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9月, 2013の投稿を表示しています

最初の一画

小学生のころ、師範の資格を持つ母の強い勧めで書道教室に通っていた。今やその跡形もないような癖字になってしまったけど、真面目に書けば多少みられる字は今でも書けると思っている。字を書くとき、最初の一画がうまく入るか入らないかで気分がずいぶんと違う。最初の一画がうまくいかないとその後リカバリーするのはなかなか難しい。 日々の生活もこれに似たようなことがあるように思う。朝一、Officeに着いて、PCの電源を入れたり、ルーティン化した作業をして、仕事の最初の一画を…これが手に着かなかったりすると、午前中は旨くいかない。でもそれでは困るので、Todoリストを作ってみたり(前の晩にやっとけ…)、こうやってブログを書いてみたりする。ブログの更新が割と朝一が多いのはそれが理由なのだ。 とにもかくにも、大きな仕事(出張と論文を投稿することと集中講義)が終わり、一瞬ホッとしているのだけど、週末の打ち合わせの結果、かなりやることがあって、カレンダーがずいぶん埋まった。今度はどこから手を付けていいかわからなかったりして…まあ、忙しいことはいいことなので、一個ずつやるか…

恐れ入りました。

集中講義初日終了。1日4コマというしゃべる方も聞く方も大変なスケジュールで、さらに初日ということもあり、ドタバタな一日だった。 9時から17時まで、8時間しゃべり倒し、コピーに走り、久しぶりにちゃんとした労働をしたような感覚を覚えたけど、よく考えたら、小中高の先生たちはみんなこれくらいの仕事を毎日やっていると思うと、「疲れた…」とは言っていられない。まだ明後日のものが不完全なので、この数時間で何とか形にしたけど、これで1週間もつかな…とか。いかに普段楽ちんな仕事をしているか…反省です。 ブログというよりツイートにすればよかった…

準備万端?

昔からスロースターターで、いつも始めるのが遅い。始めるまでに気分を盛り上げて、「えいっ!」というのがいつも必要で、古いアメ車のようなやつなのだ。 でも昨日は割とエンジンの調子が良かったというか、長持ちして、夜半まで作業をして、だいぶ作業を終わらせ、今日も午前中は職場で頑張って作業を続行してまた少し終わったのだけど、結局移動して名古屋に来て続きをやることにした。 それでもう10時か…まだ旅の疲れが残っているらしく(もう1週間になろうとしているのに…)、先ほど少し寝てようやくスタンバイ完了。やっぱりまた夜中までかな…いやはや。この習性、治らんものかな。

明日から名古屋出張です。

出張の用件は集中講義なのだけど、実は15コマやるのは初めてのこと。非常勤講師というのは昔は博士課程の大学院生か大先生がやるものだったけど、最近は、ポスドクがやるケースが多く、大方そのリクアイアメントに「教育経験があること」などとされていることが多い。 院生時代にいただけたのは、1コマだけとかだけだったので、いい年をこいて初めて教壇に立つようなことになってしまった。ここ数日間はこの準備に追われているのだけど、これは院生時代にやっておくべきものだな、と実感した。遅きに失するというわけではないけど、もっと早く経験したかった。準備段階でそれだけ勉強になっているし、きっと実際に講義をするともっと勉強になるだろう。 別に研究の才能がないから、というわけではないけど、研究室にこもるよりも、教壇に立ちたいという願望はずいぶん前から明確にあった。そういう意味では、願望が叶うことになったのだけど、教壇で得たものとフィールドや本から得たものがうまく融合していくようになるとよいな、と少し考え方が変わった。 こんな機会を与えてくれた愛知県立大学には感謝したいし、ひよっこの僕の講義を耐えて聞かなければならない学生のみなさんには持てる力をすべて出し切ることをお約束したい。 不安と楽しみと、入り混じった気分でいます。

