オマール・カナズエ その2 ヤルセであること

 

Wikipedia "Oumarou Kanazoué Dam (https://en.wikipedia.org/wiki/Oumarou_Kanazo%C3%A9_Dam)


随分前になりますが、オマール・カナズエのことを書きました。こちらももう少しまとめて書いておこうと思います。

ヤルセについても、散発的に3つくらい書きました。一つは2010年にサガボテンガSagbotengaのモスクについて、二つ目はワガドゥグの最古のモスクについて(直接的にはヤルセには言及していない)、そして三つ目にサガボテンガの調査に関して。謝らねばならないのは、ほぼほぼ中身に入れていないということです。

これまで、3回にわたり、Sagbotengaに入り、ヤルセがモシ社会と融和していった経緯を聞き取ってきました。特に、ヤルセのことを考えるうえで重要なのは、歴史的に王権に支えられた強力な軍事力を背景に、西アフリカのイスラーム帝国の向こうを張った非イスラームのモシ王国をイスラーム化させた存在であることだということです。しかし、イスラーム化の痕跡をワガドゥグを中心として見ると、どうしてもヤルセは見えにくく、より華やかな文化を持つハウサの存在ばかりが目に入ってきます(もちろん、私のワガドゥグへの関わり方にもその要因がありました)。たとえば、現存する上のワガドゥグのモスクは(土づくりのモスクでワガドゥグ駅構内に放置されているので、現存するかは不明です)、ハウサのムスリムによって建てられたものですし、旧ザングエテン地区にある大モスクもハウサによるものです。半面、ヤルセの人びとは「ヤルセ」として民族意識を前面に出すことは、少なくともワガドゥグではありませんでした。ヤルセの見えにくさは、このようにして、ランドマークがないことに加え、ヤルセが独自の言語を失い、モレ(モシ語)を生活言語としていることがあり、人口統計的にも「モシ」としてカウントされることが多いことがあります。おそらく2,3年ワガドゥグに住んでも、ほとんどの人が気が付いていないのではないでしょうか。

ヤルセの歴史については、まだちゃんとまとめていないのですが、小出しに少しづつ文字にしています。最近では、清水2023(35ページ)に概略を書きましたし、2021年に発表したものでは、もう少しまとまった形で口頭発表しています。このあたりを引き続きこのブログでも書いていこうと思います。

さて、少し長くなってしまったので、カナズエのことも。

ここまで引っ張ったので、今さらですが、「カナズエ」はヤルセの名前で、オマール・カナズエ自身ももちろんヤルセです。ヤルセは13の氏族があり、ヤルセは必ずこのいずれかです。カナズエもその氏族の一つです。カナズエは、大変敬虔なムスリムで、イスラーム協会の会長を務めたこともあるほどですが、彼の喜捨によりワガドゥグの街のインフラの多くの部分が作られたことは、ムスリムであることを超え、ブルキナファソのナショナルヒーローとなった理由です。上の写真は、ブルキナファソ北部州Yakoの近くにある、カナズエ・ダムの標識ですが、1995年にカナズエが私財を投入して作ったダムで、雨の少ないブルキナファソ北部の農業生産性を高めることに貢献しました。また、ワガドゥグ市内、モロ・ナーバ宮殿近くのSamandin地区には、「新道Nouveau Goudron」と呼ばれる道があります。ワガドゥグ中心部を南北に結ぶバサワラガ通りは、ずいぶん前から渋滞がひどく、それと並行する「新道」は裏道として使われていました。私はこの地区に半年ほど住んだことがあり、そのころにはすでに完成していましたが、カナズエが舗装化した道路として、石碑も掲げられています。

五月雨式に書いていて読みにくいのではないかと危惧しますが、記憶が薄れないうちに、書けることはできるだけ書いていこうと思います。

【参考文献】

SHIMIZU., T 'Transformation of the meaning of the space of worship of Islam Mosques in Mossi Society, Burkina Faso', International Conference for Asian Studies at Kyoto Seika University

清水貴夫2023「西アフリカ地域における創り出される「教育」の格差:イスラーム教育と公教育の共存を目指して」澤村他編『SDGs時代にみる教育の普遍化と格差:各国の事例と国際比較から読み解く』明石書店


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