王様の話

約900年の歴史を持つと思われるモシ王国。ワガドゥグを中心とする中部モシ王国以外に、南部にテンコドゴTenkodogo、北にワイグヤOuahigouyaを王都とする3つの王国に分裂している。

当然のことながら、それぞれの王国には、いわれがある。このあたりは川田順造さんの本をご参照になることをお勧めするのみにして…

ずっと「若者文化」の研究であることを標榜してきたが、ワガドゥグという都市を理解しようと思ったときに、どうしてもここが王都であることを抜きにしては語れない。都市のある部分が切り取られ、そこに住む住民が移動させられ、ある通りが「ストリート」と呼べる道になるためには、なんらかの理由があるのだ。その理由が何につけ、移動すべき人々が(それが偶然であったり、権力や権威が直接的な理由でないにせよ)選ばれるわけがなんらか、そのあたりと関係があるのではないか、と勘繰りたくなる。つまり、「ストリート・チルドレン」と呼ばれる子どもたちが「そこ」にいるには、遠くに王様の姿が見え隠れしたりもする。これを論証するには、ずいぶん長く話さなければならないのだが…

葬式の日、同じ足でさらに南のジバGuibaに向かった。ヤルセの長老に聞いた村である。

ワガドゥグにボゴドゴBogodogoという地域がある。ここは、モシ王、モロ・ナーバMogho Naabaがヤルセの人々に与えた土地だった。ヤルセはこの地域にイスラームを持ちこんだ人々で、モシ王は歴代にわたり、この土地のヤルセに自分の息子たち(王子)のイスラームのイニシエーションを委託していた。息子たちは、イニシエーションが終わると、ジバのシェフになる。つまり、人々を治めるシュミレーションを行うわけだ。

数代前にこの慣習は途切れ、現在の王子はフランスに留学し、ジバでのシュミレーションを体験していない。この日お会いしたのは、代理シェフで、この代理シェフですら、3代目とのこと。「伝統」に従い、コラの実を渡し、謁見をお願いする。

質問は二つで、「なぜこの地が王の統治の練習の場として選択されたのか」、もう一つは「いつころまで、この習慣が続いていたのか、もしくは、現在途絶えているとしたら、今後習慣が復活する可能性があるのか」ということだった。もちろん、イスラームについて、ヤルセについて、さらに、ここで行われるイニシエーションについて…聞きたいことはそれ以外にもたくさん用意はしていたのだが。

写真も録音も禁止され、ノートすら出せずに、調査者としてはストレスフルな中で聞き取りを行った。シェフは威厳を保ち、フランス語が話せるにも関わらず、側近ないし、アブドゥルを介して私の問いに応えるが、最後はほとんど直接フランス語で話すようになった。

川田順造さん、Eliot Skinnerと言った人々がモシの王権について分厚い研究を残している。この二人の偉大な人類学者をして、この王権のことは書けることがあまりにも少なかったことがここのところの調査で実感したことだ。きっと秘密にしておかねばならないこともあるだろうし、書くに書けない部分もあるだろう。

この質問に対しても、なかなか面白い答えが帰ってきた。まだ全く確かめられないので、詳細を書くことはできないが、このイニシエーションがどうも戦乱の時代に則した性格のものだったことが分かった、その延長線上にモシと言う民族の抱える歴史の一端が見え隠れする。

ここ数日間、これを確かめるためにはどうしたらいいのか、これが悩みどころである。

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