「徳」は世界を超えて。

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【書きかけだった調査メモ。停電で仕上げきれていなかったので思い出しながら…】 クルアーン学校の調査をしているので、普段から「宗教者」にはよく接している。優秀な調査助手のおかげか、今のところ、あまりに世俗的な「宗教者」に会ったのは、1度か2度。そのほかすべての宗教者は謝礼をするにしても、顔色一つ変えず、貴重な寄進に感謝します、ととりあえずは言ってもらえる。 この日最後にお会いした方は、年の頃60歳くらいだろうか。非常に物静かな雰囲気のマラブーだった。この方、本当に珍しくきれいなフランス語を話す。ただ、儀礼的に通訳を通してだったが、大方、自分で聞き取りを行った。 その柔らかな語り口、タリベへの愛情を語るときの慈愛、「育つ」という普遍的な人間(生物)の営みの語り。演説調には決してならず、言葉が多すぎず、必要なことは話す、そんな印象を受けた。 ある程度聞き取りが終わったところで、ザカリア(調査助手の一人)がいう。「今日、あなたに会えたことがとても幸せです。もしかすると私はあなたに会うために生きてきたのかもしれません」と。カリスマ、というやつだろうか。僕も聞きほれてしまっていた。 Grand Marabous(大マラブー)と呼ばれる人はかれこれ数十人に会ってきたけど、こんなマラブーは珍しくて、僕自身、とても興味を持った。たった1時間くらいの聞き取りだったけど、この方の「徳」は文化を超えて、僕のような日本人にまで届いた。 にほんブログ村

帰国しました。時差ボケのため、妙な時間に起きて調査の反省です。

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帰国しました。帰りの飛行機は両方とも満席で寝られたのかねられなかったのかわからないほどだったけど、イスタンブールで少し贅沢してホテルを取って仕事ができたので、明日は少し緩めに行けそう…とも言っていられず、非常勤の準備が大幅に遅れているので、明日も通常通りに仕事します。 まずは、セネガル前半。メインは「アフリカ子ども学」のワークショップin Dakar。ISMというセネガルのビジネススクール、協力隊のみなさん、そして、昨年のインドで開催された学会以来短期間で3度目となるセッションを組んだ亀井先生、阿毛香絵さん、そして亀井門下のお二人とともに、まずまず面白い企画ができた。自分の発表は時間が取りきれず、英語になってしまったのが反省点。せっかくみなさん頑張って準備されていたのに…でも、こうしてアフリカの研究をアフリカでシェアできたのは大きな収穫。来年、再来年と何度もやって行くことになるとよいと思った。 そして、サンルイ、トゥーバなどを廻り、8月最後の日はゴレ島に。2度目の訪問だったけど、道はほとんど覚えておらず、亀井門下のお二人とグルグルと島を散策。しかし暑かった… 9月2日から7日まではブルキナ滞在。朝から夕方まで仕事漬け。今更どこが見たい、と言うのはないし、今回は1週間にも満たない滞在で「これをやる」しかなかったので、まあ、こんなものか。やった仕事は、来年1月に予定している統計調査の打ち合わせ、バム県の市場調査の打ち合わせと次回以降の予定の周知、後は1日だけだったけど、コーラン学校への聞き取り。調査協力者にずいぶん助けてもらって、なんとか最低限は達成。統計調査の方は僕の連絡不足もあり、実働をお願いするNGOの担当者と会えなかったのが一番の痛手。でも責任者をお願いする人にはちゃんと何度もコンタクトをしたので、何とかなるかな、と思っている。そして、コーラン学校の調査がいまいちデータが集まらない。まだ1週間程度だけど、15校くらいか。次回も少し頑張ってやらねばならんところ。 そして、9月7日にダカールに戻り、上司の到着を待つ。ここまでで原稿の締め切りが2個、あとは2年ほど寝かしてしまった原稿1本を投稿。2本の締め切り原稿は落とされることはないと思うけど、最後のやつがやっぱり日本で仕上げて行けばよかった、と後悔しながら過ごす。7日からの...

