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「食文化と博物館 食べるフィールドワーク」2月8日@中部大学

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今年度は県内の短大で食文化についての講義を頼まれた。中尾佐助、小泉武夫…と並み居る大御所の中で、石毛直道氏の著作はもっとも参照にした文献だった。 調査地の幅の広さ、食器や料理器具、所作に至る、食にまつわる分析枠組みは非常に参考になった。すでに第一線からは退かれていることもあり、なかなかお話を伺える機会は少ないのだが、2月に講演会が設定されたので、さっそく予約した。 これ以上食欲が増してしまうのは困るが、「研究」のためにて。

グローバル化するプロ野球にも文化相対主義を

ドラゴンズに川上憲伸が帰ってくることが決まり、何やら福留も帰ってくるとかこないとか。数年前の雄姿を心躍らせて見ていた身としては、さほど活躍できなかった彼らの今の実力に小さな疑問符を打ちながら、とても楽しみにしている。 我々の世代では、野茂がメジャーに行ったあたりから日米間野球交流が本格的に始まったと認識しているのではないだろうか。あのころ、メジャーリーグにどんな選手がいたか、など、精々昔ベーブ・ルースがいたことを知っていたくらいで、まったく知らなかった。時々、どこかの球団がメジャーで活躍したxx選手が云々…ということを新聞記事で読む程度で、何がなんやら、だった。 あれから10年以上経ち、ずいぶんたくさんの選手がアメリカに行き、大半は夢破れて(たように見える)日本の球界に帰ってきた。「メジャー帰り」…確かに。しかし、その後メジャーに行く前よりも活躍できた選手は少ない。にもかかわらず…今年もたくさんの選手がメジャーを目指した。 ダルビッシュもその中の一人だったけど、彼の「勝負がしたかった」というのは、野茂以来のさわやかさがあった。ほかの選手はどうだったか。確かに、野球/Baseballが生まれた土地、アメリカは野球先進国、それは間違いないだろう。しかし、それにしても、「プロ」選手が自分の力/性質を客観視できない、ということもないだろう。 選手がどこでプレーをしたい、ということでどこに行こうがいいのだけど、たとえば、なんで野球が盛んになりつつあるところに行こうとしないのだろう。いろいろとそんなことを考えつつ、ストーブリーグの選手の言動を見ていると、彼らの発言がパターン化してい「た」のがわかるし、さらに、最近では、メジャーに行くことが、ちょっと一流になったら誰も疑わなくなってしまった感じさえ受ける。 たぶん、もう日米の野球の技術的な差などは対してない。むしろ、すでに違うスポーツだとする意見も目にする。そこで、我々の学問が共有する「文化相対主義」というのをプロ野球選手にも提案したい。文化相対主義というのは、「文化には優劣はなく対等だという大前提があり、そのうえで、まず、ある文化を外部文化のものさしでは測れない、という態度を保持すること。そして、自文化の枠組みを相対化したうえで異文化を相手側の価値観から理解すること」だ。 行くなら行ったらいいけど、僕ら「プロ野球」ファンは、でき...

何年か前なら最強だ。

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本日の『中スポ』。驚いた。川上憲伸が中日に復帰、という記事が… 川上が抜け、今のエース吉見が育ち、投手王国を築き上げた。確かに魅力的だけど、年齢のこととか、年俸でもめまくったこととか、メジャーでまったくうまくいかなかったこととか…確かにガッツあふれるプレースタイルはなかなかファンを魅了するのだが、なにかしっくりこない。憲伸は数字が悪いのに勝ちがついてくるパターンの投手で、吉見などの数字に基づいた成績を残す投手とは毛色が違う。ほかに川井などはそのタイプだけど、徹底的に内野ゴロを打たせるタイプだから出会いがしらで打たれるのが数字に反映されているから。しかし、以前のパワーピッチング、三振を取りに行くピッチングのままなら、もしかしたら難しいかな、などとも考えてしまう。 今年はもう一人、山崎武司がドラゴンズに戻ってくる。話題性は十分。間違いなく彼らが何年か前のままならムチャクチャに強いチームになりつつある。「何年か前の状態なら」間違いない。少し期待して見てみよう。今年も野球は楽しくなりそうだ。

