投稿

本年もお世話になりました。

イメージ
ブログ解禁で、その翌日で店じまい。なんともなタイミングですが、2016年はこれにて。 よく考えたら(いや別にそんなに考えなくても)、僕らは年に2度一年を振り返っている。この年末と年度末だけど、そんなに何度もそれまでの一年を振り返ってみる必要はあるんだろか… まあ、それはいいにして。とにかく今年の後半はいろいろと忙しくて、結局ここまででコンプリートしているものはほとんどない状態。全部あと一歩のところ。気分的には全く忘年とか、年越しとか、どうもそんな雰囲気ではない。 地球研(前職)にいたころに大きく広げた風呂敷。研究者としては夢のような空間だったことを、今更ながら感じるのだけど、その夢は、給料よりもそういう上司と研究所の仕組みに担保されたものだった。4月に入り、広島に新たな居場所を求め、そこはある程度現実的で、部局の運営のために、外部資金をしっかりとらねばならない。つまり、それに伴ったタスクがあるわけで、今年は、この二つが一気に圧し掛かったことになる。 元上司もそれを察してか、年度末の打ち合わせで、もう一つ成果物を延期する(つまり、この後は自己資金)ことにした。「もう一つ」というのは、すでに、数か月前にギブアップしたものがあるので、都合2つということ。 2016年は一通り地球研の仕事をきれいにして、新たな課題の種まきをしようと思っていたのだけど、2017年ももう少し残りそう。 今年は貴一朗も生まれたし、できるだけ出張を減らそうと思って、調整したつもりだけど、どうも昨年よりも出張は増えていて、たぶん来年はもう少し増えるのではないだろうか。すでに、学会発表は2つ決まっているので、ルーティーンで発表しているもの2つがあるので、それで打ち止め。もう少し自分の身の丈を考えて仕事を決めないといかんな、と思う年の瀬。 結局ほとんどブログも更新できなかったけど、来年は何とか少しくらい書けますように。 にほんブログ村

ブログ解禁

イメージ
解禁とは言ってみたけど、個人的理由で、自分の生活を探られないようにしていて、しばらくの間はブログ、SNS等々自主規制していただけです。たぶん6月あたりから、前職の仕事と現職の仕事のはざまで板挟みになって、身動きが取れなくなっていて、生存確認程度の更新(ほとんどがストレス溜まってますアピール)。 何とか年末までに…と11月の出張が終わってから、かなり必死に仕事に打ち込み、完全にではないものの、なんとなく期限内に終わりそうな目途が立ってきた。まだ新しい仕事は受けられる状況でないものの、ほんの少し気持ちの面で余裕が出てきたので、またブログを再開させようということにした。 10月~12月になにをしていたかというと、10月中旬から11月末まで現職のメインの仕事のJICAの研修の受け入れのコーディネイトをし、これが終わって、1週間の間に2つの発表をこなして、2つ目の発表の翌日から、おとといまでフランスでシンポジウムに参加し、別の研究会で発表一つ、そして2週間ほどブルキナファソに滞在していた。4行で終わるくらいシンプルな予定だったのだけど、ここ何年かで一番忙しい日々を過ごした、気がする。 まだ今年を振り返れるほど年末感などなくて、相変わらず原稿とにらめっこ。細かい原稿、5本ほどなんとか年内に終わらせて、次の原稿と発表資料作成にかかります。そして、この2つが終わると再び調査x2。これが終わるのが3月中旬。それまでは落ち着かない… 来年のことをいうと鬼が笑うというけど、3月くらいまではこんな状況なんだろうな。終わったら何日間か休みを取って少しゆっくりしよう。 にほんブログ村

