Dar es Salaam de Ouagadougou





昨夜は韓国人Pさんと話し込んで、睡眠不足。少々疲労もたまってきたころだが、前に書いたワガドゥグのダル・エス・サラーム(平和な港=タンザニアの経済的中心)に行ってきた。お伴はいつものアミノゥ。アミノゥも場所を調べておいてくれて、11時ころからアミノゥのバイクを駆って出発する。




ワガドゥグの北西に位置するこの村は、ボボ・ディウラッソ、アビジャンへと向かう線路沿いにあった。行きは約1時間、ひたすら炎天下を進む。初めに見えてきたのは、モスクだった。とりあえず、イスラームの村であることが分かる。タンザニアもイスラームの多い地域だ。


ここで、ここを訪れた趣旨を説明する。マラブーが出てきて、話を聞いてくれる。ダルエスサラームとタンザニアをくっつけて話すと、大笑いされる。マリにも「ダルエスサラーム」という地名があり、マラブー自身、そこにコーランを学びに遊学した経験があるという。ロマンチックな僕の妄想は敢え無くここで撃沈。「ダルエスサラーム」と言うのは、コーランに出てくる7つの楽園の一つである、というマラブーの解説を聞き、まあ納得…
ただ、ともあれ、ここに来たのは、僕の妄想を確かめるためではなく、ヤルセについて調べることである。まだ、壮年の域のマラブー。長老連に引き合わせてくれるというので、お願いする。



モスクからさらに1kmほど奥に入った(方角はすでによくわからず…)ところに老人が木陰に座っている。実に人のよさそうな、好々爺という表現がぴったりくる老人である。この人に話を聞くことになる。

ここにいるすべての人がモレ(モシの言葉)を話すのだが、自分たちだけの時は、ディウラに近い言語で会話をするという。ディウラから多少のボキャブラリーを引いた言語、という説明だが…全くディウラの知識のない私たちにはなんとも確かめられない。そして、大真面目にタンザニアの話を持ち出すと、自分たちの先祖はメッカからやってきた、という。参考文献通りである。また、モシの王、モロ・ナーバとの関係もモロモロさん(前々回の記事参照)の言われる通りだった。すなわち、イスラームを携えて交易をしていたヤルセの祈りに魅せられた王が、乞うてヤルセを近くに住まわせた、というものである。ただ、少なくとも老人の曾祖父の時代からこの村に住んでおり、それ以前のことはわからない、という。

帰り道。一緒についてきてくれた若者に近道を教えてもらった。そして、アミノゥより…最初、我々が来たときに、老人たちは話をしたくなかったみたいだ、ということ。さらに、我々が「秘密(=儀礼的な話)」を聞きに来たのではない、ということで、話を始めたようだ、ということを伝えられた。
残念ながら、これ以上この村にかかわることはできない。完全に違う方向に行ってしまうし。しかし、ということは、ヤルセのイスラームの核心部がこの村にヒントが隠されている可能性がある(祈祷やコミュニティのベースではなく、モシのアニミズム的な要素が混じったもの)ということ。そこにもしや、東アフリカの要素が見られるとしたら…
限りなく妄想を掻き立ててくれる村、楽園(ダルエスサラーム)小旅行記でした。

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コメント

  1. 「ロマンチックな僕」という箇所で吹き出してしまいました。否定はしません!(>_<;)

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  2. >junkoさん
    切るとこが違っとるし…

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  3.  ダルスの由来、勉強になりました。授業で使います。珍しく早く帰っていた愚息に確認しますと、『ハディース』には確実にその名が出てくるとのことでした。「クァラーンにも出てたよーな気もする」と適当な答えでした。

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