立ち止まる

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23日に一足早く今年度のイベントらしきものの大部分が終わった。もちろん残務処理はまだ残っていて、もう一つ新しいプロジェクトはあるのだけど、本当にとりあえず一段落。残務処理と準備を少しずつこなしているのだが、その先のことは返事待ちの何件かが決まってから、ということで、いったん立ち止まってみようと思っている。 よく考えてみたら、11月の出張前から怒涛のように日々が過ぎて行った。広島⇒福岡旅行でずいぶんリフレッシュできているので、追いつめられた感はないけど、やり残したことは多い。特に10月末の次世代育成セミナーで叩いてもらった論文がほぼ手つかずな状態であること、あともうひとつ、在日アフリカ人の論文が一本浮いている。 まずは一昨日あたりから、ストリート・チルドレンに関する論文を洗いなおしてみる。「アフリカ研究」であり、「NGO研究」であり、「子ども研究」であるこの論文は、後々考えてみると、ずいぶんたくさんの概念にがんじがらめで、本当に必要だったいくつかの研究、たとえば、「ストリート・チルドレン研究」や日本の「寄場研究」、「ホームレス」研究と言った蓄積のある分野を飛ばしていたことを指摘され、また、自分でも気が付いた。「在日アフリカ人」の研究もしかりで、昨日プールで泳ぎながら考えていたら、たくさんのことをやり残している。 今の身分、今の時代、たぶん控えめにしていたのでは喰いっぱぐれてしまう。一つ一つ。一歩一歩。そして時に立ち止まって見直さねばならないことがたくさんあったことを感じたここ数日間。 にほんブログ村

花祭りシンポ

あれ?S田さんが一生懸命作ってたポスターがHPにアップされてない… 我らが名大比較人文学講座が長年力を入れてきた奥三河の「花祭り」。毎年シンポを張って積極的にアウトプットしているけど、今年は特に大きくやっている。なぜが西行学会が、文化人類学会東海支部と共催。明日は談話会(文化人類学会東海支部)も。 http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/research/society/12122/ 今日は鈴木先生のお話のみ伺ってきた。奥三河から南信濃にかけての広域に広がる祭祀に関する総合的な解説がとても勉強になった。昨日も研究会でその前も立て続けにいろいろあったので、ちょっと眠くて今日はこのあたりで。

宮本正興教授退職記念シンポ

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アフリカの文学研究の大御所、宮本先生が退職される。その記念シンポに行ってきた。 宮本先生がアフリカ文学の研究を始められた60年代、きっと日本のアフリカ研究はまだまだ「探検隊」の雰囲気をたっぷり残し、「未開」を知る研究が多かったはずだ。この時代の研究成果は今でも僕らアフリカ研究者にとって、とても大切なものだ。 もともと言語学を専攻された宮本先生の慧眼はこの時代の「文学」に目を向けたことだ。この日の講演でお話になった砂野先生などもおっしゃっていたが、現在の大学では文学研究は衰退している。その中で、文学に現れる人々の思想と渇望。アフリカ(に限らないが)の声を聴くには、こうしたテクストを紡ぐ力を育て、そして、紡がれた声に耳をそばだてることの大切さ。 残念ながら、宮本先生とはお話すらしたことがない。しかし、穏やかな表情で丁寧にお話になる宮本先生のお人柄が読み取れたような気がする。きっと教育者としても素晴らしい方だったのだろうな…と。 ともあれ、アフリカ研究オールスターズのようなシンポ。ちょっと得をした気分で帰宅の途に就いた。