科研費応募の季節

「研究」っていったいなんなんだろう?「研究者」って、いったい…? という妙な自問自答を繰り返す時期です。 多くの日本の「研究者」は日本学術振興会が出す「科学研究費」によって、研究費を得て、それぞれの研究にまい進する。今週当たりがその応募締め切りにあたり、たぶん、日本中の「研究者」の睡眠時間が最も少なくなるころではなかろうか? 実験をしたり、調査をしたり、論文を書いたり、学会発表をしたり、というのが一般的な「研究者」の仕事なのだけど、たぶん、平均したら、これらと同じか、もしかするとより比重の高いのが研究資金獲得活動ではなかろうか。「政治家」が、選挙に血道をあげるように、研究者と呼ばれる人たちも、この活動に血道をあげる。政治家が選挙で受からなければ、もしくは政権が取れなければ、ただの人であるように、研究資金がない(人に認めてもらえない)ことは、研究者の存在価値にかかわるもの。 かといって、研究者が研究者であるのは、真理や科学の探求にこそ本質があるのであって、カネはその道具、手段であるはず。科研費だけなら良いけど、ほかにもいくつもこういう助成金申請をする。「その一方で」調査、執筆をする、というのが実際のところではないだろうか。 やっぱり、一体なんなんだ?「研究」って??

グッと堪えて

この前のエントリーの続き。やはり愚痴です。 例の仕事、結局おカネを出しているのは先方だけど、こちらが動かねばなんのリソースもない。結局上下関係なんてないはずなのに、かなり上からの物言いが多い。もちろん、こういう事態が起こる背景には、様々な要因があるのだけど、ここ数日間のそういうことの背景には、先方の組織内での発言の不整合が明らかにあって、おかげでこちらも何時間も費やすことになる。 切れてしまえば楽そうなのだけど、まあ、そんなことはできるわけもなく、でもメールの返信には、「そちらさんでっせ」という要素をたっぷり入れてやる。いつか味わった嫌な感覚…今やそんな風に戦える立場でもないから、ファイティングポーズもこのあたりが限界。 まあ、もうちょい。1か月がまんがまん…

ふ~

10月、11月は今の仕事について時から言われている最繁忙期。某独立行政法人からの受託事業の担当となり、全くペース配分がわからない中でボチボチと準備をしてきたのが、いよいよ本番を迎える。 地球研在籍時には、3つくらいの研究会を回していたし、上司のリクエストも意図をくみ取ってそこそこのモノを組み立てるようなことも、なりにこなしていたように思う。研究そのものについてはそれほど自信はないけど、こういう立ち回りは割と得意だと思っていた。 ところが。自分でも不慣れなところがあるから、そういう意味で差し引いて考えられるくらい余裕はあるのだけど、まあ、某独立行政法人というのが細かい。僕が雑なだけ…なのだろうけど。 それともう一つ。大学卒業後、4年間の会社生活があったとはいえ、すでにそれから10年。もちろん染み付いたやり口みたいなものが、今でもあるのには自覚的なのだけど、研究の世界は経済的な利害関係が会社に比べると少ないので、まあ、ケツの穴がよほど小さい人間でない限り、気に入らない相手に攻撃的なことはしない。基本的に放置だ。研究が苦手とはいえ、10年以上どっぷりこの世界につかれば、だいたいのやり方はわかっている。本当に久しぶりのこの感じ。罰ゲームみたいなやり取り。 まあ、前職が自由で、自由というのは仕事に使えるおカネが潤沢で、こういうタスクが少なくて、上司が放牧主義ということ(つまり、ぬるま湯)を指すのだけど。まあ、この仕事、社会復帰のいい刺激と思って頑張るしかないですね。 しかも、原稿は進まないし、科研費の申請はあるし…どこまでできることやら…

