真夏の法要

先週末に叔母が亡くなり、一昨日と昨日は法事のため忌引き。ちょっと遠いが関西在住だったこともあり、2日間ともに京都から通う。

普段着ることのないスーツを引っ張り出したものの、黒いネクタイが見当たらない。そして、ずいぶん前に作ったスーツで体になじまなない(太ったというより、体形が変わったようで、妙にスカスカなところとパンパンのところがある)うえ、京都は37度、大阪も35度と、オールシーズンの礼服は、もはや「オールシーズン」用ではない。とにかく暑い。

5人兄弟の母だが、親戚の中では、叔母と母が5人の中の二人姉妹だったこともあり、比較的よく行き来して話もたくさんしていた叔母。最初に母の実家を継いだ叔父がずいぶん前に亡くなり、その後、ここ数年の間に叔母と母以外の男兄弟が相次いで亡くなり、最後に残った二人だったこともあり、母の喪失感はいかばかりだろう。ここ1,2年、母から叔母のことを聞く限り、認知症が進み、母のことも思い出せなくなっていたというし、ある程度はこの日を想像できていたはずなので、ソフトランディングしてくれていることを望んでいるが。

市営の式場は十分にエアコンが聞いており、焼き場も併設されていて、通夜、告別式の間中は式場の中を行き来する程度。住職も来てくれて、とにかく遺族の負担は昔参列した葬儀に比べればとにかくシステマティック。もちろん、子どもの頃に叔母と叔父に世話になったこと、また、いとこがとてもかわいがってくれたことなどもあり、とにかく大阪の親戚に会いに行くことが楽しみだったこと。早くに亡くなった叔父はクラシック好きで、N響の定期チケットを持っていたのだけど、余るからなのか、どうかはわからないけど、東京の学校に通う僕のところによく送ってくれていて、高校生のころには何度もN響の生演奏を聞きに行った、などと、叔父や叔母の家族との思いでを回想していた。そして、よく考えれば、戦中生まれの叔母。そういえば、ほとんど戦争の話などは聞かなかった。叔母は母より3歳年上の昭和13年生まれであることを聞くと、戦争をリアルに記憶されていたはずの世代。母から聞いた戦争の話、もっと聞いておきたかったな…などと、式の間中思い出していた。

悲しい、悲しくない、という二択であれば間違いなく悲しいのだけど、87歳という長寿の部類だったこともあり、諦念もあるし、どちらかというと「お疲れ様でした」という気持ちが強い。あたりを見回せば、いとこたちも「定年」とか、いとこの子どもたちが「結婚」とか、「就職」とか…あまり親戚づきあいのうまくないうちの家族ということもあるが、時の流ればかりを強く感じてしまう出来事だった。

少し時間が止まった感じを受けた2日間を経て、仕事場に戻れば、またやらねばらならないことに押しつぶされてしまうのではないかという量の仕事を前に、再び淡々と作業を進めている自分がいた。

安らかに眠られますように。合掌。





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