田中慎弥氏を思う。

ここ数日間、もっとも世間を騒がせているのは、芥川賞を受賞した田中慎弥氏ではないだろうか。石原慎太郎氏との掛け合い、受賞のインタビューなど、ここ数年で記憶にないくらいに盛り上がっている。 さまざまなメディアで報道されているが、日経ビジネスon lineの小田島隆氏の記事( http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120119/226297/?mlp )は白眉だ。残念ながら田中氏の作品は未読で、名前すら今回知ったくらいなので、田中氏がどのような人物かということを知らなければ、芥川賞とか直木賞受賞作など、ブックオフで安ければ買う程度にしか注目もしてこなかったので、いわゆる文壇のこともよう知らない(一応、文学研究科の院生としては恥ずかしい話だが)。 小田島氏によれば、選考委員は任期はなく、「選考にあたるメンバーが、受賞作の販売元となる企業の差し向けた人間のみで構成されており、賞を得た人間が、その文学賞配給企業御用達の選考委員諸氏に対して麗麗たる感謝の言葉を並べている現状」(小田島氏)なのだとか。なんだ、出来レースだったのか…今まで僕の生活にあまり関係がなかったので、関心がなかったけど、なんかガッカリ感がある。 石原都知事のパフォーマンスに田中慎弥氏の応答、石原氏の再応答、順を追ってみていくと、小田島氏の指摘した、文壇自体の問題は非常にリアリティをもっているように感じる。プロレスのような境界的なエンターテイメントなら、ジャッジが演壇に包摂されていてもいざ知らず、小説はせめてガチであってほしい。たとえ、この騒動が実は石原氏と田中氏が仕組んだパフォーマンスだとしても、個人的にとても楽しめたので、これから生協で田中氏の本を買ってみようと思う。受賞作はしばらくして文庫化されてからにさせてもらおうと思うが。

なんとか乗り切れた。

先週から今週にかけて怒涛の1週間。溜まる書類、4回のプレゼン… まだ新年が明けて2週間ちょっと…しか経ってないんですね~。フルスロットルで走りきった。そんなわけで、今日は一日完全オフにした。これからやることを整理したり、寒中見舞い書かねば、とちょっと書いてみたり… なんとか乗り切った(というか「大惨事」はなかった)けど、ちょっと反省を込めてのメモとこれからやることを書いておこう。人前で宣言しておいた方がいいだろうから。 昨日は「都市」についての講義、人類学を専門としない院生と大御所。こんな環境の中で、大御所先生からは、人類学の基本用語としての「都市」について説明せよ、というのがリクエストだったと思う。やったことはないけど、ひたすら学説史とか「都市」概念の変遷とか、ということでもよかった、と思ったのだけど、きっとつまらんだろうな、とか、どこまで話ができるんだろうとか(自分の能力と準備する時間と…)、いろんな問題があった挙句、学説史も少し説明しながら、メインを学会やらでの発表をフルバージョンを準備して臨んだ。 結果的に、あんまりおもしろくないものが出来上がってしまった。やはり学説史でしっかりやればよかった。大御所先生がやんわりと、「非常勤、やったことある?」と聞いてきた。ちゃんと説明できてなかったんだろうな…というのがよくわかった。実感もあった。なわけで、1月~3月、しっかり本を読み、学説史をまとめる、これをやろうと思う。 ほぼ自営業(自由業)なので可能なこの休み方。いいんだか悪いんだかわからないけど、少し無駄なこんな一日。明日からリフレッシュして次の目標に向かおう。と言っても、相変わらず「読んで書く」、これだけなんだけど。

