セネガル調査もボチボチと。そしてNという村のこと。

今日は金曜日。多くのイスラーム地域では金曜日は安息日。近代化された都市とはいえ、金曜日の午後はほぼ何も動かない。僕も日曜日のお昼頃の出発なので、これでほぼ滞在中の日程は終了。

どこにいてもそうだけど、いろんな人に突然訪ねて行って振り回して、また会いたい人には振り回されるという、常に機転を利かせる注意を払いながらの滞在だった。しかし、少し仕事としてもリクエストから飛び出て、帰ってからなんといわれるか不安をもちながらも今回は少し大胆に攻めてみた。でも、慎重に相手に物事を伝え、誤解が極力ないように。

 
そんななか、2008年のセネガル初渡航以来、6年ぶりにNという村を訪れた。この村にDaara(学校)と呼ばれる区画がなされ、ここにSBMという聖者を中心としたムーリッドコミュニティーが形成されている。6年を経た現在、どのように変化しているのか、どのような活動が行われているか、そして、今のプロジェクトの仕事がここでも可能か、ということを視察するためである。
 
ちなみに、写真は本文とは関係ないので、あしからず。まだ多少企業秘密の部分があり、行ったあたりの写真のみにて、ご理解いただきたい。しかし、西アフリカに行きなれた方なら、この下の写真は少し違和感を覚えるかもしれない。セネガルは、おそらくはマグレブの影響が強いこともあり、馬が多い。馬耕が牛耕よりも多く、ダカールなど都市においても、ロバよりも馬による運搬が盛んだ。これを書いているホテルからも時折馬のヒズメの音がしばしば聞こえるほどだ。

閑話休題。

そんなわけで一泊でN村に行ってきたのだが、いやはや、まず驚いたのは、電気も水道もなかったあの村で、インターネットすら使えるようになっていたこと。一緒に行ってくれたPは、「そうだっけ?もう電気がきたのはずいぶん前だぞ」と。どうやら、前回僕が滞在した直後に開通したらしい。そして、以前から医療や学校、また他のこのあたりの村同様に産業のなかった寒村のこの村に、クリニックを建て、学校を開き、さらにセネガルを代表するほどのクオリティの衣料産業をつくりだしつつある。そして、さらにNから12㎞ほど離れた集落(SBM師の祖父の実家)に新たなDaaraをつくりだしたところだった。

以前はもう少しストイックなイメージが強かったこの村だが、相変わらず欧米からのボランティア(?)、滞在者が多く、それぞれが特技を生かしたり、なんとなくそこにいたり、きっと僕以外にも人類学者など研究目的の人もいたのではなかろうか。大学生がスタディツアーのような形で滞在という人も見られた。

ダカールからせいぜい150㎞ほど内陸のこの村なのだが、冷涼で湿気のあるダカールから来ると、まさしくサーヘルの様相。これまで僕が調査してきたニジェール、ブルキナのどちらに似ているか、と言えば、その土壌や植生からするとむしろニジェールに近い。ダカールの華やかさから100数十㎞のところに、突然対照的な世界が広がる。どう形容していいのかわからない、この国の面白さがあるように思えた。

今のところ、これ以上突っ込んで調査をする機会はそれほどはない。あったとしても数年後の話だ。しかし、ここもまた魅惑に満ちた興味深い場所であること、何か少し縁なども感じながら、今回のセネガル調査を終えようと思う。

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