高野秀行氏との出会い

イメージ
世の中に辺境を目指す人というのはそれほど多くないもので、とうとう出会ってしまった。高野秀行氏。この人の名前は、僕の人生の中で時折顔を見せる。大方、この三冊がその象徴的な本だ。僕なりには、あるシチュエーションでは、結構なとっておきの話なので、どこかで僕がしゃべりだしても、先取りしたりしていじめないでほしい。 下からいく。 『幻獣ムベンベを追え』という、旅行記でももっともバカバカしい部類の本だけど、これは打算的になってしまった学生諸子にはぜひ読んでいただきたい本だ。今後僕がどこかで講義をして、首にならないようであれば、参考図書にしようと思っている本だ。 1999年、僕が都内の某船会社に入社して、僕の教育係になったのは、故佐藤英一さんだ。残念ながら、僕が退職して数年後に亡くなってしまった。佐藤さんは、いつも下を向いて、ことあるごとに、頭を抱えて固まっている。その集中力たるや、すさまじく、頭を抱えてしまったらほぼ人の話は聞こえない。なので、最初のころは全くコミュニケーションが取れなかった。僕は割と開放系の性格をしているから、実は10年先輩の佐藤さんよりも営業の仕事はうまかった。2年目の終わりころで、外回りもさせられ、佐藤さんはひたすら内勤。しかし、いわばコントロールタワーで、船のスケジュールはほぼ佐藤さんの手によるものだ。飲み会に参加することもなく、必要以上に話をすることもなかった。だけど、ほかの上司などから聞く、佐藤さんの話は実に魅力的で、それが、早稲田の探検部時代の話だった。たとえば、メコン川の中州の島に無装備で2か月生活して、その時には、「動くものはなんでも食った」という話だったり(これはのちに僕の思い違いかなんかということが分かった)、アマゾン川を川下りして遭難した後輩たちを助けに行ったとか…ご本人からは、一切そんな話を聞くことはなかったのだけど。 2003年。僕はこの船会社を辞めるのだけど、決意して辞表を持って、課長にそれを渡して、という一通りの儀礼が済み、いよいよ職場を離れる日が迫っていた。僕は、「課長、アフリカで生きていきたいので、会社を辞めます」とまるでマンガのような辞め方をした。そして、確か、送別会の時だったか、最終日だったか、佐藤さんが一冊の本をくれた。それが、高野氏の『幻獣ムベンベを追え』だった。そして、「君はこういう...

子守歌

貴一朗もあっという間に7か月。最近では、匍匐前進でそのあたりを這いまわるようになった。体力もついてきて、以前のように7時にはぐっすりということも少なくなり、8時、9時までキャッキャと騒ぎ立てる。一応、昼間は出勤している僕にとっては、こんな時間が長いことは願ったりかなったりなのだけど、授乳しなければおとなしく寝付かないこの時期の貴一朗を実際に寝かしつけられるのは、連れ合いだけ。なので、彼女にしたらたまったものではないだろう。 ちょっと寝かしつけてみようと思って、数十分添い寝をしてみたけど、たぶん、父ちゃんは遊び相手で、ニコニコバタバタ。こちらもそれなりに疲れていて、暗いところに横たわればそのまま落ちてしまう。すると貴一朗は飽きて母ちゃんを探し出す。それで、こんな時は子守歌だろうと思って、うる覚えの歌を歌ってみる。しかし、きれいに何にも歌えない。最近聞いている安全地帯でも聞かせてやろうか、と思うが、どうも艶っぽくて、子守歌にはどうか、と思ってしまう。そろそろ秋なので、もう少し日本の伝統的な風景を取り込んだ方がよいか…とか、そんなことを思いながら、結局また寝てしまう。 話は変わるが、このブログでも何度も書いているように、ブルキナファソ南部のカッセーナの家屋の研究。この研究は、どこかで「伝統」をいかに掬い出すか、ということからは離れられない。伝統的な手法、伝統的な景観…こうしたものが失われることを客観的に見たら、結局子守歌も似たようなもの。カッセーナの若者たちが伝統的なイエの作り方を知らないように、僕らも父母が与えてくれたものを忘れようとしている。きっと、父母も僕らの祖父母から受け取れきれなくて、零れ落ちたものも数多くあるのだろう。こうやって、時間が経ち、伝統は「伝統」になる。