ネイションを感じるとき

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僕ら人類学徒はネイションとかネイションステイツという言葉に敏感であるはずだ。間違いなく、例えば開発途上「国」と言ったときに、この概念が発動されるし、この概念がこれらの国/地域に住む人たちの生活を脅かしてきたと考えるからだ。 しかし、おそらく身体化されたネイションはふとした時に自らに最も近しいものとして感じられることがある。 本日の調査にて… 相変わらずクルアーン学校の巡検を続けているのだけど、調査助手のお宅で食事をとっていた時のこと、一人の男性が入ってきて、彼に何かを伝える。聞けば、以前調査に行ったマラブーが呼んでいるとのこと。食事をしたのち、そのマラブーは僕に見てほしいものがあると言って、書類の束を渡す。その書類は大使館の「草の根無償援助」の申請書だった。 このマラブーはフランコ・アラブという私立のイスラーム教育とフランス語教育を行う学校の校長先生で、地域のイマーム(礼拝を先導する人)でもあり、さらに孤児院の経営まで手掛けている人で、孤児院の方で書類を書きたいという。まだ施設は見たことがないのだけど、日本の援助資金は非常にとりにくい。実際、僕自身一度かかわったことがあるけど、その書類の多さは尋常ではない。おそらく、かなり難しいだろうと思う。 難しさについては少し説明して、でも何度も出さないとダメですよ、絶対あきらめないで、ということは伝えてみる。少し僕に対する期待は感じたけど、さすがにそこまで抱え込めないので、申し訳ないけどエールを送るだけにした。 別れ際、いつものごとく、長い演説調でいろいろなことを言われるのだけど、今回、「草の根」に応募しようと思ったのは、あなたがここに訪れてくれたからだ、と。お世辞でも嬉しいことを言ってくれる。でもきっと初めて訪れた日本人の僕のことは、きっとその時に本当に思い出したことだろう。僕はその嬉しさを感じた時、これがネイションの感覚なのだ、と実感した。そして、ここの所世界に迷惑をかけている日本というネイションを背負った人間として、何かしたいと、ものすごく青臭い気分になった。今更でちょっと恥ずかしいけど。 ナショナリズムに没入することで排他的になること、たとえば、最近の「ネトウヨ」なんかの気分はよくわからないけど、こんな少し元気になるようなナショナルなら歓迎だ。そもそもどこにも属さない人間などいないのだし。 ...

ほんの少し肩の荷がおりた(出してやった)

文章を書くのは実に苦手な作業だ。こうしてブログを書くのは即興でいろんなことを書くための訓練だと思ってやっている。テーマは自由気ままにやっているからそれなりに楽しいけど、時々義務のように感じて苦痛を伴いながらの作業だ(じゃあ書くな、ということはわかってます)。 という発言から始めることにする。 実はこの1週間で2本文章を手放した。内容やデータはほぼ同じで、同時進行でやっていたので、どっちに何を書いたやらよく覚えていない。あんまりいいことは言えてない気がするし、最近自分の文章をもんでくれる人が少なくなってるから、自信というのもない。自分の目でとりあえずお見せしてもいいだろう、というところまではやっているつもりだけど、締め切りがある作業なので、あと1冊、あと一回、というのができずに出す羽目になる。でも、もう一つ出せていない大きな仕事があって、これなどもうすぐ2年になってしまう。あの本を読んで…とか、こことここをひっくり返して…なんてやっていてどうしようもなくなっている。やっと締切仕事が終わったので、これもいい加減ここ何日中に出す予定だけど、やっぱり自信がない。 しかし、出さねば先に進まないので、出す。しぶしぶだけど。何にホッとするかといえば、仕事が終わったことというよりも、先に進めるかもしれない、という微かな希望があることになのだと思う。これから査読もあるし、その直しもある。それぞれ何とか載せてくれるといいけど…これも出さねば思えないこと。肩の荷の重さは変わっていないけど、荷物の薄皮分くらいは軽くなったのかもしれない。