アフリカの子ども学会合20120115

昨日「アフリカの子ども学」の会合に伺ってきた。研究者、NGOのスタッフが中心となって、来年度以降のテーマ、予定を話しあった。 この研究会は、亀井伸孝先生が出版された、 2010. 『森の小さな〈ハンター〉たち: 狩猟採集民の子どもの民族誌』 京都: 京都大学学術出版会. この本に纏わって、NGO、教育研究、人類学もろもろと集まって立ち上がった。昨年から2度の研究会を開催した。前回( http://cacaochemise.blogspot.com/2011/10/in-nagoya.html )は僕もコメンテーターとして呼んでいただき、なかなか興味深い議論に参加させていただきた。 今回の会合で面白かった部分を何点か。 この「アフリカの子ども学」、「アフリカの」「子ども学」か、「アフリカの子ども学」か。つまり、「アフリカの」というところをどうとらえるか、言い換えれば、この研究会の突き詰めるところはどこか、というところがまだしっかりと決まらない。この会合に出席している全員がアフリカニストであるにも関わらず、「アフリカ」だけでは発信力に乏しいことを十分に理解していることは共通認識にある。 そして、今まで微妙にとらえどころのなかった「子ども学」に力点をいれて、幅広い意見交換を志向すると、どうしても「アフリカ」をやってどんなことが言えるか、また、みんな食いつくのかというところに行きつく。アフリカを愛するアフリカニストとしては、痛し痒しなところだ。 研究会レベルになったとしても、アフリカ、子ども、にもう一つか二つ、キーワードが必要になりそうだ。キーワードとしては学校とか、発達とか、生態とか、たくさん出てきたけど、きっともっとあるんだろうな、と思う。個人的に、だけど、理系の人がもっとかかわってくれないかな、と勝手に思っている。 まだこの研究会も始まったばかり。コアになる人が名古屋にいる、というのもいい。なんでも東京に集めておく必要もないので、名古屋Loverな人間として、少し大切にしていきたいと思う。

スケジュール管理

会社を辞めて早8年。学生を初めて早7年。 サラリーマンだったことなんてずっと前に忘れ去り、すっかり学生気分のだらしない生活に埋没している。確か、大学院に入った時はずいぶんいろんなことがきちんとできたし、もちろん今よりもずっとテンションが高かったけど、最近のグダグダ感は我ながらあきれ果てる。今年はちゃんとスケジュールの管理、自己管理をもうちょっときちんとやろうと思う。 一昨年、ちょろっと就職したときに、配給されたPCに入っているソフトで時間の管理をした。今だからいうけど、結構使えない。それくらい手帳に書ける。ノートパソコンを持って事務所をウロウロするのが「できるビジネスマン」っぽくて一時はまったけど、実はかなり無駄。このソフト、Yahoo!にも似たやつがあるけど、時間だけを区切ってスケジューリングするもので、かなりの機能がいろんなスケジュール管理ソフト(IT、アナログを含む)と被る。 で、最近、OneNoteというMicrosoft社のソフトを使うことにした。っていうか、PCをいじってたら発見したんだけど。きっかけはさておき、かなりこれは気に入っている。 今、レジュメを何本か書きつつ、データの整理をしつつ、研究会のこととか考えつつ…と年始早々割かし忙しくしてるけど、気になったことをメモ、というのがとてもやりやすい。もちろん時間の打ち込みは必要だけど、ダイヤリー形式にするとその日一日のTodoリストみたいなのが自動的に出来上がる。フォルダはエクセルみたいな増やし方で、その月毎のスケジュールの外側に大きなテーマで挟める。もう少し熟練しないといけないけど、今年はこれを使ってスケジュール管理をしてみようかと思う。 そんなわけで。今年はいい仕事しまっせ!

