遠藤哲夫(2013)『大衆めし 激動の戦後史-「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』筑摩書房


いつか食文化がしっかり語れるようになりたい、と思って少しずつ集め出した「食」に関する本は、20冊に達しようとしています。人間の生活の最も基礎的なものでありながら、あまりにも生活に密着しすぎているためだろうか、なぜか語りにくい話題であったりもする。

【目次 細目はのぞく】
まえがき 「いいモノ」食ってりゃ幸せか
第1章 激動の七〇年台初頭、いとしの魚肉ソーセージは
第2章 クックレスの激動
第3章 米とパン、ワインとチーズの激動
第4章 激動のなか「日本料理」はどうだったのか
第5章 さらに日本料理、食文化本とグルメと生活
第6章 生活料理と「野菜炒め」考
第7章 激動する世界と生活料理の位置
あとがき 大衆食堂のめしはなぜうまいか

この人の言うことはいちいち鋭い。遠藤氏が指摘する「日本料理」が「創られた料理」であることは重々承知。でも、なんとなく、日本酒を飲りながらチミチミつまむあのスタイルには落ち着きを感じてしまう。いわゆる「日本料理」は「料理」(加工)することよりも、素材の持つ味をいかにダイレクトに伝えるか、むしろ、素材をいじらずにいかにそのまま出せるようにするか、というところに美徳があると遠藤氏は指摘する。たしかに。小皿がチミチミあって、なんか食べた気はするけど、なんか「めし」な感じはしない。食事マナーまで含めて、どこか、形式論的な感じがして、「食事」本来の意味を再考させられる。

こういう、形式的なものがどこまで重要か。学問の世界でも、形式を文化と捉える動きがあった一方で、その反動として、生活の中にある顕在化しない形式を抽出しようとする動きがあった。歴史学のアナール学派がその代表だろうし、文化人類学では、そもそも社会の構造をあぶりだそうとしたわけだから、何か形式的なものを懐疑的に見る、という思考性では共通していると思う。この著者には、こういう反骨精神を感じる。

この本で一貫しているのは、ずいぶん長く続くグルメブームへの批判的なまなざしと、「めし」(この響きはとても好きだ)を食うという人間の根幹をなす営みを再考せよ、というメッセージだろう。そして、雑学的にも面白い情報がたくさん載っているのもよい。

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