このオーダーが見たかった。

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今年のドラゴンズは弱い。ネット上ではもはやすでに飽きられるほど監督批判が繰り広げられたが、僕は何度も言うように、今年のドラゴンズの弱さは落合監督時代の負の遺産が噴出した結果だと思っている。 勤続疲労を起こしたであろう、浅尾と吉見。野手でも落合野球の申し子と言われたアライバもケガでスタメン出場がかなり減っている(2軍?)。中継ぎでも、個人的に岩瀬のあとを継ぐのではないかと思っていたようやく高橋が出てきたけど、ソトやらを在浜球団にとられ、2年前までの主力選手がずいぶん少ない中で戦っている。防御率なんて3点台後半で、当時から1.5点くらい下がっているから、勝てるわけもない。 でも人は年を取るし、世代交代が必ずしもうまく行くわけでもない。落合野球があまりにスタメンを固定しすぎたツケが来ているのだ。 無責任なファンとしては、世代交代をしながら勝ってくれると一番いいのだけど、そんなわがままは言いますまい。落合の「勝つことが最大のファンサービス」と豪語していたが、特にコアのファンは球団のストーリーにも思い入れを示す。固定されたメンバーで長くやると、ついついその球団の将来が心配になる。会社や組織でもそうなように、新たな力の息吹は常に感じていたいものなのだ。 たとえば、今日のオーダーは2番に堂上(弟)、7番に高橋周平のドラフト1位コンビ(しかも、近年もっとも期待された)が名を連ね、最近ではもうおっさんだけど藤井が大島の代わりに出たり、やはりドラフト1位で期待されて背番号「3」を継承した吉川あたりが入ってくるようになった。つい昨年まで投手王国と呼ばれた球団だけど、大野が出てきてくれたりすると、彼についつい期待したくなる。結果がダメでも、懸命に投げて打ち、走っている彼らなら許されるのだ。 本当はもっと戦略的にこういうシチュエーションを作ってほしかったが、結果的にそうなったので、個人的には今年はこのままこの路線で行ってくれれば満足。おそらく上に挙げた若手の何人かは今までのレギュラーを脅かす存在になってくれるだろうから。

道尾秀介『月と蟹』文春文庫(2013年)

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今は読んではいけない、と思うと手が伸びてしまう小説。調査の際の精神衛生管理のために鞄に入れておく小説は大概そんな葛藤を生み出す。 道尾秀介の小説は以前から何冊か読んでいて、ミステリーというか、少しオカルトチックなイメージがあった。結局本屋で気になった本が見つからず、関空の本屋で直感で買った。直木賞を受賞しているということで、面白くなくないわけはないだろう…と思って。 アフリカ子ども学、などとここのところ自分の研究を標榜しているけど、子どもを描くのは実に難しい。僕ら大人は必ず子ども時代を通ってきているはずなのに、その時の感情や考え方をもう一度しろ、と言われてもまずできない。忘れてしまうのか、経験の中に埋もれてしまうのか、はたまた別の理由なのかはよくわからないけど。 この本は慎二という少年を主人公を中心に進められていくのだけど、子どもを中心に親の再婚、暴力、子ども同士の友情や甘酸っぱい初恋、嫉妬や苦悩が描かれていく。解説にも「生のあやうさ」という言葉が出てくるけど、まさにそんなところを描きたかったのではないだろうか。 その中でも、ヤドカリを焼く、そこに願をかけるとそれが叶う、というストーリー設定。少しグロテスクで、子どもに特有の残酷さが如実に現れる行為は呪術的だけど、結局それは呪術的でなくて、春也の複雑な感情の蟠りから生まれ来る「行為」だった。そしてそれをわかってしまう慎二は少し大人びすぎだけど、その結果… いずれにしても、次第に雁字搦めになる少年たちが子どもであることの苦しさは、この作品では「父」という存在に求められそうだ。慎二の父はがんで早世、惜しまれながらなくなり、慎二の父の父、つまり祖父の昭三は、慎二が心を寄せる鳴海の母を事故で亡くした時に同じ船に乗っていた船乗り、男やもめの鳴海の父は慎二の母に思いを寄せ、春也の父は暴力癖がある。親を偲び、親を愛し、親に殺意を抱く…こんな風に立体的に子どもの感情を描き出したこの作品は秀逸だろう。次作も期待したい。

ダカールアウトワガドゥグイン

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一昨日は朝4時起きで荷造りをして8時発の便でワガドゥグにお昼すぎに到着。 昼間の便ということで、景色を楽しみにしていたが雲がかかっていてまったく下界は見えず…どれだけ切り崩しても終わらない仕事をしたり本を読んだり、うとうとしたり。 今回は最短の滞在で、5日間。すでに3日目。初日から打ち合わせばっかりで、なんかすかされた、将来を甘く考えているような気がするフワフワした感じで生活している。しかも、書類や論文の締め切り、その他もろもろがあって空いた時間に打ち合わせをしているという、本末転倒な情況下にある。 う~ん、早くこの状況を打破しなくては…週末からのセネガルではボスと一緒にたっぷり堪能したいし。 にほんブログ村