フィールドワークについて考えた

http://www.fenics.jpn.org/より

4日間続いた国際人類学民俗学連合の研究大会が終わった。5月13日の投稿で書いた発表が終わった。前日、というか、当日朝まで練って発表に挑んだが、結局、「学校における人類学者」という副題に少々ひっぱられて、人類学者は子どもをemicに調査できるだろうか、という課題を論じた。

"emic approach"というのはある社会を内部から、つまり、研究対象者と暮らし、彼らが何を感じ、何を信じているかを調べる調査スタンスのことをいう。語源は、言語学にあって、phonemic(音素論の)という単語の語尾にある。emicに対するのが、'etic'で、phonetic(音声学の)が語源で、社会の外側からその社会を理解するようなスタンスを指す。もちろん文化人類学は、言うまでもなくemicな研究を志してきた。


正直に言うと、僕がこれまで行ってきた調査がemicなものであったかどうか、あまり自信はない。言い訳がましいのだが、今回の発表の資料を作りながら、逆に大人であることから逃げられない人類学者が、決して戻ることができない子どもという時代、またそういう存在の織り成す社会をemicに知ることができるだろうか?そんな疑問に直面した。

上の図版は、フィールドネットというフィールドワーカーたちが組織した研究会が出している本なのだけど、こんなに自信なさげな僕も一部を執筆している。僕は7巻の「社会問題と出会う」という間の中の1章をかいているのだけど、ちょうどこの学会の準備と執筆を同時にやっていたこともあり、人類学者と子どもの関係性のようなところを考えることができた。そんな中で、やはり世代の格差というのは、emicに子どもを理解することを妨げているのではないか、と思う。

こんな風に、思考の途上にあるものをドッチラカシたような状態であったため、発表もどこか論点が定まらない雑然としたものになってしまったのだけど(ここは反省)、コメンテーターをお願いした亀井伸孝先生からは、ご自身の発表で「応答」していただいた…と勝手に思っている。亀井先生のご著書や普段のご発表からは、まさに子どもをemicに捉えようと挑戦する態度が一貫している。改めて学ぶべきスタンスである。そして、学会の中を見回しても、会話分析の手法や物質文化の研究手法もまたこの研究目的に十分に適合している。

しかし、一般的に人類学的な描写は、民族誌の個別記述のみではない。eticなアプローチも重要だ。むしろ、eticなアプローチで得た情報をemicなスタンスで切り、反論し、補強していくのが一般的な分析の方法ではないだろうか。僕はここ数年構築主義な分析に偏る傾向にあって、そのせいもあって、このあたりをずいぶん意識するようになったのだけど、それでも、eticなアプローチをとることから逃れられていない。これを差し引いても、殊に社会問題の中に閉じ込められている子どもたち、この場合、社会的な弱者、スティグマ化された人びとのことを考えるとき、その線を誰が引いたのか、広義の政治的な要素を明らかにしていくことは間違いなく必須だ。

少しずつこんなことの整理は進んでいるのだけど、emicとeticの間の線をどこに引くのか、emicなものは、実は混線しているのではないか、ということを考えると、まだまだ事例を積み重ねて考え進めなければならない。

ともあれ、こんな課題を見つけたのはひとつの進歩だし、4日間学会にこもった甲斐があったというものだ。

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