もうひとつの最古のモスク~ワガドゥグ歴史の点~
昨日で今回の調査、最後の記事にしようと思ったのですが、もうひとつ。
先日のSagbotengaの時の写真を届けに、再び古老の元へ。相変わらず「カッカッカッ!」という笑い声と共に、いろいろなことを教えてくれる。「今日はワガドゥグの最古のモスクに行け!」と言う指令。以前、ハウサの古老からも話を聞いていたが、今までチャンスがなかった。
後にハッと気づくのだが、Sagbotengaのモスクを見てからここを見る必要性があったのであった。
ワガドゥグ最古のモスクは、ザングエテンという、今回の調査記事で何度か出てきた街が元々あった場所にある。現在は、この地区は鉄道駅になっている。ここに住んでいた人々がどこに行ったか、というのは、ちょいちょいと書いたので省略。
駅の裏側の保税倉庫のあたりからアミノゥ、ザカリア両氏と共にバイクで入り込む。端っこにバイクを止め、奥へと歩いて行くと、こんもりとした小山が…
「え、あれ?もしかして…」
近寄ってみると、崩れかけた建物の跡。
1920年ころに建てられたこのモスク。先に述べたように、ザングエテンという外国人(ハウサ)の街に建てられた。植民地時代、鉄道敷設、駅舎建設のためこの地域が選ばれた。モロ・ナーバの王宮も以前はこの近くにあり、どうもこの鉄道関係の工事のために現在のところに移設したらしい。本当にフランスという国は乱暴だ。
当時の人々も相当怒っていたに違いない。なぜなら、こんな話が伝わっている。
「駅を作ったのに、このモスクがこのままにされているのはなぜか。
もちろん、当時のフランス植民政府はこれをどかそうとした。しかし、ブルドーザーでこのモスクを壊そうとしたとき、ブルドーザーを運転していたフランス人4名、この作業を手伝っていたブルキナベが3名、その場で気が触れてしまった。その後、何度かモスクを壊そうとしたが、そのたびに事故があり、現在のようになっている」
まるで清正の首塚である。この話をしてくれたのは、例の古老。イスラームはフランス植民地政府に負けっぱなしではないのである。
先日のSagbotengaの時の写真を届けに、再び古老の元へ。相変わらず「カッカッカッ!」という笑い声と共に、いろいろなことを教えてくれる。「今日はワガドゥグの最古のモスクに行け!」と言う指令。以前、ハウサの古老からも話を聞いていたが、今までチャンスがなかった。
後にハッと気づくのだが、Sagbotengaのモスクを見てからここを見る必要性があったのであった。
ワガドゥグ最古のモスクは、ザングエテンという、今回の調査記事で何度か出てきた街が元々あった場所にある。現在は、この地区は鉄道駅になっている。ここに住んでいた人々がどこに行ったか、というのは、ちょいちょいと書いたので省略。
駅の裏側の保税倉庫のあたりからアミノゥ、ザカリア両氏と共にバイクで入り込む。端っこにバイクを止め、奥へと歩いて行くと、こんもりとした小山が…
「え、あれ?もしかして…」
近寄ってみると、崩れかけた建物の跡。
1920年ころに建てられたこのモスク。先に述べたように、ザングエテンという外国人(ハウサ)の街に建てられた。植民地時代、鉄道敷設、駅舎建設のためこの地域が選ばれた。モロ・ナーバの王宮も以前はこの近くにあり、どうもこの鉄道関係の工事のために現在のところに移設したらしい。本当にフランスという国は乱暴だ。
当時の人々も相当怒っていたに違いない。なぜなら、こんな話が伝わっている。
「駅を作ったのに、このモスクがこのままにされているのはなぜか。
もちろん、当時のフランス植民政府はこれをどかそうとした。しかし、ブルドーザーでこのモスクを壊そうとしたとき、ブルドーザーを運転していたフランス人4名、この作業を手伝っていたブルキナベが3名、その場で気が触れてしまった。その後、何度かモスクを壊そうとしたが、そのたびに事故があり、現在のようになっている」