『街場のメディア論』内田樹 光文社新書 2010②

この本、もう少し。 先日、教育論を少し紹介したところで、2章以降のメディア論に移る。内田氏は以下のような論点を提示する。 論点1. 「マスメディアの凋落」 論点2. マスメディアが没落してゆくのだとしたら、いったいそれに代わって、どのようなメディアモデルが登場してくるのか。 論点3. 「インターネットとメディア」 論点4. 「コピーライト」の問題。 論点5. 「書物」は存続するのかという問い。 こうした論点の中で、特にテレビが批判される。たとえば、「ジャーナリストの知的な劣化」がITの 発達によって顕在化したことが指摘される(p.38) 。そして、日本のテレビ局と新聞社の企業の構造がテレビの存在意義を損なう根本原因だという。 個人的には、二つ目の話はよくわからないのでコメントしないが、前者に関しては日々実感させられる。ジャーナリズムが批判的でなくなったら、それこそ存在意義はないわけだけど、批判と中傷は違う。ジャーナリズムの劣化は、彼らが学んでいないから、しゃべることがなくて、敵(権力)を作り上げて、大したことのないことを揚げ足をとるだけしかできなくなっていることに見られる。 たとえば、今日の「報道ステーション」でもそうだ。二本松のマンションから放射能が検出された。その原因は、セメントに使った砂利が原因だったわけだけど、古館氏はまあおいておいて、解説者氏は、この犯人を捜し始めたのだ。ほかの方はどのように思っているかわからないけど、少なくとも、小市民たる僕の気持ちは、古舘氏も解説者氏も全く代弁していない。別に東電をつぶしてもまったく面白くない。 「「世界の成り立ち」について情報を伝えることがメディアの第一の社会的責務」だとすれば、「こんなことが許されていいんでしょうか」と言って、メディアが違う次元に逃げたうえでものを語る、内田氏流にいえば、「こんなことが起きるなんて信じられない」という顔つきはまったく恥ずべきものだと思う(p.56-58)。 とりあえず『弱者』(に見える方)の味方をしてみる、「クレーマー」化したメディア…「政治=権力」が悪で、「民衆=大衆」が善。たぶん、メディアリタレシーという言葉(最近聞かなくなったな)があるけど、こんなテレビメディアをリタレイトしようと思ったら、彼らが報道することを全部疑ってかからないと...

『街場のメディア論』内田樹 光文社新書 2010①

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やらねばならないことがたくさんあるときほど本が面白い。『街場』シリーズ、実はまだ1冊目。Twitterもフォローしていて、発言が面白いので、古本屋で少しずつ買い揃えている。 僕は内田氏のような素養を持ち合わせていないのだけど、割と共感できることをおっしゃるので、このように言語化するのだ、ということをしばしば学ぶ。この本もそのような部分が非常に多かった。少しまとめてみたい。この本は講義形式で、第1講~第8講で形成されている。第1講、第2講がイントロ部分に当たる。 今回は第1講「キャリアは他人のためのもの」についてのメモ。この講は、ほぼ独立していて、内田氏いわく、メディア業界に就職を目指す人への心構えが述べられる。僕も自分なりに就職活動を経て考えたことに似ていた(もちろん僕は内田氏のように言語化できなかったのだけど)。 就職活動…僕らが就職活動に励んでいたのは、「氷河期」と言われた1995年。自分ではそれなりに頑張って、自分の大学のOBでもないのに、他大学のOBを訪ねてみたり、まだWebでのエントリーシートがなかった時代で、資料請求を150通も出してみたり。すでに「適正検査」とか、怪しい検査があったけど、実は一度も就職セミナーとか受けたことはなかった。なんか、占いで自分の好みを決められてしまいそうで。ちょっと家庭の事情があって、できるだけ給料が高いところがよかったので、好みの会社とかはなかった。 「適正」について、内田氏はこのように述べる。 「もともと備わっている適正とか潜在能力があって、それにジャストフィットする職業を探す、という順番ではないんです。そうではなくて、まず仕事をする。仕事をしているうちに、自分の中にどんな適正や潜在能力があったのかが、だんだんわかってくる」(p.18) 自分に合っているか合っていないか、は潜在的なものではなく後天的なものである。内田氏はさらに… 「与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように、自分自身の潜在能力を開花させること」(p.21) これがキャリア教育の目指す目標だという。戦後民主主義の平等主義、ネオリベ的な弱肉強食的世界観がよく反映されている就職を巡る会社と大学の間の関係、さらに生涯雇用の伝統が1発勝負の就職活動を要求する。たしかに、内田氏が言うとおり、「「適正と天職」幻想にと...

