 2024 ゴレの日の出:学生たちと朝から海に行きました 2007年3月、修士論文を書き上げた私は当たり前のように博士課程に進むことにしていました。後に酷いケンカをしてしまいましたが、某先生の心遣いにより、セネガルに渡航することとなりました。これが私のセネガルとの出会いでした。 セネガルに渡航する際、どのようなことを見に行くのか、本や新聞記事を読みながら、セネガルでどんなことをするのか、ということを思いめぐらしていました。それまでブルキナファソで進めていた、ラスタマンについての研究をセネガルに派生させる形で、セネガルにもう一つフィールドを作るようなイメージを持っていました。そのような訳で、私の最初のそして最大のミッションは、セネガルでラスタマンに出会うことでした。 今、考えれば、当時の無知(もっと勉強してから行けよ!)が小恥ずかしいですが、セネガルに「ラスタマン」はいない…が、ラスタマンのような人たちはたくさんいる、つまり、ムーリッド、バイファルがそこらへんにいるのでした。 初めての滞在中、様々な人に「ダカールにラスタマンはいるか?」と尋ね続けていると、しばしば「ラス・マハ」というラスタマンがゴレ島にいるらしい、ということが分かってきました。そして、確か滞在も終盤に差し掛かったころ、ダカールで知り合ったバックパッカーの青年とゴレ島を訪れ、ラス・マハの営む宿泊施設に泊まり、深夜2時までラス・マハと植民地主義について語り合ったのでした。 ラス・マハ それから15年。昨年のプログラムの際に再開を果たし、その時に約束した通り、今年度ゴレ島に宿泊し、ラス・マハと学生たちと濃密な時間を過ごすことができました。奴隷の家でのラス・マハの解説は、きっとどのガイドさんよりも熱いものだったと思いますし、宿泊先として用意してくれた一軒貸しの家も素晴らしく、環境についてのワークショップも最高でした。 夏のプログラムの報告をだらだらと書いてきましたが、そろそろセーターが必要な季節になりました。これで一区切りとしたいと思います。このプログラム自体は、大学のカリキュラム変更のため、今年がほぼ最後ではないかと思います。アフリカ界隈からは、暖かい目で見守っていただき、アフリカと日本の実質的な架け橋として、たくさん応援もいただいていただけに、4年で終わってしまうのは残念です。しかし、なかなか良い経験でしたし、大きな... 続きを読む
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