まるで清正の首塚である。この話をしてくれたのは、例の古老。イスラームはフランス植民地政府に負けっぱなしではないのである。
なぜ、このモスクを今日見に行かねばならなかったか。このモスクの建立者こそ、Sagbotengaのモスクの建立者の末裔であり、ワガドゥグの最初のイマーム。泥作りで、おそらく、Sagbotengaのモスクを模倣したような作りと大きさ…
ハウサはヤルセの創った街を頼りにキャラバンを滞在させ、ヤルセはハウサと共にワガドゥグの宗教、商業を先導した。西(マリ)から東(ブルキナファソ)へ、東(ナイジェリア)から西(ブルキナファソ)へ、北(ジボ、ヤコ)から南(サガボテンガ)へ、さらに南(サガボテンガ)から北(ワガドゥグ)へ。目的地のない旅をした二つの民族がモシ王権と絡み合った後に生まれたこの古びたモスクは、ごく最近の乱暴なフランス人に踏みにじられ、今はだれも知られずにひっそりと朽ちるのを待っているよう…
ハウサはヤルセの創った街を頼りにキャラバンを滞在させ、ヤルセはハウサと共にワガドゥグの宗教、商業を先導した。西(マリ)から東(ブルキナファソ)へ、東(ナイジェリア)から西(ブルキナファソ)へ、北(ジボ、ヤコ)から南(サガボテンガ)へ、さらに南(サガボテンガ)から北(ワガドゥグ)へ。目的地のない旅をした二つの民族がモシ王権と絡み合った後に生まれたこの古びたモスクは、ごく最近の乱暴なフランス人に踏みにじられ、今はだれも知られずにひっそりと朽ちるのを待っているよう…
「アフリカには歴史がない」
一応人類学を学ぶ私たちにとっては、すでにそんなことがあり得ないことを知っているが、ワガドゥグ、ブルキナファソの人々は、まさにそんな風に思っているようにも感じてしまう。こんなにダイナミックでリッチな歴史があるのに…スキナーというアメリカの人類学者がワガドゥグ市民を「フランス人になりたい人々」と書いたが、もしフランス人になることが、自分たちがなぜそこにいるのか、を考えることをエポケーすることだったりするなら、もう一度立ち止まってよく自分たちの足元を見てほしい、そんな風に感じさせる光景だった。きっと、一寒村だったワガドゥグが、インターエスニックな人々の結節点として機能し始めたまさにその時、このモスクが建てられ、このモスクこそ、イスラームがここに根付くきっかけになった、そのモニュメントなのだろうから。
このモスクを見た後、アミノゥのバイクの後ろに乗っていると、アミノゥが尋ねてきた。
「あのモスク、復元した方がいいのかな?」
彼自身、その地域に住んでいたことがあるが、実際に見たのは初めてだという。きっと、自分たちのルーツに触れ、それなりの感銘を受けての問いだと思う。しかし、僕は、
「それは不可能だと思う。それより、今の状態を残した方がいいのではないか、と思う。十分にブルキナファソの歴史の一ページになっているし、しかも、鉄道駅はもう動かせんでしょ?」
と答えた。アミノゥも「そうか…」と言ったが、自身、正しいかどうかは分からない。ただ、時間がたつことで、あのモスクの存在意義も大きく変化しているように思う。
調査ご苦労様です。モスクの話2題、大変興味深く読ませて」いただきました。無事帰国されますことを祈っております。
返信削除>katabira no tsujiさん
返信削除街中が飲み屋になり、各所に豚肉が食べられるイスラーム都市、ワガドゥグ。いい加減なところがこの街の面白さだと思っていましたが、深いイスラームの歴史と、現在まで厳格にコーランの教えを守る人々の存在は、ワガドゥグの人々の宗教生活の重層性を示すいい例だと思います。
また、イスラームの伝播は、商業や人の交流の歴史と重なります。実にダイナミックなヤルセやハウサの動きは、間違いなく現代のブルキナファソの経済の基礎となっているように思います。