リトルワールドカレッジ[1月14日]

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今度、リトルワールドでお話させていただくこととなりました[ http://www.littleworld.jp/event/basic2011.pdf ]。「リトルワールドカレッジ」という、犬山にある野外民族博物館リトルワールドで行われている講座です。「ブルキナファソの村の生活(仮)」という題目です。 大体準備は終わっているが、ちょいと微妙…割と家屋のことをお話される方が多い中、本当にちょろっとしか家屋のことには触れられそうにない。もっと、人の移動とか、生存戦略とか、そういうことをお話ししようかと思っている。あんまり怖い人がこないといいな…。 にほんブログ村

『最悪』奥田英朗 講談社文庫

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サスペンスもの。奥田英朗の作品は初めて読んだ。Book offで購入。鈍行の旅のお供に、ということで、厚手のサスペンス。 3つのバラバラの話が次第に一つに集約されていく。町工場を経営する男性、やんちゃな若者(チンピラ)、銀行に勤める若い女性。3人がそれぞれの日常を生きる中で、本当によくありそうな落とし穴にはまりこんでいく。次第に近づいていく3人の人生、ちょっとしたきっかけで融資を受けられなくなってしまう町工場の経営者が茫然自失で銀行を訪れる、セクハラを受け仕事を辞めることを考える女性、この女性の妹と付き合う若者、そして妹の手引きによって姉が勤める銀行を襲う… かなりボリュームがあるわりに、話の構造自体はそれほど複雑でなく、とてもシンプル。無駄な描写が多くなりそうなもんだけど、かなりスッキリした文体。帰りの鈍行で一気読み。小説世界に逃避したいときにはなかなかいいかも。

そして福岡へ。

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そういえば福岡のこと書いてなかった… 広島でお好み焼きを食べ、いよいよ最終目的地福岡の連れの実家へ向かう。 山陽本線に乗り、岩国を超え、下関に向かう。電車は海辺を走る。車窓から見える海岸線(写真撮れず)、久々に読む伊坂幸太郎、暖かいシート…身体が座っているだけで運ばれることを楽しむ。 12月30日の夕方、関門トンネルを抜け、いよいよ九州へ上陸。連れのテンションがあがる。僕はこの夜から始まる宴会の酒量に少し慄く… そして…毎度毎度のことだけど、連れの実家ではものすごく良くしていただいている。いつ「お客さん」でなくなるかわからないけど、ザ・九州男児の義父さん、寄り添う義母さんにはとても気を使っていただく。義兄さんのところの義理の甥と遊んだり、温泉に行ったり、初日の出を見て山に登ったり…今回もなかなか楽しい滞在でした。本当にお世話になりました。 そして…新年2日、名古屋に向けて電車に乗り込む。途中で新幹線を使って少しずる[?]をしながら帰名。約1週間の鈍行旅が終わった。しばらく鈍行はいいかな…ははは。 にほんブログ村

広島その③うまいもの2

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広島の朝。 とりあえず、修学旅行以来の広島。広島城でも行ってみるべ、ということで広島城へ。護国神社の前、大きなカメラを持ったオバサマになぜか写真を撮られる。連れ初登場。私喰いすぎでパンパン… 多くの屋台が並ぶ城内。お好み焼きとか綿あめとかはわかるけど、なんだ「神秘」って…(後に判明したのが、「おみくじや」らしい)。 で、広島城。年末年始で休みなんで、引き返す。 広島城を管理されている方へ。 かなりのお客さんがいらしていました。是非開けましょう。 で、原爆ドームなんかも行ったんだけど、やっぱり博物館や記念館は休み。そんなわけで、喰うしかねえべ、ということで、お好み焼き。旨い! にほんブログ村

広島その②「うまいもの」1

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広島に到着した12月30日。Mさんも広島でお仕事とのことで、送っていただく。最後の最後までお世話になりっぱなしでした。 連れが「お好み焼き!」と元気に希望するも、僕のおいしいもの分析の結果、「お好み焼き」は翌日の昼でもいけるけど、おいしいお酒と「牡蠣」は夜じゃないと…という結果で、無理やり「牡蠣」にしてもらう。 そんなわけで、前菜にサラダ。これはままどうでもよい。そして… これこれ…うふふ。 ブレブレなのは、感激で手が震えたから?! 粒は小さいけど、とても濃厚な牡蠣。本当はあと20個くらい食べられたけど、今日はこの辺で許してやろう、ということで。 これも行っとくでしょ!いい牡蠣って火を通しても縮まないんですよね。冷凍の牡蠣を鍋に入れて煮込みすぎてガッカリしたこと、ありませんか? なんだかよくわからないけど、これは「さつま揚げ」。瀬戸内だと「ジャコ天」、鹿児島だと「天ぷら」かな。お店の人に聞いてないけど、間違いなく自家製。すり潰した魚(たぶんイワシなんだろうな…)の香りよく、炭火で炙って香ばしくもある。酒の肴はこうありたい。 で、〆の「カニの炊き込みご飯」。お店の人に「お茶碗1.5杯分」と言われ、小さな茶碗を想像したら、小どんぶり1.5杯分くらい(笑)。 そんなわけで相変わらず食べ過ぎたけど、大満足の広島の夜。 にほんブログ村

弓削島

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年末の旅行の続き。 Mさんに弓削島に連れて行ってもらった。Tさんを港でピックアップしてアップダウンの激しい海岸線の道をドライブ。あちらこちらに柑橘の木が。 瀬戸内を見渡せる高台で休憩。その時の風景がこんな感じ。広がる瀬戸内の海にポツポツと浮かぶ島。浦島太郎なんかの海の風景を思い浮かべてしまう。 Tさんからこの地域の祭りの話を伺ったり、その後紹介していただいたHさんによるイノシシの話、町の状況…民俗学の発表でしか知らなかった、日本の状況が目の前にあった。アフリカのことは実感を持てていたのに、意外に日本のことには実感が薄かった自分に改めて気付かされる。学ぶことは多いな、ということを気付かされた滞在だった。 そんなに簡単ではないのだろうけど、こういう海があるところで調査してみたいな…などと、少し浮気心も…

あけましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 一昨日名古屋に戻りました。せっかく旅日記を書こうと思ってPCを持って行ったのに、XDカードのアダプタを忘れ(しかも、自宅にも見当たらず…)、写真(ほとんど食べ物…)をアップできず、とりあえず中断。明日アダプタを買ってこようと思います。 さてさて、本当にたくさんの災害があり、多くのリーダーが亡くなり、ヨーロッパの経済破綻とか世の中の仕組みのほころびが表出した2011年。2011年の漢字は「絆」だそうだけど、僕としては「壊」という字を当てたい。 毎年「激動の○○年」という言い方がされるけど、たとえば、「9.11」があった21世紀最初の年、2001年とかのように本当に歴史の教科書にしっかり記されるくらいの年であったと思う。いずれにしても、世の中で起こっていることを見ていると、あんまりいい年ではなかったみたいだけど、世の中の構造がこれほどもろいものだった、ということがよくわかった年だったと思う。「その場しのぎ」というか、色んなシガラミの中で取り繕われた色んなものが壊れたというか。 僕の2011年もある意味「壊」…というより「渇」という方がいいかも。おかげさまをもって、いろんなところに呼んでいただき、ずいぶん発表もさせていただいたのだけど、インプットが追いつかない、こんなことを常々感じながら過ごした1年だった。読むべき本もあったし、読む時間も合間合間にあったのだけど、時間のコントロールが下手くそだったかな…おかげで消化不良なプレゼンスを繰り返してしまった。名古屋に来て7年。新鮮な緊張感を含んだ気持ちがなくなり、グダグダな1年にしてしまったような気がする。 そんなわけで、一度今の生活を解体してもう一度コントロールできるようにしよう、というのが年末の鈍行の中で考えた今年の抱負。 こんな話も今やありふれているのだけど、破「壊」されることは何も悪いことばかりでない。古いものが壊され、新しいものを築く、この営みの繰り返しの中で今の世の中があるわけで、その循環の一つ。去年、壊れてしまったものをもう一度真摯に見直して、新たな一歩を。そんな一年になるとよいと思う。それが、「再建」とか「再興」ではなく、「創造」につながるように。